五 アンプル
「使っちゃ駄目なんですか?」
「別に駄目って訳じゃねぇけどよ。お前はなんとも思わないのか? たとえ数十分でも、人間じゃなくなるんだぜ? それがどういう原理で成り立っているのかも理解していない物を体に入れるなんて、俺は御免だね」
「いや、でも使わないと勝てないじゃないですか。身体能力が違いすぎますよ」
「だったら戦わなければいいじゃねぇか。こっそり近づいて、背中からサクっと一刺しすれば終わりだ」
「えー……そんなきたないやり方でいいんですか……?」
「汚いもクソもあるか。命が掛かってるんだからよ」
「それはそうですけど…もし気づかれたらどうするんです?」
「その時のための訓練をこれからするんだろうがよ。力では確かに勝てないだろうが、当たらなければどうというものでもないだろ。攻撃の初動を見極めて、最小限に動けばどんな攻撃だって躱せるさ。ついでに脳のリミッターをはずす訓練もするぞ」
「リミッター?」
「火事場のクソ力ってやつさ。普段、人は脳が勝手に力を制御している。肉体を守るためにな。赤目はつねにリミッターが外れた状態なんだよ。肉体への負荷は、その血が修復してくれるからリミッターがいらない。だから力も強いしスピードも早い」
「それって、普通の人がした場合は肉体に負荷があるってことですよね? 駄目じゃないですか」
「その負荷を最小限にすればいいし、さらに言えば、百%の力を使っても壊れない肉体を作り上げればいい。それなりに鍛えているお前なら、そのうち出来るようになるんじゃないかねぇ」
数日前の会話が記憶の奥から掘り出される。分かっている。覚えている。
「だからこそ使ったんです! 使わないと、あなたには絶対に勝てないから」
恐怖を振り払うように僕は叫んだ。
やはり手加減してどうこうできる相手ではない。ならば、本気でやらせてもらう。
僕は222めがけて全力で左腕を横に振る。その裏拳を222は下にしゃがみ込むようにして躱した。僕が次の行動に出る前に、222の足払いで僕は尻餅をつく。ヴァンパイア化しているのに、スピードでも負けている?
慌てて立ち上がろうとした僕の顔面に222の蹴りが炸裂する。後ろにふっとびながら感じる激しい痛みも、すぐに引いていく。大丈夫だ。ダメージが残らない以上、負ける事はない!
起き上がりながら222の位置を確認しようと見渡すも、影も形もない。冷や汗が全身に一気に吹き出るのを感じる。
「よう」
頭上から聞こえた声のほうに顔を向けた瞬間には、もう勝負は決していた。
222の手にいつのまにか用意されていたスピアが背中から僕の心臓に突き刺さる。
「索敵はもっと立体的にするもんだぜ。上とかよ」
上からの攻撃。うつぶせの状態で地面に串刺しにされる僕。
だらしない、なさけないったらありゃしない。
「赤目として串刺しにされる気分はどうだい? こういう体験も必要かもしれないなぁ。苦しいだろ? 痛いだろ?」
痛い。苦しい。情けない。悔しい。
なにより、その痛みで意識が飛び、『血』によって強制的に意識が戻され、痛みでまた意識が飛ぶ、の繰り返しが想像以上のひどさだ。強力な修復能力を得ても、痛みを感じなくなる訳ではないから、なるほど、ヴァンパイアを捉えるにはもってこいの方法だ。何か言いたくても、口が動く前に意識が無くなり、意識が戻るとまた考える所からスタート。
「こんなひどい方法でさ、無理矢理存在を消されるんだ。生きることを全否定されるんだ。ただ、血を吸われて、人でなくなっただけなのに。被害者なのに。確かにひどいよな」
222の声は、確かに僕に向けられているものなのだろうけれど、どこか自虐的な、自分自身に言い聞かせている風にも聞こえた。
「でもな。誰かがやらなきゃ、止まらねぇんだよ。オリジナルに関しては、個体数の減退によって管理、監視が出来るようになった。血を吸わせない事で、これ以上オリジナルからの拡散はなくなるだろうさ。でも、それ以前に広がっていたレプリカはまだまだ、本当に数え切れないほどにいる。放っておけば、いずれ人間はいなくなり、赤目だけの世界になってしまう。その前に、赤目と人間という新たな争いの種にもなるだろうがな。お互いの存亡を掛けた争い。戦争。どちらが勝つかなんて分からないし、どうでもいい事だ。そんな未来を食い止めればいいだけなんだからよ」
「食い……止め……る……?」
僕は途切れそうになる意識を必死で保ち、声を振り絞る。
「そ。食い止めるのが俺たちの仕事だ。誰もやりたくてやってない。死刑執行と同じだ。誰だって好きこのんで『殺す』行為なんてしたかねぇさ。でも、それを仕事として金をもらう事を自ら選んだ以上は、やらなきゃいけねぇんだよ。嫌なら辞めろ、だ。お前はどうなんだ? お前の覚悟はその程度か? お前が守りたいものは、他人の命よりも軽いものなのか?」
守りたい……もの……。
「命の重さなんざ、個人の主観で変わるもんだ。身内優先を誰も責めはしないさ。ただ、他人の命を、身内と同じラインに引き上げるな。割り切れ。大人になれ。全部を救えるなんざ、幻想だ。夢だ。幻だ。実在しない。現実はさ……なにかしらの犠牲を伴っているんだよ」
「でも……」
「でもは無いんだよ」
僕が必死でしぼりだそうとする声を容赦なく遮る。
「レプリカにまで与えられるほど、血に余裕はねぇ。医療の分野でさえも足りなくて、よく献血募集してるだろ? 無理なもんは無理なんだよ! こいつを逃がして、もしお前の家族や友達が襲われて新たなレプリカになったら、お前はどう思う? 特例は一人の管理までだ。妹と友達と家族、誰か一人しか救えないって天秤にかかったらお前はどうする?」
「誰も死なせませんよ! あなた達を敵にしても、守……ぐあああああ……」
222がスピアを蹴り、その衝撃に思わず苦悶の声を上げてしまう。
「アンプルを使っていない俺にも勝てないやつが、どうやって守るんだ? ああ? 粋がるのは強くなってからにしろ」
スピアに片足を乗せ、体重を掛けてグリグリと円を描く動きをする。その度に激痛が走り、意識がまた飛びそうになる。
微かに車が近づいてくる音が聞こえた。メディカルセンターがレプリカの回収に来たようだ。数台の車両の音が近くで止まり、慌ただしい足音が多数聞こえた。
222が最低限の指示を出す。
「そっちの女だけもっていけ。こいつは関係ない。お仕置き中だから気にするな」
「な、なにしてるんですか! アンプルが切れたら死にますよ!」
MC回収班のひとりが222に言い寄るが、まったく動じる気配はない。
「くっくっ……その時はその時だ。人間ひとりとレプリカがこの世からいなくなるだけだろ?」
「……どうなっても知りませんよ」
人間ひとりは僕か。レプリカは……春夏の事だろうな。僕が居なくなれば、管理者が居なくなる訳だから、春夏も処分されるのだろう。僕だけの命で済まない現実。僕ひとりではどうにも出来ない現実。
運ばれていくレプリカの女性に目をむけると、痛みに苦しみながら、222に怨みがましい目を向けていた。声にならない怨嗟を含んだ目に涙が見える。
これも現実……。これが現実。
「あの目を忘れるな。怨まれずに済まそうなんて甘い考えは捨てろ。怨みを受け入れろ。情け、哀れみなんざ、これから殺される奴にとっては何の意味も無い物だ。怨まれて、憎まれて、それを一生背負っていけ。それが俺たちにできる唯一の事だ」
怨みを、憎しみを背負う……?
法律を超えるカード。
自分の判断が結果の全て。
普通に生活しているレプリカ。
ただ、血への渇望を抑えることが出来ないだけ。
血を吸われた被害者。
それを、殺すという事。
その現実から逃げる手段はなくて……僕ひとりが拒否したところで、他のDD達がする事には変わりはなくて。
何も出来ない……なんなんだよ……なんで僕はこんなに無力なんだ……。
急に心臓の痛みが無くなった。見上げると、僕の胸から抜き去った、血のしたたるスピアを持った222が僕を無表情で見下ろしている。
「怨まれることを恐れるな。逃げるな。受け入れろ。それが、お前の妹やさっきの女のような被害者を少しでも減らす唯一の方法だ。納得いかねぇなら、いつでも相手になってやる」
本当に何も出来なかった。リードに選ばれる人とは、ここまでのものなのか。それとも僕が単純に子供すぎるだけなのだろうか。
頭が真っ白で思考がにぶっている。まだアンプルの効果は残っているのに。
「『血』が残っているうちに今日使ったアンプルを補充しとけよ。俺の忠告通り使わずにやっていくなら、いいけどよ。さっそく実戦は経験できたんだ。これからはひとり。いろいろと考えて、好きに行動すればいい」
じゃあな、と別れの挨拶らしき言葉を最後に足音が遠のき、気がつけばその場に残っているのは僕だけになっていた。流血も綺麗に洗浄されていて、争った形跡は一切残されていない。何もなかったかのように、自然とひとりの女性が社会から消えた。
きっと、明日の新聞には、何もこの場の事は載らないのだろう。
それは、とても怖いことだと、いまさらながらに思った。




