十 ズレてしまった日常
翌日の夕方、僕と春夏、そして改めて病院を訪れた両親と共に、僕の軽傷と、春夏の嘘の病状の詳細説明をうけた。昨晩にも春夏の事は軽くは聞いていたようだから、両親は特に動揺を見せてはいなかったが、心中は穏やかでは無かっただろう。
僕と春夏はこれ以上の入院を必要としていないので、日が落ちたら退院する事になった。幸い、春夏の部屋の窓は隣の家の壁のおかげで日の光が入らないので、とりあえずは安心だ。念のため、ダンボールで塞いでくれたらしいけど。
しかし、警察まで口裏を合わせてくれる今の状況が、不気味でしょうがない。ヴァンピールブラッドという組織の力……国の権力の舞台にどこまで入り込んでいるのだろうかとふと考えてしまう。そして、その組織に身を置く自らを改めて冷静に見てみると、本当にこれでよかったのかと自問自答したくなってしまう。答えなんて分かりきっているのに。選択肢なんて無かったのに。
「お兄ちゃん?」
帰路につく親父の車の後部座席で、窓の外を見ていた僕に、すぐ横に座っている春夏が声をかけてきた。
「ん?」
「あ、な、なんでもない」
そう言われると気になるじゃないか。
「どうしたよ?」
気になるから、答えを促す。
「うん……なんか難しい顔してるなぁって思って……」
ああ……心配させてしまっただろうか。今考える事じゃないな。
「なんでもないよ」
僕は春夏の頭を軽く撫でて、親父に声をかける。
「親父、なんかラジオかけてよ」
静かすぎると、ついつい考え事をしてしまう。かといって、この重い空気の中をどんな話題で盛り上げればいいのかも分からないし、機械に頼ることにした。
ラジオから流れる音楽が場の空気を和ませてくれる。曲が終わり、ニュースがはさまれた。その内容はまさに僕達の事を告げていた。
──高校生二人がひき逃げにあった事件で、○○県警は住所不定、無職の……
そこでラジオのチャンネルが変えられた。親父が気を遣ってくれたのだろうが。
いるはずのない犯人が逮捕、もしくは特定された。
僕はあわてて携帯でニュースを調べる。最新のニュースの蘭にそれらしきものを発見し、ページを開く。どうやら、特定されて指名手配中らしい。実在しない事件に対して、犯人だけは存在するこの違和感に、一瞬背筋が冷たくなる。
冷静に振り返ってみれば、本当に選択の余地はなかったのだろうか。怪我を治してもらうところまでは、たしかにどうしようもなかったように思う。でも、そこからは僕にもヴァンパイアの力があったわけで、力ずくで春夏の居場所を聞き出し……。
いや、無理か。
研修時、ただの人間であるDD222に手も足も出なかった。あの場で僕がそういった強攻策にでて騒ぎが大きくなれば、当然他のDDのメンバーも集まってきただろう。
そもそも、いつヴァンパイア化が解けるのかも分からない状況だったし……。
あの日、あの夜に外に出た時点でもう決まっていた事なのだろう。そういう運命だったのだと諦めるしかない。今を現実としてしっかりと受け入れるしかない。過去を悔いることは現実逃避でしかないというのが、分かってはいても歯がゆくて仕方がない。
事件を裏でどうとでも操作できてしまう権力に僕は属している。ならば、逆に言えば、ちゃんと従っていけば、春夏の身の安全だけは保証されたようなものではないか。その為には、僕がしっかりとDDとしての仕事をして血を確保できる事が前提ではあるけれど。
もし春夏が誰かの血を飲み、新たな偽物を作ってしまうと、春夏ともども処分すると言っていた。そんな事態だけは絶対に避けなければならない。絶対に。
家に到着し、まず最初に確認したのが、DD222の言っていたアタッシュケースの有無だ。僕の勉強机の下にあった。
本当に、どうやって入った!
ま、それはさておき、次は日の光が入らないかの確認だ。春夏の部屋は大丈夫だが、僕の部屋は午前中だけ、窓から光が入ってくる。僕の部屋の奥が春夏の部屋で、カーテン一枚で区切られているだけだから、万全とはいえない。通販で買った時のダンボールがあったのを思い出し、僕の部屋の窓も光がはいらないようにダンボールを窓に添え、ガムテームで貼り付ける。
トイレや風呂場も念のため確認し、問題なかった。太陽の昇っている時間帯だけ、玄関さえ避ければ問題ないだろう。
一通り確認したあと、一階のリビングで家族会議が開かれた。
もちろん、これからの春夏に関してのことだ。
決めないといけないことは、まず学校をどうするか。
選択肢としては、夜間学校か通信教育、家庭教師。
夜間定時制の高校に行けば、ちゃんと高校を卒業したという卒業証書をもらうことができるが、一時間目が微妙に早く、まだ日が沈みきっていないから無理だ。
同じく、卒業の資格をもらえるのは通信教育。というか、もうこれしか選択肢がないという現実。春夏曰く、家庭教師をやとってまで知識を得るだけなら、ひとりで十分らしいし。
家に関しても、早速リフォームを依頼したようで、日の光を完全にシャットアウトできるように窓のすべてを改造してくれるそうな。
通信教育を導入している学校はこれから親父がネットで探してくれるらしいし、手続きなどは明日以降になりそうだ。
そして最後に、今在籍している学校というか、クラスメイトにどう説明するか。このへんは明日、お母さんが学校に直接行って、担任の先生と相談してくれるらしい。
生きるという、ごく当たり前の選択をしただけなのに、その代償としてこれだけの生活の変化を春夏は受け入れなくてはならないのが、僕の心に罪悪感としてつきささる。この感情もDD222に言わせれば、ただの自己満足と言われてしまうのだろうか。
同情、罪悪感をもつことで心が楽になる。楽になる事が悪いことなのだろうか。楽な事を選択する事は駄目なのか。僕には分からない。むしろ今は、分かりたくない。
家族会議が終わり、軽く食事をとって風呂など各自が寝る準備を始める中、僕は自室に戻ってDD222が置いたアタッシュケースの中身を確認する。
ヴァンパイア化するためのアンプル二本に、春夏用の二リットルの血液の入ったボトルが二本、作戦時に連絡を取り合うのに使うインカムと場所把握や集合場所の確認用のカードサイズのナビ専端末、スピアと呼ばれる伸縮式の鉄の棒が六本、本社での出入りや勤務中の身分証明用のIDカード。
一通り確認したあとに、紙切れが一枚入っている事に気がついた。見てみると、メールアドレスと電話番号が書かれている。そして、DD222からのメッセージが。
仕事の件は、前に教えた連絡先に。
プライベートの相談事があればこのメモに書いてある番号に連絡しろ。
この番号なら奴等も把握してないから盗聴される心配がない。
えっと……つまり、ヴァンピールブラッドに教えた番号は、盗聴されているということですか。まあこれは信用されていないうんぬんよりも、機密保持を徹底しているんだなと好意的に解釈しておこう。疑いだしたらきりがない。
「お兄ちゃん、お風呂あいたよ〜」
後ろから声がかかる。振り向くと、パジャマ姿の春夏が階段を昇りきったところだった。そのまま僕の方に来るか、自分の部屋に戻るか、そういった葛藤が見て取れた。自分の体の変化への戸惑い、それによる僕との距離感の迷い。こういうのは……嫌だな。ならば、選択肢は一つだ。
「僕はあとでいいや。ちょっとこっち来いよ」
僕の誘いに一瞬躊躇するそぶりを見せつつ、おそるおそる近づいてくる。
「言葉ってさ、口にださないと相手に伝わらないだろ?」
「うん」
「だから、素直に思ってる事を伝えときたいんだ。だから、聞いてほしくてさ」
「……うん」
春夏が僕の目の前に座る。
「正直、人間じゃなくなるって事の重大さを僕は理解しきっていない。心配は出来ても、本人じゃない限り完全に理解する事なんて出来ない。だから、困ったこととかあったら、どんな些細な事でも言ってほしいんだ。僕に出来ることなら、なんだってするつもりだ」
「うん。正直、私もまだよく分かってないしね。えへへ」
「前にも言ったけど、僕のわがままが招いた結果で、それはやっぱり無責任ではいられないというか、いるつもりがないというか……将来の事とか、不安な事が沢山有ると思うんだ。ひとりで抱え込まないでさ……なんでも言ってくれな」
「お兄ちゃんは何も責任を感じる必要ないよ。親不孝者にならずにすんだんだもん。信じてくれないかもれないけど、本当に感謝感謝、だよ」
真剣な顔で春夏は続ける。
「お兄ちゃんこそ、沢山秘密を抱えちゃったよね? お父さん達にもだろうけど、私にも言えない事……ヴァンピールブラッド……だっけ。あそこで、お兄ちゃんは何をするの? 血はどうやって手に入れるの? それが……今はすごく気になる」
「ん……」
確かに言えない。守秘義務に該当する事だし、なにより……レプリカを捕まえるのが仕事なんて、言えるものか。
「血に関しては、すでに二回分もらっているから、少しでも喉の渇きを感じたらすぐ言えよ。もちろんタダでもらえるものでもないから、すこしバイトするだけだよ。心配することじゃない」
「バイトって……野球続けられるの?」
「うーん、休む日も増えるかもしれないけど、今のところは辞めるつもりはないよ」
「そっか」
「でも、もう応援に行けないのが残念。夜に試合してくれないかな〜」
今の学校を辞める以上、春夏は吹奏楽を続けることが出来ない。僕は野球をする事が出来る。世の中不公平に出来ている。
「自分の事をもっと考えろよ。お前だって吹奏楽が好きだからやっていたんだろ? それが出来なくなるんだぞ」
「ん……どうなんだろ。今はまだ実感がわかないといいますか。急にいろんな事が変わりすぎて、頭がついてこないよ」
「そうだな……そいや、吸血鬼ってさ、映画とかでは噛まれた人は首に歯形が残ってたりするけど、どうなんだろ?」
「傷がすぐに治ったのは、自分の目で見たけど……どうなんだろうね。見える?」
そう言って春夏は髪をかきあげ、うなじを僕に見せる。特に傷跡も無い、きれいなものだ。これならヴァンパイアでなくても吸いたくもなろう。とはいえ、あの男を許す気にはならないけれど。
「残ってないよ。やっぱ全ての傷がすぐに修復されるみたいだな」
「よかった。傷物になってしまったのかと、それだけが心配で心配で」
「変な表現をするな」
「あははっ」
そんな春夏の無邪気な笑顔を見て、やっと日常に戻ってきたのだという実感を持つことができた。ほんの少し……ズレてしまった日常。
そのズレの大きさを、僕は把握しきれていなかったのだけれど。




