静かなる時
次の朝早く朱緒はいつものように薬草を摘みに外に出た。
昨日の事など何もなかったように朱緒は仕度をして外に出ていった。
黒王は朱緒が出ていくと小窓から朱緒が山に入っていく姿を確認し、自分も動きやすいように着物を整えこっそりとその後をついて山に入る。
元は盗賊…気配を気取られぬようにするのはお手のもの。
朱緒は後ろから黒王がついてきているとも気づかず薬草を摘んでいた。
ふと見上げた先に岩棚があった。
その上を見たとき、朱緒は小躍りするようにそこへ走る。
岩棚の上には小さな花をつけた野草が咲き群れていた。
朱緒はその野草を採ろうと岩棚を登っていく。岩は昨夜降った急の雨で濡れて滑りやすくなっていた。
黒王はその様子を見ていたのだが、なんとも危なっかしい…朱緒に見つかるのを承知で岩棚の下に出てきた。
朱緒は朱緒で野草を採ろうと必死になっているから、黒王が下にいることに気がつかない。
あともう少しで上に手がかかるところで滑り落ちてしまった。
「危ない!!」
黒王は落ちてきた朱緒を抱き止めた。
「無茶をするでない!」
黒王はほっとした顔で朱緒を見る。
朱緒は朱緒で突然現れた黒王に驚いて、滑り落ちたことなど忘れてしまった。
「黒王…なぜここに?」
朱緒の問いかけに黒王は視線を外しながら答える。
「心配だからついてきた。」
ぶっきらぼうに答えながら、何やら照れ臭そうな黒王の顔が可笑しかったのか朱緒はクスクスと笑う。
「黒王…」
「…何を笑うておる。そなた無茶が過ぎようぞ?」
「ああ…でもあれは滅多に手に入らないものなんですよ。」
「そうであっても、あれでは命がいくつあっても足らぬぞ?」
そう言いながら朱緒を地面に下ろした。
そうして黒王は足掛かりになる場所を探しそこから『終わったら声をかけろ』と言いながら、朱緒を抱き上げるようにして上にあげる。
しばらくして朱緒は、野草を必要なだけ採ると岩棚の下にいる黒王に声をかける。
黒王はささっきと同じところに足をかけ、今度は下に抱き下ろした。
「ありがとう黒王…助かりました。」
「そなたは本当に無茶をする…心臓が止まるかと思うた。いつもあのような事をしておるのか?」
朱緒は抱き下ろされながらはにかみながら小さく頷く。
黒王ははにかむ朱緒の顔に痺れるような感覚を覚えた。
採った野草を大事そうに手拭いに包み、かごの中に入れる。その手つきを黒王はじっと見つめていた。
「この野草は、山のじいさまに頼まれたもの…今日はこの近くにいるはずだからこの足で持っていきましょう。」
朱緒はそう言うと、にっこりと笑いかごを背負い歩き出した。
黒王は朱緒の一挙一動に胸が高鳴るのを感じる。
数歩歩いたところで朱緒が振り返り黒王の来るのを待っている、黒王はその姿を見ると慌てて後を追った。
先程の岩棚から沢沿いの道を進み、森の中に入ると小さな泉が涌き出たところにたどり着いた。
その側に小さな小屋があった。
朱緒はその小屋にまっすぐと進んでいく。黒王は泉の側にある切り株に腰掛け、朱緒の姿を見ていた。
「山のじいさま…朱緒です。頼まれた野草が手に入ったので持って参りました。」
小屋の入り口に立ち朱緒がそう声をかけると、中から一人の若者が顔を出す。
若者は朱緒の姿を中にいる者に声をかけた。
しばらくすると、少し小柄だが目の鋭い年寄りが先程の若者と共に出てきた。
年寄りは朱緒の顔を見ると目を細め側に近寄る。
若者はその場に立ったまま、黒王をじっと見つめていた。
(この者…どこかで出おうたか?)
黒王はじっと見つめる若者を見ながら記憶を手繰っていた。
何やら見つめるその目をどこかで見たような気がしてならなかった。だが、記憶の中にこの若者の姿はない。
細面の…男にしてはまだ年若く、少年と言うには年が多い…それにしてもこの若者には何やら不思議な色気がある。
(男色の者が見たら迷わず飛びつくであろうな…わしは女の方が良いがな…)
黒王はそんなことを思いながら視点を朱緒に移しす。若者は黒王のそんな思いを聞いていたかのように小さく笑うと、じいさまのところへ行った。
「ああ、朱緒か…よう来たの。あの野草が手に入ったと?どれ…」
小屋から出て来たじいさまは笑いながら声をかけた。その声に朱緒は背負った籠を下ろし、手拭いで包んだ野草を渡す。
「黒王が手伝ってくれたのでこんなに採れました。」
「どれどれ…こんなに生えておったのか?…それにしても黒王とは…それにどうしたその怪我は?」
手拭いの中に包まれた野草を見たじいさまは、朱緒の着物の袖口からちらりと巻かれた布を見つけ問いかける。
「実は…」
朱緒はこれまでのあれこれをじいさまの耳元で話して聞かせた。
そのうち朱緒の目が潤み始めたのか、しきりに袖で目をぬぐい始める…おそらく昨日の出来事であろう。
話を聞いていたじいさまの目は始めは穏やかなものだったが、朱緒の目に涙が浮かび始めると厳しい目付きに変わる。
「黒王が側にいてくれたので、今はこうしていられます…」
朱緒は涙を拭いながら、泉の側に座る黒王を見ながらひとことそう言った。
じいさまは静かな視線を黒王に投げかけじっと見ていた。
その時、後ろに控えていた若者が何やらじいさまに耳打ちをする。
その若者の話を聞いてじいさまはうなずき、ゆっくりと黒王の側に歩いていった。
その時黒王は清らかな泉の水に見とれていた。
ついこの間まで荒れすさんだところに身を置いて、人の物を奪い…命を奪い…そんな生活をしていたはずなのに、朱緒という女と出会ってから自分は違う人間になってしまった。
朱緒の言うように、あの時そんなすさんだ自分は死んでしまったのかもしれない。
今はそんな過去の事はどうでも良い、朱緒を守ってやりたいそんな気持ちが強く湧いて出てくるしそうして生きていけたら…そんな事を思いながら涌き出る泉の波紋をぼんやり眺めていた。
「……!!」
不意に鋭い張り詰めるような空気が伝わってきた。
はっと身構えその空気を放つものを見た黒王は、さっきまで朱緒と話していたじいさまが自分の方にゆっくりとやって来るのを感じた。
それにしてもこの気配はどうだろう…まるで獲物を狙う山犬のように鋭く冷たい。
黒王は思わず切り株から立ち上がる。
「お前さんが朱緒の言う黒王か?」
穏やかに言葉を発しているが、鋭い空気はそのまま放たれていた。
「今はそう呼ばれております。」
黒王は緊張した声でそう言いながら、うやうやしく地面に伏した。
じいさまはそれを見て、はは…と一笑し黒王の肩を叩き起きるように手で合図する。
黒王は正座をしたまま、体を起こし緊張したままじっとじいさまの顔を見つめた。
「…子らが世話になったの…助けてくれてありがとう。さあ…そのように緊張せずとも…わしはその様なものではない、ただの山に住む年寄りじゃ。」
にこりと笑いじいさまはそう言い、あの鋭い空気を解き放つ。
その言葉と解き放たれた気配に、黒王は背中にどっと汗が吹き出るのを感じた。
じいさまに感じたのはそう…自分が知る限りのもので言うなら、盗賊の大頭目が睨みを効かせて立っている…そんな姿だった。
そんな事を思いながらじいさまの姿を眺める。じいさまはじいさまで、穏やかに笑ながらも黒王の様子を見ていた。
「なんと、そなたも怪我をしておるのか…小屋に来なされ。手当てをしてやろう。」
そういわれて肩を見ると、深手をおった肩の傷から血が滲み出て着物を濡らしていた。
治りきらないうちに動いた為、塞がっていた傷が開いたのであろう。
黒王を立たせるとじいさまは驚き見上げ声をあげた。
「なんとそなたはたくましい…わしなぞ子のようじゃなぁ。」
からからと笑いじいさまは黒王を従えるように小屋へ戻る。
小屋の入り口では、朱緒が何やら心配そうな顔をして立っていた。
じいさまが笑い顔で小屋に戻るのを見たときには何やら安堵した表情で黒王の顔を見る。
「汀…新しい布と傷薬を用意しなさい。」
小屋に近づくとそう一言若者に声をかけた。若者はわかりましたと答え小屋の中に入っていく。
じいさまと黒王が小屋の入り口まで来ると、朱緒にも肩の血の滲みがわかったのか、心配そうな顔をして黒王を見ていた。
先程の岩棚での一件で傷が開いたと思ったからだ、
今にも泣きそうな顔をして見ている朱緒に『心配するでない』とじいさまは笑いながら言い、黒王を小屋の奥へ通す。
小さな小屋は二人が入ってやっとの様子になった。
じいさまは黒王に着物を脱ぐように言い布を剥がして傷の様子を見ていた。
中に入れない朱緒は外から相変わらず心配そうに見ている。
「朱緒…そなたの大事な人をわしは食わんから安心せい。家に帰って、することをしなさい…やれやれ…これはかなりの深手じゃの。」
じいさまはそう言いながら、入り口近くの棚にある皮袋を取った。
黒王が入り口を見たとき朱緒の顔が朱に染まっているのが見える。
それを見た黒王は岩棚で感じたあの痺れるような感覚が走るのを感じ他に人がいるのもはばからず見とれていた。
二人の顔を交互に眺めていたじいさまは、頭を振りながらやれやれ…というような面持ちで汀を呼び言いつける。
「汀…朱緒を送ってやって、この殿御が戻るまで番をしてなさいそれから……」
「……はい。」
じいさまは汀が来ると黒王の着ていた着物を渡しながら耳打ちをし、汀は言われることの一つ一つにうなずいて応えた。
一方黒王は、朱緒が汀と家に帰ると聞いて何やらそわそわと落ち着きがない。
その様子をじいさまの肩越しに見ていた汀が、じいさまに小さく合図をする。
じいさまは横目でそれを見ていたが、汀に早く行け…と小さく言い小屋の戸を閉める。
「一言申しておくがなぁ、そなたが心配するような事はないから安心しなさい。汀はまだ子供じゃからの。」
黒王は自分の思う心情を、読み取られたのが照れ臭かったのか…耳まで朱に染めて下を向いた。
じいさまはニヤリと口を歪め黒王の肩を叩く、そうして傷の手当てをしながらあれこれと聞いてきた。
黒王はこのじさまには偽りを言っても通用しないと思ったのか、自分のこれまでしてきたことを包み隠さず話をした。
「ふうん…そうか…そなたはそんな生き方をしておったのか。
一つ聞いても良いか?そなたなぜ朱緒の傍らにおる…」
出し抜けにそう言われて、黒王はしどろもどろに答える。
「……わしのような罪で汚れた者が、天女のような朱緒の傍におることは出来んと…ようわかっておる…でもなぁじいさま…』
「ふん…わかっておるわい。そなた朱緒に惚れておろう。申してみぃ…」
じいさまは意地悪くそれでも楽しそうに聞いてくる。図星を突かれ思わず顔が赤らめながら黒王は…
「じいさまのいう通り、朱緒にわしは惚れておる…いや…惚れてしもうた。わしの命をかけて朱緒を守ってやりたいと本気で思うておる。」
黒王の脳裏には、昨夜朱緒を抱きしめながら誓った言葉が浮かぶ。
そうしてじいさまを見つめる目には、嘘偽りのない黒王の心が浮かぶじいさまはそれを見ると大きく頷く。
手当てに使ったあれこれを片付けながら、じいさまは黒王に諭すように語り始めた。
「そなた…罪で汚れた…と自分を言うたが、この世に罪のない者は生まれたばかりの赤子だけだろうて…人は生きる為に、他の命を奪わなければ生きられん。そなた人の命だけが尊いと思うておろう。」
じいさまの言葉に黒王は素直に頷いた。じいさまは小屋の戸を開けて、手招きをしながら外に出る。黒王はそれに応えて外に出た。
「山の木々を見よ…青々としておろうあれらも命がある。獣にも小さな虫にもな…人はそれらの命を奪い己を生かす。」
「…じゃが…獣も他の生き物を喰うて生きておるではないか?それに人を襲う獣もおるでないか。」
小屋を出ると、辺りの木々が風にそよぎ陽の光を受けてキラキラと葉を揺らしていた。
黒王はそう問いかけた。その問いかけをじいさまは鼻で笑い答える。
「ふん…獣は自分が生き延びるだけを喰うておろう。人は必要以上の生き物を殺す。
自分が富み栄える為に無駄な殺生をする…これほど罪深いものはおるまい。それはの身の丈の幸せを知らぬから欲な気持ちがそうさせる。
そなた盗賊をしていたと申したな盗賊をして今のように満ちた気持ちでおったか?」
じいさまは厳しい目で黒王をを見ながらそう言う。
黒王は黙って横に首を振った。脳裏に浮かぶのは、何時捕らえられるか…何時命を落とすか…そんな事を考え人を疑いびりびりとした気持ちでいる自分の姿だった。
ゆっくりとこうして木々を眺める。
そんな余裕なぞ追われる身の上の自分には無く、何よりこんな眩しい世界に身を置いたことがない。
自分の居場所は、いつも闇の中…そうして周りはすべて自分の敵だった、隙あらば奪われ奪う世界…自分はそんな世界の人間だった。
そんな事を思っていると、じいさまは畳み込むように言い放つ。
「朱緒は自分の身の丈の幸せしか知らん。その朱緒と添い遂げたいと思うなら、邪な欲な気持ちを捨てよ。それが出来ぬならこのままここから去れ。
それがそなたの為でもあり朱緒の為でもある。」
ざわざわとした風が山の上から吹いてきた。
じいさまはそれを背に受け立っている。
その目は出会ったときのあの鋭い目に変わっていた。
そこへ木の間から差し込む木漏れ日がじいさまを照らすように差し込む。
じいさまの姿は天から降りてきた者のように神々しく見えた。
黒王はそれを見てまた思わずじいさまの前にひざまづいた。
それは先程の恐れる気持ちからではない、まるで神に祈るように厳かな気持ちからだった。
「じいさま…わしはこれまで沢山の物を奪い命を奪って生きてきた。それはそうして生きることしかわしは知らなかった。
朱緒と出会ってからそうでない生き方を始めて知った。そうして心から朱緒だけは守って生きたいと思った。
じいさまなら朱緒を守るために必要な生き方を…その為の術を教えてくれると今思った。
誓って言う…朱緒はわしの命をかけて守る、その為の術を教えて欲しい。」
そう言うと地面に伏す、じいさまは静かな目でそんな黒王を見ていた。
やがて出会ったときと同じように、肩を叩いて起こし今度は腰を屈めにっこりと笑いながら黒王に言った。
「その気持ちを忘れるでないぞ。」
穏やかな声が黒王を包む。黒王はこれまでしてきた事の全てを許されたそんな気持ちで一杯になった。
二人は泉の側に座り、あれこれと語り合う。
「黒王…そなた守るために生きる術を教えてくれ…と言うたな。ならば教えてやろうこちらに来い。」
じいさまは手招きしながら立ち上がり、先程の泉から少し離れたところにやって来た。
そこは以前水が湧いていたところのようだったが、今は水もなく枯れて乾いた窪みになっていた。
「これはここに来る前のそなたの姿じゃ。」
そう言いながらじいさまは側に落ちていた枝を拾い…
「この枝は朱緒じゃ。朱緒はそなたの命を助け…」
そう言いながらじいさまはその枝で乾いた窪みの中心をトン!と突いた。
すると不思議なことにその中心から、とくとく……と水が湧き出て来た。
「この水は今のそなたの心にあるものじゃ。朱緒を思い守りたいと思う気持ち…」
水は見る間に窪みを潤し満たしていく。それを眺めていたら、一匹の山犬が何かをくわえてじいさまのところに走って来た。
じいさまはその犬からくわえて来た物を受けとると黒王に渡す。包みを開けると中に着物が入っていた。
走ってきた山犬は喉が渇いていたのであろう、さっき湧き出た泉で喉を潤しじいさまの足元にごろりと寝転んだ。
「なんと間の良いこと。
そなたがその気持ちを忘れなんだらな、朱緒だけでなく他のものも助けることになる…この様にな。」
じいさまの言葉に頷く黒王だったが、今一つ芯に入ってない。その様子を見て、じいさまはひとこと言った。
「ははは…一度に解るものではない。そのうちはっきりとそれが解ろう。そうして一つ一つ重ねていくことが、そなたがこれまでしてきた事の償いになり奪ったものへの供養となる。」
黒王はその言葉を一つ一つ刻み付けるように胸にしまう。
さやさやと吹く風は、いつの間にか黄昏時が来たことをその冷たさで教える。
陽も傾き始めたのか辺りは黄昏の色に染まり始めた。
「なんと、こんな時間になってしもうたか。朱緒がさぞや心配しておろうの…この山犬に道案内させるから早く帰るがいい…そなたも心配であろう。」
じいさまの言葉に黒王の顔が朱に染まる。
じいさまはニヤリとしながら腰を屈め山犬に何か言う…山犬はその言葉にあくびをして立ち上がるとブルブルと身を震わせ、二歩三歩歩くとついて来いと言わんばかりに振り返る。
黒王はじいさまに礼を言うと山犬の後を追うように歩き始める…やがてそれは足早になり走るように姿を消した。
一方…先に家に帰った朱緒は落ち着かぬ様子で黒王の帰りを待っていた。
何かをしていても上の空…そんな様子を汀はクスクスと笑いながら見ていた。
もうこれで何度目だろう、表に出て山から下りる道を眺めている。
しばらくするとさっき汀が包みを持たせた山犬が走って来た、その後を追うように黒王も走ってくる。
朱緒は思わず手を振りながら走り出す。黒王と入れ替わるように汀が山に向かい山犬と共に走り出した。
その姿を二人は見送り、肩を抱き合うように家に帰っていった。