まず襲来
翌朝は日曜。
でも母は朝から出かけていった。仕事ではないが、仕事がらみの用事があるらしかった。
妹は一日家にいるらしい。
だから葉月とシィカは、朝食をゆっくり食べて、それから家を出ることにした。
自転車を引っ張り出し、葉月が押して行く。これはいざというときに二人乗りで逃げることを想定したものだった。
それはすぐに役に立った。
家を出て、まず駅に向かうつもりでいたのだが、その途中で前方に目つきの悪い若い男が二人、明らかに葉月達を見てやって来たのだ。
慌てて周りを見ると、横の方からも同じような男が二人やって来た。しかも、その後ろにいたのは例のアメリカ人、マクミランだったのだ。
葉月は躊躇しなかった。
早く逃げるのが一番、逃げ損ねたらとんでもないことになる。
自分ではその誰か一人にさえ太刀打ちできない。なにしろ自分は駄目な奴だ。そんな自己否定感は彼自身が常に抱え込んでいるものだった。
だから彼はすぐに自転車に跨り、シィカが後ろに乗るのを待ちかねて走り出した。
それを見て男達が慌てたように駆け足になった。
しかも、男達が大声で怒鳴りだした。それは仲間を呼ぶ為だった。気が付くと、自転車の前に同じような男が二人、跳び出してきたのだ。
もともと退路を断つために配置されていたらしい。
葉月は慌てた。そちらに向かわないと家に帰れない。
Uターンすれば捕まる。というか戻ることなど考えたくない。他にどうすればいいか、それにも頭が回らない。
その結果、彼は理性を手放した。
考える余裕も時間もない。あってもいい知恵など出そうもない。
だから、彼は原始的な反応に身をまかせた。泣き出したのだ。
「わあああん、たすけてえ、おまわりさーーん!」
結果的に、これが良かった。
彼の進路を遮ろうとした男達が、ぎくりとして足を止めたのだ。もちろん後ろから仲間の声が飛び、彼らは慌ててもう一度動き出した。
だがその時には、彼は間一髪、彼らの鼻先を走り抜けていた。
ただし彼はそれを知らない。泣きながら目を瞑って自転車をこいでいたからだ。
それでもさすがに彼も一〇代後半であり、いつまでも泣いているのは恥ずかしい。
それにどうやら追ってくる男達がいないのも分かってきた。
彼は一度自転車の速度を落とし、後ろを振り返った。
確かに追ってくるものはいなかった。しかし安心したのはほんの少し。
すぐにさっきの男達が姿を現したのだ。ただしそれは道のずっと向こう。
だから彼は、もう一度自転車のペダルに体重を掛けた。
こうなったら家に戻るしかない。葉月は息を切らして家までこぎ続け、自転車を片付ける間も惜しんで玄関に走り込んだ。
玄関には妹の睦月が立っていた。
「あれ、お兄ちゃん、それにシィカさん?」
のんびりした妹の声がひどく場違いに思えた。だが、説明するわけにも行かない。
「何でもないんだ。ただ、シィカさんは家にいない。この家に来たこともない。僕も留守だ。わかった?」
「え、なにそれ?」
彼女にも葉月とシィカの雰囲気が普通でないのは分かったらしい。
それ以上は何も言わず、葉月とシィカが二階に上がる為に道を開けた。
二人は葉月の部屋に飛び込んだ。
葉月はそっと窓に寄り、カーテンの隙間から外を見た。
窓の下には玄関前の道路が見える。そしてその道路の向こうに、さっき見た連中が固まっているのが見えた。そして、そこには確かにあのアメリカ人もいた。彼らはだが、遠くから様子を窺うだけで、家に押しかけるつもりはないようだった。
これは実際の所、マクミランはあまり派手に動けないのだ。
彼は国外で民間人の家に強引に上がり込む様な真似は出来ない。警察を呼ばれれば逃げるしかない。
いや、普通の諜報部員であれば、国が日本政府に圧力をかけて内密に事を進めることも、必要とあらば警察の行動を押さえることまで可能だ。しかし彼は今、そんな立場でここに来てはいない。
しかも人員を要求しても蹴られたことからも分かるように、肩身の狭い立場にいる。上に求めてもそんな便宜など計ってくれるはずもない。
だから、まだしも路上で攫う方が足がつかないとの判断だったが、逃げられてしまった。
あの若者、臆病そうではあったが、それにしても逃げ出す判断において、あそこまで即決するとはマクミランも予想外だった。
彼の感覚では、男たるもの、女の前では格好付けたがるものだ。あそこで踏ん張って彼女をかばうようなふりでも見せれば、すぐに押し包み、攫うのも簡単だったのだが。
ちなみに一緒に動いているのはこの町のごろつきだ。
情報局は人員を出してくれなかったから、彼自身で人員を調達したのだ。独立した部署であるだけに、彼には自由に使える活動資金だけはある。
ただ、今回はそれが裏目に出た面もある。
何しろ元がごろつきだ。作戦遂行において、その練度に不安があったが、それが的中してしまった。警察の名にひるんで標的を逃がすなんて、プロではあり得ない馬鹿な失敗だ。
とにかく、彼は家に逃げ込んでしまった。次の手段を考えなければならない。
それに日本人が動いているのも気になる。彼は昨日、自分の後で礼宮が二人に接触したことを知っていた。彼も彼女のことを直接は知らないが、その存在は耳にしていたのだ。
そんな彼の側を、相変わらず黒ずくめの女が通り過ぎていった。
マクミランはその後ろ姿をじっと見守る。今は出方を窺うしかないのだ。
その礼宮は、ごく当たり前の顔で葉月の家の玄関に立った。
玄関のインタホンを押すと、それに答えて妹が出る。
葉月とシィカは二階の窓から彼女を見ていた。妹が対応するのを息を潜めてそれを聞く。
しばらくすると、妹が階段を上がってきた。
「お兄ちゃん、お客さんよ」
当たり前の顔でやって来た妹に、葉月は哀れっぽい声しか出せない。
「留守だって言ったのに……」
「だって、政府の人だって言うんだもの。嘘言えないわ」
そう言われると、返す言葉はない。
そこは説明していなかったのだから。でも、説明するにはシィカの秘密を明かさなければならない。だからどのみち無理なのだ。
仕方なく葉月は部屋を出た。
あの女性は少なくとも暴力的ではなかった。それだけが頼りだ。
玄関にはその女性がいた。見かけでは昨日と寸分も違わない姿だった。
「こんにちは、葉月くん。私が警告してあげてあって、良かったでしょう?」
彼は何も言わなかった。
ただ、彼女がずっと監視していたのだということは分かった。それはそれで結構怖い。
礼宮は昨日と同じように微笑みを浮かべたままだ。
「もう一度言うわね。あの子、シィカさんって言ったかしら? まだこの家にいるんでしょう? 異世界の子でしょ? だから、私にまかせて欲しいの」
葉月は押し黙ったままだ。
彼女の方はそれを気にする様子もない。
「そうすれば、あなたはもう狙われることもないのよ。私たちはあの子に話を聞くだけ。だから、私の言うことに承諾をしてくれるだけでいいの」
それから一息ついて、ゆっくりと確かめるように言った。
「あの子、異界人よね? 私にまかせてくれるわね?」
彼女の笑みが深くなり、それは葉月に恐怖感さえ与える。だが、彼はようやく首を振った。
「異界人なんて知りません。あの子は僕の親戚です」
彼女はそれでも圧迫するように彼を見つめ、改めて返事を促すようだ。それでも彼は何も答えなかった。
彼女はしばらく見つめ、それからため息をついた。
「そう。ならいいわ。また来るわね」
それだけ言って、彼女は玄関を出て行った。
後ろから見ていたらしい睦月が出てきた。
「お兄ちゃん、シィカさんってホントはどこの人? どうして政府の人が調べに来るの?」
「お、お前が気にすることじゃないんだ」
「でも、じゃあどうして」
「なあ」
言いつのろうとする妹に向かって、葉月は少しだけ声を強くした。
本当は怒鳴りつけたかったのだが、そんな声は出なかった。気が付くと膝が震えていた。
それでも妹は驚いたように尋ねるのを止めた。
「なあ、シィカさんはいい人だと思う?」
「……うん」
妹は困ったように、でも頷いた。
「お兄ちゃんは信用できるか?」
「ううん」
妹はあっさり首を振った。
心が折れそうになる葉月だったが、妹は続けて言った。
「でも、シィカさんと込みなら、信じるよ。今も、少しだけ格好良かったもの」
「そ、そうか?」
彼はかえって狼狽し、それでも嬉しかった。妹に褒められたのなんて、本当に久しぶりだ。
彼は二階に戻った。シィカは下での遣り取りを全て聞いていたらしかった。
「ハヅキさん、ありがとうございます」
「いや、まあ。でも、もう外には出られないね」
「だったら」
彼女は表情を緩めた。悪戯っぽい眼で彼を見る。
「ハヅキさんの好きなアニメというの、見せてくれませんか?」
「え、いいの?」
思わず声が踊る。彼女の方はそれほどの期待は持ていないようだ。だが、それでも声が明るくなっていた。
「ええ、外に出られないんですし、でしたら、せっかくだから見せて貰えたらと思ったのですが」
葉月は思わず声を弾ませる。恥ずかしいが、やはり嬉しかったのだ。
「分かった、じゃあ、ます一巻からだよ」
こうして二階の彼の部屋では、唐突に『窓からマジか』鑑賞会が始まった。