その帰結
家では、妹も母も帰っていた。
「お帰り」
二人とも、葉月とシィカが一緒に帰ったことには疑問を感じていないようだった。説明としては、彼が帰ってすぐにシィカの案内に立った、と言うのを用意していたが、それを使う前にそんな風な理解をしてくれたらしい。
「母さん、ずいぶん早かったんだ」
「ええ、シィカさんのことで警察にも行く必要があったし、それで仕事を少し早く終わらせたの」
「そうなんだ。それでどうだったの?」
「まだ何も。後は連絡待ちね。何かわかったら連絡くれるって」
母はそう言ってシィカにも微笑みかけた。
そこで母は葉月の持つ買い物袋に目を留めた。
「あら、葉月、それ何?」
彼は硬直した。全身から冷や汗が出始めた。
いや、別に後ろ暗くはない。
彼女の金で買ったのだし、それも『案内のお礼』という大義名分がある。
だが、それでもやはり後ろめたさははっきりとある。形にし難い罪悪感も、まだ心の底にあった。だから出来れば詮索はされたくない。
「これは、何でもないんだ」
「何でもないはず無いでしょう! それ、アニメ関係よね? 何を買ったの? 随分大きなもののようだけど、高かったんじゃないの? お金はどうしたの?」
「いや、それは、その」
言い訳にもならない言葉を発する葉月に業を煮やしたか、母は買い物袋を素早く奪い取り、中を広げた。それだけで、入っているのがフィギュアであることはすぐに知れる。
もちろん母にその品物の価値がわかりはしない。だが、息子の買い物に気を配ってきた経験が、それが多分に高価なものであることをはっきりと教える。
母は買い物袋を床に降ろし、今度は葉月の胸ぐらを掴んだ。
そのまま引き上げて揺さぶる。
「いったい何? こんなの、高かったんでしょ? どこからお金出したの? いったいどういうつもりなの!」
母の声は悲痛につり上がり、その目には涙まで浮かんでいた。葉月は正視できず、顔を背けるしかない。
だが、そこにシィカが割って入ろうとした。
「違うんです、お母様。私が買ってさしあげたんです。今日はハヅキさんにあちこち案内して頂いたので、そのお礼にと」
その言葉に、母は表情を変えた。
ただし、安心したのではない。激情は収めたものの、その切迫した表情は変わりない。母はシィカをちらりと見ただけで、すぐに葉月を睨み付けた。
「それは本当?」
葉月は黙ったまま、頷いた。
「そうなの。それで、買えて嬉しかった?」
葉月は心のどこかに刺さっていた棘を押されたような気がした。だから、なおさらに俯く。
「お前、案内してあげたのね? それと引き替えにこれ買ってもらって、嬉しかった?」
母の言葉は、さっき彼が納得した理屈そのものだ。なのに、今はそれがひどく自分を責めるものになっていた。
「うちの金に手を出した時も怒ったわよね。あれで懲りたと思ったんだけど、人様のお金で、こんなもの買って、お前はどこまで情けないんだ!」
その通りだ。
葉月は思った。思ったら、涙が出てきた。ぼとぼとと膝に落ちる。
すると、側からシィカが、今度は恐る恐る感じで言い出した。
「すみません、私が間違っていたのでしょうか? 私は、ハヅキさんが貴重な時間を私の為に割いて下さって、ですからそのお礼として差し出したのです。正当な報酬ではないでしょうか」
すると母は、背筋を伸ばして彼女に向き直った。
「そういう考えもあるでしょう。でも、私はそうは思いません」
それは諭すような優しい言い方だったが、同時に葉月に向かって言い聞かせるような響きがあった。
「私は、善意というものは、金に換えてはいけない、そう思ってます。金に換えたら、もう善意は善意でなくなる。そう思うし、葉月にもそう考えて欲しい。分かってくれますか?」
「はあ……」
シィカは曖昧に頷いた。母の言葉を咀嚼しているようだった。
「だから、お金は返します。おいくらでしたか?」
シィカはお金の計算はしないのに、その額は覚えていた。
母はそれを聞くと改めて目を見開いて、それから軽蔑の視線を葉月に向け、そして財布を取り出し、きっちりの金額を彼女に渡した。
それから、今までのことがまるで無かったかのように、明るい声で言った。
「それじゃ、夕食の準備よ」
ただし、未だ俯いたままの葉月の側来て、耳打ちした。
「お前、これから一年、お小遣い半分ね」
葉月はその日、ずっと顔を上げずに過ごした。
分かっていたことだった。母に言われなくても、分かってはいた。だが、どうしても我慢できなかった。それがなおさらに情けなかった。
就寝時間の前、またもドアを叩く音がした。
「ハヅキさん、入っていいですか?」
「……シィカさん?」
何とか絞り出した声は、ぼそぼそと掠れていた。
「ハヅキさん、お話をさせて下さい。お詫びもしたいんです」
「シィカさんが謝ることじゃないんだ」
ようやく言葉になったようなか細い声。だが、彼女はノックを繰り返す。
「ハヅキさん、お話させて下さい」
どうやら諦めてはくれないようだと、葉月はドアを開いた。すぐに彼女が入ってきた。
彼女も悩みを抱えたような、難しい顔をしていた。
「今日はごめんなさい。分からなくて」
「だから!」
葉月は叫き出しそうになり、ようやく声を噛みしめた。何度も謝られると、そのたびに責められているような気になるのだ。
だが、それをシィカにぶつけるのは間違っている。それをようやく思い出し、声を抑える。
「僕は駄目な奴なんだ。分かってたのに、だから、ごめん」
今度はシィカも何も言わなかった。そのまま二人、部屋の中に立ったまま黙っていた。
その沈黙を破ったのはシィカだった。
「ハヅキさん。私、ずっと考えてたんですよ、お母様の言葉」
彼は返事をしなかった。だが、シィカは気にする様子もなく続けた。
「あの言葉の意味は、まだよくわかりません。でも少しだけは分かりました。それは品位とか、誇りとかに類するもののように思います」
葉月は黙ったまま、シィカの言葉を自分の中で噛みしめていた。
何か、自分自身でも分からないが、でも大事なものものがそこにある、そんな気がしたのだ。
「それをあんな風に語れるお母様は、すばらしい人なのだと思ったんです。それにハヅキさんも」
「僕?」
思わず顔を上げた。
そんなはずはない。母のように毅然とした態度でいられなかったのは葉月だし、母の言葉に一言もなく、項垂れるしかなかったのも彼自身だ。シィカだってそれを見ていたはずなのに。
だが、目の前の彼女の笑みには曇りがなかった。
「だってそうでしょう? 私はお母様の言葉がまだよくわからない。だから混乱しながら考えるんです。でも、ハヅキさんは違った」
そう、違った。最初から全然駄目だった。
しかし彼女の言葉は予想外のものだった。
「ハズキさんは、お母様が一言おっしゃっただけで、自分の間違いに気付かれたのですよね。それはつまり、お母様の考えが分かっている、そうなんですよね?」
葉月は心臓が破裂しそうだった。そうか、そうだ。だからこそ、辛いんだ。
「私、お母様は尊敬できる方だと思いました。だから、ハヅキさんもそう。いい方に巡り会えて、私、嬉しいんです」
それから彼女はにっこりと笑った。
「ハヅキさん、明日はどこを案内して下さるんですか?」
彼女の笑顔を見た時、彼は心の中のわだかまりがすっと解けた気がした。
今すべきことは、彼女を案内して、この世界を経験して貰うこと。
「うん、今度はもっと楽しめるところへ行こうと思うんだ」