三 野球
DDとしての仕事を一日も欠かすことなく続けて一年と少し。野球はリードになった半年前に辞めた。それ以降、僕の見た目は少し変化している。
野球部に在籍していた時は、髪を短くしていたが、そういったスポーツ少年らしい縛りも必要なくなり、気がつけば髪がかなり伸びてしまった。前髪も目の位置を超えてしまっていて、さすがにうっとおしく感じる時もある。
生活に関して一つ大きく変わった事は、素振りだけの言い訳で毎日、夜な夜な外出するというのも、いいかげん無理がありすぎたので、親にはバイトをしているという事にした。だから、こんな真夜中に帰宅しても特に怪しまれることもなく、堂々と玄関から家の中に入る。
とはいえ、時間が時間だけに、音を立てないように、静かに二階の自室に向かう。
階段を登りきると、二メートルほどの短い廊下を挟んで右に春夏の部屋。左に僕の部屋。カーテンで区切られているだけ。
この時間だと、春夏はおそらく勉強中だろうから、邪魔しないようにそっと自分の部屋へ向かおうとした時だった。
PAN!
近所迷惑極まりない大きな音が背後でして、僕の心臓は活動を停止しそうになった。何事かと振り向くと、小さなリボンがひらひらと降り注ぎ、僕の頭にのっかかる。もちろん犯人は、クラッカーを手に持つ春夏以外にありえない。
「僕をショック死させる気か」
春夏につめより、ほっぺを思い切り引っ張る。
「いひゃいいひゃい!」
よく分からない悲鳴をあげる春夏。こいつもスズメの尻尾程度だった髪は長く伸び、ゆうに肩も超えてしまっている。両サイドの髪を、三つ編みにしつつ後ろで束ねているから、耳は隠れていない。なんともめんどくさそうな髪型だ。
僕は頬から手を離し、解放してやる。
「血行よくなったぞ」
「もう! こんなので血行よくならないし!」
頬を押さえながら、まずは苦情を述べる。太陽に当たらなくなって一年。春夏の肌は、透き通るように白くなっている。
儚い──という言葉がしっくりくる、そんな雰囲気を醸し出す、僕の自慢の妹。
「デコピンのほうがよかったか?」
「暴力反対!」
「で? なんの騒ぎだよ、近所迷惑な……」
「一個くらいなら大丈夫かな〜て……へへ」
まあ、小さなクラッカーだから、爆音というほどではないけれど。近距離はさすがにビックリするっての。
「じゃあ、改めて。お誕生日おめでとう」
…………ん?
んん?
腕時計に目をやる。
七月十六日、午前零時十分。
そうか。日付が変わっていたのか。僕の……十七回目の誕生日。
「ひとつ老けたね!」
「老けたとか言うな。大人になった、だろ」
「私はまだまだ十六才」
何を張り合っているんだ、こいつは。春夏は二月生まれだから、追いつかれるのは当分先だな。
「というわけで──はいっ」
綺麗にラッピングされた箱を手渡される。
「お、おう……、ありがと……」
「開けて開けて!」
「おう……」
催促されるままに、廊下の上で開封作業に入る。箱の中から出てきたのは、僕のお気に入りのメーカーのスニーカー。しかも、僕が好きな野球選手が練習の時に使っているモデルだ。教えたわけではないのに、サイズもピッタリ。けっこう高いはずだぞ。
架空の病気のせいで、親からはバイトも禁止されいる。毎月の小遣いだけの春夏がこれを買おうと思ったら、半年以上は貯め込まないと無理だろうに。
「こらこら。高校生の間はお互いのプレゼントは上限を三千円にしていたはずだぞ」
「女子には十倍返しらしいわよ! 二月が楽しみ!」
「んな訳あるか……」
とりあえずつっこみを入れつつ、スニーカーを見つめる。
毎晩見回りをしているから、プロ野球は土日のデーゲームくらいしか見る機会もなく、自らも退部してしまっているからすっかり縁遠くなってしまった。
野球に未練はあるわけじゃない。好きなままでいたいから、自らの意思で辞める決断をした。だから、今でも野球は大好きだ。これほどうれしいプレゼントもない。
でも、春夏の事を考えると、素直に喜べないジレンマもある。きっと春夏は、自分のせいで僕が野球を辞めたと思っている。その証拠に──目の前に座る春夏の瞳には、涙があふれていた。
「私がお兄ちゃんから奪ったものを考えたら……全然高くないよ」
「……お前に取られたものなんて、心当たり無いぞ」
「野球……」
「前にも言ったろ? つまんなくなったから辞めたんだって。お前は全く関係ない」
「今でも好きなのに、そんな理由で辞めるはずない!」
「なんでお前に僕の気持ちが分かるんだよ? お前のために野球やってた訳じゃないんだぞ。好きだからやってただけだ。一度好きになったら、一生続けないといけないのか? 他の物に興味もっちゃ駄目なのかよ?」
つきはなすように、あえてきつい口調で言った。もちろん、本音を言えないもどかしさに、いらついていたのもある。やつあたり。最低な兄だ。
「そんなに……バイト、楽しいの?」
こんな薄っぺらい言い訳で納得しろっていうほうが、無理があるか。言える範囲で正直に言うほうが、春夏の罪悪感は消えるかもしれない。
「春夏。ちょっと僕の部屋で腕相撲しよう」
突然の僕の提案に、固まる春夏。先に僕は自室にはいり、俯せになって勝手に腕相撲の準備をする。しばらくして春夏は涙を拭き、無言のまま僕の前で俯せの格好になり、僕の右手をつかむ。
「お前が赤……ヴァンパイアになってから、僕はお前に一度も勝てなかったよな?」
「……うん」
「もう一度、本気で勝負だ。いくぞ」
よく分からないまま、とりあえずうなずくのを見て、掛け声をかける。
「レディー……」
お互いの手に力がはいる。
「ゴー!」
勝負は一瞬でついた。春夏の手は、僕の手によって絨毯に押しつけられていた。僕の勝ち。圧倒的な勝利。
「……あれ……?」
春夏が唖然としてる。何が起こったのか、思考がついていってないようだ。
「これが、僕が野球を辞めた本当の理由だよ」
僕は起き上がり、静かに語りかけた。
「お前がヴァンパイアに襲われた日、僕も瀕死の怪我をした。その怪我を治すために、ヴァンパイアの血を体に入れたんだよ。ヴァンパイアの再生力を利用して治した。もう薄まってはいるけど、僕の中には、確かにヴァンパイアの血がまざっているんだ」
「…………」
「僕も純粋な人間じゃないんだよ。半年ほど前、人間である事を維持したまま、僕はヴァンパイアと同じ力の使い方が出来るようになった。それは、ヴァンパイアになっていた時の感覚を覚えているからこそ……知ってしまったからこそ出来る事なんだ」
「……それって……やっぱり私が原因だよね……」
「違う」
「だって……」
「違う。お前が親父を迎えに行かなかったら、代わりに僕が行っていた。そしたら、僕が襲われていただろうさ。あの道にあの男がいて、僕達の家がここにある時点で、それはもう誰のせいでもなく、防ぎようがない事だったんだ。誰かが責任を感じるような事じゃないんだよ」
「……でも……だからって野球を辞めなくても……」
「力の使い方を覚え始めた頃に、打撃練習ををする機会があったんだ。その時に、自分の本気がどんなものか興味があって、『人を超えた本気』でボールを打ってみたんだよ」
「うん……」
「そしたらさ……ははっ……僕が打ったボールがさ……あんな固いボールがさ……破裂したんだよ」
「…………」
「笑っちゃうよな。本気でプレーできないんだ。手を抜かないと、野球にならないんだよ。人間の身体能力を想定して作られた用具やルール。それを超えた僕は、もう本気で……出来ないんだ。手を抜いて……楽しいと思うか? みんなに合わせて、違和感のないようにプレーして……。そんな日々に、僕は野球が嫌いになりかけていた。だから……好きなままでいたかったから──自分の意思で辞めたんだ」
春夏が両手で顔を覆う。僕は春夏の頭にやさしく手を添える。
「僕の自分勝手な決断だったんだ。続けようと思えば、可能だった。お前が責任を感じるような事は何もないんだよ」
今思えば、もっと早く伝えたほうが良かったのかもしれない。ずっと、責任を感じていたなんて……。
でも、伝えたからといって……こんな言葉だけですぐ納得しろというのも無理がある。でも、納得してほしい。分かってほしい。たとえ今すぐは無理であっても。
「ありがとうな。ずっとほしかったやつだから、うれしいよ。明日から使わせてもらう」
「うん……」
涙と鼻水だらけの顔に、ティッシュの束を押しつける。
「ほら、いつまでも泣いてんな。かわいい顔が台無しだぞ」
「だってぇ……ぐず」
まったく……泣き虫なところはヴァンパイアになっても変わらないもんだな。それはそれで、うれしいことではあるけれど。
スニーカーを試し履きでもしようかと箱から取り出そうとした時、ポケットにいれたままだった携帯が振動で着信を伝えてきた。
こんな時間に誰だ? 画面をみると、そこにはついさっき登録されたばかりに333の本名、柊かすみと表示されていた。微かに嫌な予感を感じながら、とりあえずでてみる。
「なんだよ?」
「……………」
ん? イタ電か? 登録させといていきなり嫌がらせかよ。
不審に思いつつ、もう少し耳を傾けてみる。すると、微かに声が聞こえた。
「……ちょっ……たすけ……」




