その夜
その晩は、問題もなく過ぎていった。
母とシィカは一時間足らずで戻ってきて、その頃にはかなり打ち解けたようだった。
普段より一人増えた湯野浜家は、いつもより少しだけ賑やかな夕食を迎えた。
といって、彼女はほとんど話をしはしない。
いや、口に出来る内容がないのだ。何しろ、あの路地に出てきて、公園に移動し、この家まで来た。それが彼女にとって、この世界での経験のすべてなのだから。
向こうの世界のことは絶対の秘密だし。
ただ、彼女は料理のことは幾つか尋ねていた。
肉じゃがだったのだが、彼女は材料の名、特に糸こんにゃくのことを色々聞いていた。それは調査より、彼女自身の好奇心からのようだった。
母や妹はそれに答えもしたが、その合間に彼女の記憶を取り戻そうと、色々に工夫して質問を投げかけた。
「何か、元いた場所の事は覚えていないかしら?」
「それじゃあ、気がついた時、何か印象は残ってなかった?」
しかし、彼女の返事はすべて同じだった。
「いえ、何にも」
それは当然だろう。
実際には記憶があるのだが、それは口に出来ないものだし、この町での経験は上の通り。言えるはずがないのだ。
「あ、あんまり無理をさせない方がいいと思うよ」
途中で恐る恐る口を挟んだ葉月の言葉に、母も妹も渋々と追求をやめてくれた。
と思ったら、風向きが葉月に向いてしまった。
「そう言えば葉月」
「え?」
母の言葉に顔を向けると、母の目がいつもの追求する時の目になっていた。
「あんたが歩いてたっていう道、随分裏路地じゃないの。いつもは通らないんじゃないの、そんなとこ。どうしてそんな道を?」
「あ、そ、それは……」
理由はある。
あの店を、欲しいフィギュアを見ないで帰りたかったからだ。しかしそれを言うわけにはいかない。家族の手前もあり、またシィカに知られるのも恥ずかしい。
「兄ちゃん、一昨日張り付いてたでしょ、あの店で」
「あー、なるほどね。見ないで帰ろうとした訳ね」
しかし横から瑞樹が意地悪く言い出すと、母も納得したように頷く。
二人とも前回の事は知っていたらしい。そんなに噂になってるんだろうかと、葉月は不安になる。
これで大方は家族にはばれてしまったわけで、葉月は俯かざるを得ない。
わからないでいるのはシィカだけ。彼女は不思議そうにみんなの顔を見回している。あげくに本人に聞くのが一番いいと判断したようだ。
「あの、ハヅキさんは何か?」
それは、こんな質問を発していいのかをうかがう様子。だが、母が笑い飛ばすように言い出す。
「ああ気にしないで。この子はお人形が趣味でね」
「わわ、駄目、やめてー!」
秘密をばらそうとする母に、ハヅキが必死で大声を上げる。
だがシィカにはよくわからないようだ。
「そうなんですか? ハヅキさん、また今度見せて下さいますか?」
彼女にはオタク趣味のこともわからないし、それを嫌悪する感覚もないらしい。葉月はそれに安心しながらも、俯き加減のままだった。
幸いに母も妹も、それ以上彼の傷をほじくり返すような事はしなかった。多分、身内の恥と思ってはいるのだろうが。
食事の後は母が後片づけをしている間に順番にお風呂に入ってゆく。葉月は入浴を終え、自室のベッドに腰を下ろしていた。彼の後には瑞樹が、それからシィカが入浴したはずだ。
彼女のためには客間に布団を敷いて貰ってあり、母が着替えを幾つか出してくれた。
これで数日間はゆっくりして貰うことが出来る。もっとも、彼女が滞在するのは最初から五日間と決まってはいるが。
しかし、明日はどうしたものだろう。
今日は木曜、明日は金曜日。あさってからの土日は彼女を案内できるが、明日は学校に行かなければならない。
しかし彼女の滞在時間は短い。出来る限り有効に使いたいと思っているはずだ。
それに一人でほおって置くのも、家に閉じこもって貰うのも申し訳なく感じる。
どうしたものか。
方法は無くもない。
一番簡単なのは、さぼる、というものだ。
学校へ行かない。当然親にも教師にも怒られる。
だが幸いに彼は勉強は出来ないものの、そんな点では真面目にやってきている。一回くらいならそれほどのお咎めはないだろう。
でも……。
実際の所、葉月は病気以外では学校を休んだ事など一度もなかった。
だからこれはそれなりに覚悟やら決心やらが必要で、そういう決断は彼にとってはかなりの苦手分野なのだ。
要するに優柔不断である。
仕方なしに彼女に聞いてみる。と言ってもここにはいないのだが。
「シィカタン、いや、シィたんがいいかな? ……ねえ、シィたん、どうしようか?」
思わず萌えキャラ化して呼んでしまう、業の深いオタクな葉月であった。
そんなことを思い悩んでいると、ドアを叩く音が聞こえた。
同時に彼女の、シィカの綺麗な声が聞こえた。
「ハヅキさん、いいですか?」
「はひ?」
葉月は思わず腰を浮かせた。
出てきた声は裏返っていた。
慌てて立ち上がり、ドアをそっと開ける。その隙間から首だけを出すと、目の前に彼女がいた。
シィカは風呂上がりで、母に借りたらしい長袖の黄色いパジャマを着ていた。
何度か母が着ていたのを見たことのあるそれは、彼女が着ると、全く見慣れないものになっていた。
胸元も腰回りもはち切れそうで、襟元が狭いから谷間は見えないものの、胸のところではボタンが左右に引っ張られそうになっている。
布地がそれほど薄手ではないのが救いだが、よく見ると胸のさきっちょの部分までわかりそうだった。三次元に弱い彼にはとても正視が出来ない光景だった。
慌てて目をそらせると、今度は湯で暖まったしっとりとした頬や、ようやく落ち着いたらしい綺麗な目が視界に入り、足元に目を落とすと、今度はつま先までピンクの足指や愛らしくもつやつやしい桜貝のような爪が見える。
要するにどこを向いても魅惑的な彼女のどこかが視界に入る。
仕方がないので、やや上を向いて、視線は天井に向けて、それでようやく息が出来るようになった。
彼女の方は、葉月の狼狽えぶりに戸惑う様子で、言葉も不安げだ。
「あの、ハヅキさん?」
「あ、ごめん。もう大丈夫だから。よ、用事は何?」
彼女は落ち着かない様子で小声を出す。
「まず、お部屋に入れていただけませんか」
「え、部屋?」
「はい」
彼女は当たり前のように言うが、それは困る。
何しろ彼の部屋には彼にとってのお宝が色々と置いてある。うかつに他人には見せられないのだ。
「いや、それは、その……」
「駄目ですか?」
そういって彼女はじっと彼の目を見る。
もちろん彼は目を合わさないようにしているが、その視線を感じないわけにはいかない。一〇秒と耐えられなかった。
「わ、わかった。でも、面白くないと思うよ」
「何がですか?」
「いや、その、気持ち悪いかも知れないけど」
「まあ、ハヅキさんの部屋が気持ち悪いはずがありません」
その言葉に葉月の頭にさらに血が上る。
覚悟を決め、ドアを大きく開けた。わずかに間を置いて、彼女が部屋に入ってきた。
「お邪魔しま……ふわあ?」
彼女は目をまん丸に広げ、きょろきょろと部屋の中を見回した。
彼はいたたまれぬ思いで彼女の反応を待つ。
オタク系の趣味満載、コレクションアイテムに溢れた部屋は、一般人から見れば悪趣味であり、その度の過ぎた執着が妖気すら漂わせる。
それを俗に魔窟などと言う。
彼の部屋にも、その気配があった。
壁一面のアニメキャラのポスター、本棚に並ぶ本の大半は漫画とアニメ雑誌と薄い本、一つの棚には美少女キャラのフィギュア。さらに足元にはまばらに雑誌や漫画が落ちている。
それはまさにオタクの部屋だった。オタクという存在を知らないものの目からも、業が深いことくらいは知れるだろう。
ただし救いがあるとすれば、全体に量が少ないことか。
本は一つの本棚にほぼ収まってまだ余裕があるし、壁のポスターにも隙間が多い。
フィギュアは小さな物ばかりで、数もそれほどではなく、棚二つを余裕を持って占拠しているだけ。これではさすがに魔窟と呼ぶほどの迫力はない。
これは要するに、葉月に経済的な余裕がないためだ。
小遣いも少ないから、同級生のオタク友達のように、気楽に金を使えない。本もフィギュアも中古で集めたのが多く、中には本当に拾ったものも、友人が恵んでくれたものもある。
そのあたりは、母達に言い訳したことも嘘ではなかった。
それが幸いしたのか、部屋を一渡り眺めた彼女の表情には、多少の困惑が見えるにせよ、嫌悪の表情はなかった。
「これは……ハヅキさんのご趣味なのですね」
「う、ま、まあ、そう」
「絵の方も、お人形の方も、似たような感じが多い気がします。これはどういうものなのでしょう?」
「え?」
葉月は驚いた。
しかし考えてみれば、異世界人なのだ、アニメを知らないのは当たり前だ。
そうか。だからキモがらないんだ。安心半分、気落ち半分な葉月だった。
「これは、アニメのキャラなんだ」
「アニメのキャラ?」
「たとえばこんなの」
一冊の本を取り出し、開いて見せた。それは少し前に流行った音楽少女系のアニメ『騒音 SO-0N!』のコミカライズものだった。
彼女はその絵を見て、棚のフィギュアを見比べて、納得の表情を浮かべた。
「ああ、この絵が、このお人形……」
「そう、これが初タンで、こっちが美炉タンで」
「そうすると、この絵を元に、このお人形が作られたのですか?」
「そうじゃないよ。まずアニメがあって、そこからフィギュアやこのコミックが……」
彼はシィカに日本のアニメや漫画とその周辺文化を解説することになった。
それは本当に初めての経験だった。普通は説明せずともわかっていることだし、むしろそんな話をすれば気味悪がられるのに、彼女は熱心に聞いてくれるのだ。思わず説明に熱が入ってしまう。
いつの間にか二十分ほども語って、『最近のお気に入りは『窓からマジか』という魔法少女もので』にまで話を進めていたのだ。
「わかりました」
まだ話し続ける彼を止めるように彼女は少し強い口調で言った。慌てて葉月が黙ると、彼女はまとめるように言う。
「つまり、そのアニメという動画はこの世界では人気のある娯楽で、ハヅキさんはそれが大好きでいらっしゃるのですね」
「うん。何だったら、見て見る?」
葉月は引き出しからDVDを取り出しかけた。実際にはその手の物はあまり持っていない。値段が高いからだ。
でも彼女は手を挙げて止めた。
「いえ、結構です。時間に余裕があれば見たいとも思います。でも、出来るだけ現実の世界を知りたいんです」
「あ、そ、そう。そうだよね。えへ、えへ」
慌てて葉月は愛想笑いを浮かべる。
同時に趣味に走って暴走しかけていたことにも気付いた。危ない危ない、本性を知られてしまうところだった。
「あの、それで用事は、何だったのかな?」
彼がそれを聞くまで、彼女は目的を忘れていたらしかった。はっとした顔を一瞬だけ見せ、それから笑顔に戻った。
「明日なのですが、どこかを案内して下さいますか?」
「明日……だよね?」
「ええ。とても楽しみなのです」
仕方なくまずは言ってみる。
「明日なんだけど、用事があってね」
「え? どれくらいかかるのでしょう? 私はどこで待っていればいいですか?」
彼女がそれに大いなる期待を抱いていることは明らかだった。
明日は学校があるから、夕方まで待っていてほしい……と頼むことも考えてはいたが、その顔を見ると、とても言い出せなかった。
目の前の、期待に瞳を輝かせている美少女に気圧されて、葉月はようやく心を決めた。
「朝だけ用事があるんだ。すぐにすむから、あの公園で待っていてくれない?」
「はい、わかりました!」
彼女が浮かべた笑顔は、彼の罪悪感を吹っ飛ばすだけの威力があった。
それだけではまずいので、細かく打ち合わせる。
昼間は母も仕事がある。彼女は一日一人で町に出て、自分の過去の手がかりを探す、という風に言っておくようにした。
「わかりました、ありがとうございます」
「うん。じゃあ、また明日」
そんな挨拶を交わして彼女が立ち上がった時、彼女は再び周りを見て、何かに引っかかったような表情を浮かべた。
それから、再び葉月に顔を向ける。
「一つ、聞いていいですか?」
「な、何かな?」
「この女の子達、みんな現実の女の子と随分違うんですよね。目が大きすぎたり、顎や鼻の形が変だったり。それって気になりませんか?」
葉月は困った。
それは確かに現実の女の子とは違う。でも、好きなものは仕方がないじゃないか。だが、それをどう説明すればいいのか。
「二次元だからね」
「にじげん?」
「現実より、こっちの方がずっといいよ。嫌なことも言わないからね」
彼女は納得できないという顔をして彼の言葉を聞き、ふと、表情をゆがめた。
それは、嫌悪と言うよりは、他人の傷口を見た時のような表情だった。
それを見ると、葉月の中に何かざらりと苛立つようなものを感じた。だが、それが何なのか、彼には分からない。
ともかく、この場をひとまず打ちきりにする、彼はそれだけ決めた。
「さあ、もういいよね? お休み」
「はい、お休みなさい、ハヅキさん」
彼女はさっきまでの笑顔に戻って部屋を出て行った。