この兄メが
「そんな馬鹿な話がありますか!」
「ごめんなさい! でも、これは本当なんだって。帰り道で拾ったんだ」
何なんだろう、一体。
今、私こと湯野浜睦希の目の前に展開されているのは、実は何度も見たことのある風景だ。怒っているのはママ、その前で小さくなっているのは兄の葉月。
兄は高二になった今でも、いや、むしろ小さい頃よりずっとアニメが好き。いわゆるオタクの人だ。
兄はやせ形でぼさぼさの髪、陰気な顔に眼鏡、一目見ただけでオタクのレッテルを貼られそうな外見だ。そして中身がそのまんまなのが何より痛い。
三日ほど前だって、友達の優美と家に帰る途中に彼女に言われたのだ。
「あれ、睦希の兄さんじゃない?」
そう言って指さした先は、車道を挟んだ向かい側。それは地方都市であるこの町で、たった一つ、アニメグッズが置いてある店だ。
その店のショーウインドウに、文字通りにぺたりと張り付くようにしている男子高校生の姿。
それは間違いなく私の兄だった。
兄はガラスに顔を押し付け、両手をすこし広げ、手の平と腕全体をガラスに広げ、まさに全身で張り付いていた。まるで巨大なヤモリのような姿。
通行人があるいは冷やかしの目を向け、あるいはひそひそと何か言いながら足早に立ち去る。
とても見ていられなくて私が俯いたら、彼女は慌てたように話し出した。
「まあ、うちも似たようなもんなんだけどね。うちの兄貴だって、AKR47とかに夢中で、こないだも投票だとか言ってCD何枚も買って、ママに叱られてたのよ。馬鹿みたい。男ってみんなどうしてああ馬鹿なのかしら。ねえ?」
彼女はそんな風に気を遣ってくれるから、私は安心して一緒にいられる。だけど他の友達はもっとあからさまに侮蔑の表情を浮かべる。
何しろ女子中学生にとって、オタクはもっとも気持ち悪い種族だ。
兄はものの見事にオタクだ。漫画やらフィギュアもたくさん持っている。
とはいえ我が家は経済的にはあまり余裕がない。
父は小さい頃に事故で死に、母一人で養って貰っている。母は公務員だから生活に困窮するということはないが、潤沢なお小遣いに恵まれる境遇とはほど遠い。
だから兄はなけなしの小遣いを趣味に充て、そのお陰でいつも金欠だ。
一度母の財布に手をつけて、こっぴどく怒られた。兄も反省はしたようで、さすがにそんな事は二度とはしていないようだ。
それでも兄の部屋にはときおり新しいお宝グッズが増える。
昼食代をそちらに回しているようだが、それでもあんなに買えるものなのか。ああいった趣味のものは、つまらなそうなものでも結構値が張るのではないだろうか。
そんなこんなで、兄の部屋に新しいものが増えるたびに兄は母の前にしょっ引かれて絞られる。
兄はそのたびに『貰った』とか『安売りしていた』とか『拾った』とか言う。あまりに見え透いた言い訳だと思う。
そして母もそう思うから、なおさらに怒りが増し、その度にこんな風に叱られるのだ。
そんな時の兄はひどく情けない奴だ。
だから私はそんな兄を軽蔑を込めて『兄め』と呼んでいる。もちろん心の中でだけ、だけれど。
ただし今回のはそういうのとは似ているようで全然違ったものだった。
兄が持ち込んできたものが、はるかに信じられないものだったのだ。それは今この時も兄の隣にあって、とんでもない存在感を示している。
その目は澄み切った夏空のような碧、髪は金色で波打ちながら肩から背中に流れ、細く伸びた眉も金に近い明るい褐色、なめらかな頬は白くてわずかにバラ色を乗せる。
少しだけ尖った鼻の下には、サクランボの色の艶つやしい唇。
明るい紺色の、セーラー服にちょっと似た奇妙なデザインの上着の胸元は見事な盛り上がりを見せ、下半身を覆うスカートからは、真っ白なストッキングに包まれた膝が見える。
それは、まさに金髪の美少女なのだった。
身長は私よりかなり高く、兄とさほど変わらないくらい。隣に座っている兄が背中を丸めて俯いているので、彼女の頭の方が位置が高い。
そんな超絶美少女が兄の隣にぺたりと座っているのだ。
それはもちろん等身大フィギュアなどではない。いや、いっそアニメから抜け出てきたと思いたいぐらいに非現実的に美しいのだけれど。
でもそれは現実の女の子だった。生きて、呼吸をしている美少女なのだ。
今も彼女は不安そうな顔で、時折兄と母の様子を窺うように目を動かし、落ち着かなそうだ。
兄は正座しているが、彼女は正座は苦手のようで、膝を崩している。その膝の上で、真っ白で細い指が、所在なさげに動いたり止まったり。
そんな三次元の、実物の美少女を、兄は何と『拾ってきた』と言ったのだ。いくら何でも、それは無茶な話だと思う。
「本当なんだって。今日の帰りに、目の前に落ちてたんだ」
ああ、まさか。兄のバイブル、少し古いアニメのあれ、『親方、空から女の子が』を本気で言い出すなんて。
いかにオタクとは言え痛すぎる言動だ。案の定、ママはさらに怒りのボルテージを上げたようだ。
「いい加減にしなさい! 人一人が絡んでるのよ、冗談で済ませることじゃないでしょ?」
「だって、本当なんだよ。今日の帰り道に拾ったんだ」
兄の情けない言い訳を聞きながら、私は目眩を覚えて頭を押さえ、同時に心の中で毒づいた。
『こ、この兄めが! 情けなさ過ぎる!』