久遠
黒王は半分朦朧とした意識の中で山の中を逃げていた。
里長の屋敷を出たものの…貴族の男が手配し、遅れてやって来た警護の者に追われ矢を射込まれ刀で切りつけられるで体に傷を負っていた。
山犬が群れを連れて現れ、その警護の者に襲いかかり何とか山に逃げることが出来たのだが…
深傷を負った事もあり今はやっと歩いている状態だった。
それにしても自分は、どうしてあの男を八つ裂きにしなかったのだろう…黒王の頭にそんな疑問が浮かぶ。
あの時…確かに自分の中で何かが音を立てて切れる様な感覚を覚えた。
そのままあいつを八つ裂きにしようと思った時、汀がふわりとそれを止めるように現れた。
『裁きは人のする事にあらず』
閃くように浮かんだ言葉と止めすがるような朱緒の目が、辛うじて見失いそうになった自分を引き止めた…そんな気がしてならない。
もし…あの時…たぎり立つ思いに負けて、あいつを八つ裂きにしていたら…自分は過去の自分に戻りこうして朱緒のところに帰れなかったかも知れない。
『鬼は谷に落ちて死にました。』
そう言って自分に黒王と名をつけてくれた朱緒の心を汚してしまっていたのかも知れない…
黒王はそう思うとこれでよかったのだと得心した。
風の音にちょろちょろと水の音が聞こえた。
黒王は水を飲もうとそちらに歩く…ふと、朱緒と出会った時もそうだったな…と頭に過った。
あの時も今の様に深傷を追い、水を探して谷に落ちた…思い出したら何だか可笑しくなり黒王はふっ…と自分を鼻で笑う。
朱緒に出会わなかったら、自分は闇の中に落ちたまま幸せも温かい気持ちも知ること無く終わっていた。
それを思うと傷を受けて思うように進まないこの体がもどかしくて仕方がない。
心は天駆けて朱緒の元にいるのに…早く帰りたい。
一人で待っている朱緒の元に…そう思い歩き出そうとした時、人の気配を感じた。
ゆっくりと振り向くと、汀が後ろに立っていた。
「迎えに来た。」
汀は一言そう言いながら黒王を支える様に肩を貸す。
「朱緒は大丈夫か?」
「…あ…ああ…じい様が見てる。」
汀はくすり…と笑って…
「懐かしいな…あの時は、黒王に助けられた…あの時も黒王はこんな姿だった。
これで貸し借り無しだ。」
汀はいきなりそんな事を言った。
「わしがお前を助けたって?」
訝しそうな顔をして黒王は汀を見る、汀はにやりと笑い…
「その話はいずれしてやる。その様子では間に合わない…飛ぶからしっかり掴まって目を閉じていろ。」
黒王の答えには答えず、汀はそう言うと風を呼び空へ昇った。
風の勢いに面食らい黒王は不覚にも気を失っていた。
気がついたのは、じい様の小屋の前だった。
「…黒王…しっかりせい!朱緒が待っておるぞ!おい!」
目を開けたときじい様が覗き込んでいた。いつもなら飛ぶようにやって来る朱緒の気配がない。
「じい様…朱緒は?」
そう言いながら起き上がる体は綺麗に手当てがされていた。
どくん…どくん…
起き上がりじい様の顔を見ていると、胸の中で嫌な予感が広がる。
「…朱緒はこちらにおる…」
じい様に連れられて泉の側に行くと、金糸を織り込んだ衣装を着けた男に朱緒は抱えられるようにして横たわっていた。
「朱緒…そなたの愛しい者が帰って来たぞ。しっかりしなさい!」
男は朱緒を励ます様に朱緒に向かってそう言った。
黒王が来ると男は入れ替わるように朱緒を渡し、じい様の傍に立つ。
「…朱緒…遅うなった…すまん。」
顔を見ながら黒王はそう言った。朱緒は閉じていた目を開き、黒王を見つめるとひび割れ乾いた唇で…
「お…おか…え……りなさ…い………」
と、掠れた声を立てた。
「少し暴れすぎてな…怪我をしたから、手当てをしてくれんか?」
黒王は込み上がってくるものを押さえながら、声を震わせて朱緒に言った。
朱緒はにっこりと笑い小さく頷く。
「くろ…お…う………やくそ…く」
朱緒は途切れ途切れに言いながら、黒王の手を力のない自分の手で掴む。
その手を握り返し頷きながら…
「あの夜の約束か?忘れておらんぞ。何処にそなたが居ってもわしはそなたを見つけ出してやる。
安心しておれ…そなたは目を離すと危ないからの…」
こぼれ落ちる涙を朱緒の顔に落とし、しばらく朱緒の顔を見ていたが黒王はいつものように頬擦りをした。
朱緒はそれに満足したのか、黒王の耳元に水がほしいとせがんだ。
黒王は泉の水を口に含むと、そのまま朱緒の口に口移しで飲ませてやった。
「あ…りが……と…………ぅ…………」
満足した笑みを口元に残し、朱緒は静かに目を閉じた。
「…あ…朱緒?眠ってしもうたか?仕方のない…そのまま寝ては風邪をひくぞ………………………朱緒………………うおおおおぉぉぉぉ!!!」
黒王は自分の腕に抱かれ目を閉じる朱緒を抱きしめながら、地のそこから沸き上がる様な声を上げて天に向かい叫んだ。
汀は黒王をじい様のところに送ると、しばらく黒王を見ていたがいたたまれず空に上がり中の里の上に来ていた。
見下ろす目の先にさっき黒王と一緒に朱緒を助けに入った里長の屋敷があった。
屋敷の回りには、武装した者が集まり黒王を捕らえに行こうと準備をしていた。
門の側には両側から人に支えられた里長と貴族の男の姿があり、どうやら里長が追っ手を差し向けようとしているのが見えた。
「諦めるを知らない懲りない奴だな。」
汀は呟き呆れて見ている。
人はずる賢く欲深い者…と、嫌悪の目で見ていた。
それが黒王に会って自分の思い違いであると気づかされる。
中の里に自分が配されると決まった時、どんな者に付くのか興味が湧いて覗きに言ったときの事…
水辺で休んでいたら人に捕まった。
逃げ出そうと足掻いていたら、傷だらけの黒王が袋から出して助けてくれた。
あの時は背に暗いものを背負った黒王だったが、今はどうだろう…じい様の信頼が厚く何より山の生き物達は黒王を慕っている。
朱緒が、黒王をじい様のところに連れて来た時随分驚いた。
あの朱緒が…人を寄せ付けない朱緒が、黒王にべったりと引っ付く様にしているのを見たからだ。
それからずっと二人の姿を見ていたが、なんだか見ているのが楽しく嬉しい気持ちになる。
里長の横槍がなければ、黒王は穏やかに朱緒と二人で過ごせていたのに…眼下にに動く邪な者達を汀は許せないと思った。
風が黒王の叫び声を辺りに伝えてきた。汀はその声に朱緒が眠ったのだと感じる。
ぼんやり眺めていた下の様子が変わったのはその後だった。
黒王の叫び声に応えるように、山の生き物が声を上げ始めた。
そのうち空に雲が現れ、いきなり強い雨が降り始める。
雨は次第に強くなり、里の者が慌てて逃げ出す姿も見てとれた。
そこへ山から無数の生き物が何かに怯え里に向かって走り込んできた。
様子を見ていた里の者が、それらにぶつかり倒される。
里の家畜も、狂った様に小屋を壊しその流れに入って逃げ出した。
山が唸るように鳴り始めた。
その音に驚き辺りを見回す者、家族を追い立てながら逃げる者…里の中は段々騒がしくなる。
ゴゴ…ゴゴゴ…
音が段々と強く聞こえ始めた時、里長の屋敷からも人が数名逃げ出して来た。
ゴゴゴ…ドウウゥゥゥゥ!
大きな音と共に、屋敷の裏にあった山が半分以上崩れ落ちた。
山は…津波のように建物も人も何もかも全てを泥の中に飲み込んで、そこに何もなかった様に静かになった。
黒王はゆっくりと朱緒の体を地面に置くと、立ち上がり里に下りる道へと向かう。
その背中には、赤黒い火焔の揺らめきが燃え立つように上がっていた。
「黒王!どこに行く!」
じい様は、いきなり立ち上がり歩き始めた黒王を呼び止めた。
「…中の里に行く…じい様…止めてもわしは行く…行ってあの者らを全て殺してやる!」
「待て!黒王!話を聞け!」
「あの者らが朱緒を嬲り殺したように、わしもあの者…嬲り殺す!」
黒王は鬼のような形相で振り返ると、じい様に向かいそう叫んだ。
「今行けば殺されるぞ!」
「構わん…そうなればわしも朱緒のところに行ける!今ならまだ朱緒に追いつく!」
じい様は黒王をじっと睨み付け、いつか見せた気配を纏う(まとう)…そうして持った杖でトン!と地面を叩くと…
「話を聞けと言うのがわからんか!」
と叫び風を呼び旋風を黒王にぶつける。黒王はそれをまともに食らい気を失った。
気がつくと…じい様がさっきのように覗き込んでいた。
黒王は頭を振りながら起き上がる。
「すまんの…」
「…いや…すまんのはこちらじゃ…取り乱した…」
じい様の言葉を聞きながら、目は横たわる朱緒の方を見ていた。
「わしらの話を聞いてもらえぬか?それに朱緒をあのままにもしておけまい…先ずは朱緒を綺麗にしてやろう…」
じい様は黒王に朱緒を抱かせ、朱緒の家の側にある滝のところまで連れてこさせた。
黒王はそのまま滝壺に入り朱緒の体を綺麗に洗ってやる。
「…朱緒…綺麗にしてやるからの…」
長い髪が水に揺れゆらゆらと広がる、傷だらけの体が痛々しい…
「痛かったであろう…怖かったのではいか…いつかのように背負ってでも連れて行けばよかった…」
目を閉じた朱緒を見ながら黒王は、そんな自分の後悔を口にする。
傷の一つ一つを消してやりたい…そんな思いを込めながら、黒王は丁寧に体を洗ってやった。
「こちらに連れて来なさい。あの上に朱緒を寝かせてやりなさい。」
じい様に言われ黒王は、滝の前に設えられた祭壇の様なところに朱緒を連れて来た。
そこにはいつの間にか、男の衣装を着た巫女のような女が三人控えている。
「後はあれらに任して傷の手当てをしよう…そのままでは具合悪い。」
じい様はそいうと朱緒の家に黒王を連れて入った。
手当てを受けながら、黒王は終始無言だった。
じい様もあえて何も語らず、傷だらけの黒王を手当てする。
「これは深いのう…」
何気に呟いたじい様の言葉に、黒王がぷっ…と吹き出した。
「朱緒に助けられ、じい様のところに行った時の事を思い出した。」
「そんな事もあったの…そなたと朱緒の顔が思い出されるわい。」
「中の里から帰り…あの時も思うたの。名前を付け傷だらけのわしを助けてくれた…盗賊の鬼黒ではなく黒王だと…」
黒王は朱緒のいない家の中に、笑いながらあれこれをする朱緒の幻を見ていた。
「そうか…不思議なものよの…よし…さあ、あれに着替えて朱緒のところに来なさい。」
じい様は最後の布を巻き終えると、そう言って外に出ていった。
ひっくり返された部屋の中に、朱緒の着ていた着物があった…それを手にすると黒王は大きな声を上げて泣いた。
ひとしきり泣いた黒王は、じい様に言われたものを着て朱緒のところにやって来た。
朱緒は綺麗に着物を着せられ静かに横たわっていた。
緋色に金糸銀糸を織り込んだ艶のある着物を着ている朱緒と夢に出て来た朱緒が重なる。
「落ち着いたか?朱緒の傍で話そうか…そなたが居らぬと朱緒が探すからの。」
じい様はそう言うと側にある岩に腰掛けた。
じい様の隣には、金糸を織り込んだ衣装を着けた身なりのよい男が座っている。
「こうなる前に話しておくべきじゃったの…朱緒の身の上やわしらの話しを…」
そうじい様が話し始めた時…
「玄武…それは私が話そう。
黒王…私は朱緒の父親、名前を雷火という。そなたにはこれで会うのは三度目じゃな。」
男はそう言うと、気をみなぎらせ黒王に示した。
黒王の頭の中に聖域で見た金色の鳶と夢に出てきた金色の龍神の姿が浮かんだ。
「も…もしかして…」
黒王がそれを口に出そうとすると、男はそれを止め話しを続ける。
「私達はこの山々の人には見えない部分の守護を任されておる。
この者…玄武と申してな元は隠れ里の長をしておった。
今はこの後やって来る、花王という者が隠れ里を治めておる。
玄武が朱緒の事を『特別な者』と申しておったのは私の娘である…それゆえじゃ。
半分は人のもの…半分は彼方側のもの…朱緒は二つを合わせた魂を持って生まれた。
朱緒が生まれた後母親が病で亡くなり、朱緒は一人となった。
人の部分を消しこちらに引き取ろうとも思うたのだが、玄武がそれでは人として生まれた意味がないと申してな…
朱緒が人の喜びを知り自分の連れ合いを見つけるまでは…とこれに預けた。
どちらにしてもの朱緒の人としての命はここまで…命の癒しが終わり、再び輪廻の中に戻るまで朱緒は眠っておる。」
じい様がその後を引き継ぎ話しを始める。
「これから朱緒を隠れ里に連れていく儀式を始める。その前になそなたの覚悟が知りたいと思うてな。」
「わしの…覚悟?」
黒王は目を丸くするようにして聞き返した。
「そうじゃ。そなたの覚悟…朱緒はそなたの傍に居ることを望んでいた。今もそれは変わりない…
この儀式をすると今の姿では居る事が出来ん。
そうなってもそなた…朱緒を待つことが出来るか?」
じい様は黒王にそんな事を聞いてきた。
「待つことが出来るか?と聞かれたら…待つ…とわしは答える。
じゃが…人の身ではそれは叶うまい…」
「黒王…待つ…か…良いのかそれで?」
念を押すようにじい様が聞く。
「じい様…くどいぞ!わしがどれだけ朱緒に惚れ込んでおるか、じい様が一番よく知っておろう!」
黒王は顔を朱に染めてじい様に向かい、大きな声でそう言った。
「それに…朱緒との約束もある。何処に生まれ変わっても朱緒を探す…という約束が。
正直、朱緒があんな事になって…わしもこんな話しを聞かされてにわかに信じろと言われてもそれはわしの頭では難しい…
ただ一点…わしは朱緒の傍にいたい…それが叶う方法があるならそれにかけたい。」
「さすが朱緒が選んだ男よの…ならばもう言うまい。そなたの望み…叶えてやろう。」
その言葉を聞いてじい様は汀を呼んだ。汀は空からふわりと降りてきた。
「黒王…お前すごいなあ。」
汀は降りるなりさっき中の里に起きたことを皆に話す。
それを聞いてじい様は呆れた顔をして黒王を見ていた。
雷火と名乗った朱緒の父親も何やら驚いた様子で聞いていたが、これは頼もしい…と大きな声を出して笑っていた。
黒王は自分の知らぬ間に、怒りの中に思った事が成就されていたのに頭を掻いた。
「全くそなたの一念と言うたら…まあそれがなくばこれからの事が出来まいて。」
じい様は場を整えて汀を改めて呼ぶ。
「これから一つ儀式を始める。汀…」
呼ばれて来た汀の姿が光のなかで一匹の白蛇に変わった、その白蛇を見て汀が迎えに来た時に言った言葉の意味がわかる。
「汀…あの時の白蛇か?」
黒王は白蛇となった汀に問いかける。
「あの時は油断して人に捕まってしまった。黒王、助けてもらわねば今はなかった。」
汀はじっと黒王を見つめ頭の中にそう言葉を伝えてくる。
「黒王…汀は龍の子供じゃ、これはもう知っておろう。
これからそなたら二人の魂を合わせる儀式を始める。
朱緒の癒しが終わる頃、黒王…そなたの魂もその姿に相応しいものになろう。
それまでは二人で互いの魂を磨くが良い。」
そう言って朱緒の父親が汀の後ろに立ち手を翳すと、白蛇の姿は光る白い珠となる。
それを手に取ると黒王の前に立ち…
「黒王…朱緒を頼んだぞ。」
そう言いながら珠を額にあて光を放った。
気がついたのは西に陽が暮れ始める頃だった。
黒王は起き上がると朱緒の傍に行く。
傍にはじい様と朱緒の父親とそれから何やら儀式の仕度をしている者が忙しそうに行き来している。
やがて西の空が紅に染まり始める。
涼しくなった夕風に、花の香りを感じた。
見ると朱緒の傍に芳しい香りを漂わせた者が立っていた。
じい様と達はその花の香りを漂わせた者と知り合いのようで、何やら話をしていた。
離れたところで見ていたらじい様が呼ぶ。
「ほう…この者が…頼りになりそうなものじゃの。
私は花王と申す…隠れ里で長をしておる…これからよろしく頼みます。」
花王はそう言うと朱緒の傍に寄り、胸で組まれた手に何かを持たせるようにしていた。
「黒王…これからしばらく…朱緒の癒しが終わるまで、隠れ里の守りをしておくれ。
朱緒は花王の屋敷に預けることになった。
しばらくはそなたも傍におるほうが良かろう…このまま花王に付いて隠れ里に行け。」
じい様はそう言うとにやりと笑った。
「それからもう一つ…そなたに新な名をやろう。
朱緒の癒しが終わるまで仮の名を名乗るがよい。
癒しが終わると同時に、汀がそなたから離れる…そなたの半身は朱緒じゃ。
朱緒の目覚めと共に、また黒王を名乗れば良い。
離れたら汀はその名を名乗り隠れ里の守りとなりなさい。
黒王…そなたはこれから緑翠王と名乗るがいい。
朱緒を頼みましたよ。」
朱緒の父親はそう言うと、黒王の手を握りしめた。
「さあ…この姿の朱緒とはこれが最後…わしの後ろからよく見ておきなさい。」
黒王はじい様にそう言われて姿を胸に刻み込む。
やがて夕陽は空を緋色に染めながら暮れ、その光で朱緒を包み始めた。
朱緒の手に持たされた丸い珠は、その包んだ光を集めるように光り始める。
その光が珠の中に全て集められた時、朱緒の体は夕陽に溶けるように緋色の光の粒になり空に上がって行った。
風が黒王の体にその光をまつわりつかせるように運ぶと、それを抱くように黒王は手を伸ばした。
わかっていても姿が消えて行くのは悲しい…黒王は光を集めるように抱きしめながら空に朱緒の名を呼んだ。
「朱緒おおおぉぉぉ!」
山に黒王の声がこだまする。