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不死騎~戦医ヤン・エッシャー~  作者: 松 勇
隠然たる者たち
10/10

女傑達の策謀

 公国首都アメルダム。


 花の都、ヨルパ大陸西方で最も巨大な芸術、公爵の座す巨大な花壇、などと羨望と揶揄を混ぜ合わせた評価を受ける町並みは、もうすでに秋に入ってきたこの時期であってもまだ花に彩られている。園芸はアメルダム市民の日常に根付いた生活の一部であり、都市の主要産業でもあるのだ。大規模な業者による栽培も郊外では行われているが、ほとんどの家々には大小の差こそあれ花壇があり、居住区ではどこを歩いていても窓ごとに違った花が生けられている。旅人などは市民にとっては当たり前の風景でさえ、物見遊山の対象になる。


 それがアメルダムという街なのだ。




『牡鹿亭』


 その店の看板は入り口横の、幾分建物に対して大きすぎる花壇の中に立てられていた。決して高級店とは言えない、少しは蓄えを持てているような、中産階級の市民であれば、月に一、二度の贅沢として家族で利用できる、そんな程度の料理屋である。

 洗練されているとは言いがたいものの、ルワーズ風のみならず、フリップ風、ラウラ風のさまざまなメニューが用意され、安いながらも味への評価は極めて高い。


 ヤンにとっては懐かしい店である。この店はウィレム・ファン・バステンが昔からひいきにしていたからだ。十代のころ、長い期間ではないがファン・バステン家でウィレムと執事、多い時期でも二名程度のメイドだけで生活していたころ、ヤンは反抗期であり、兄と一緒に行動することは嫌っていたのだが、この店に誘われたときだけは文句を言わずについて行った。


「この店ですか?」


 ヤンに話しかけたのは、旅人風の私服をまとったシモンである。ザーンに到着した当日、ウィレムから予備役入りの辞令を受けたシモンであるが、実は本人ははじめからその理由を知っていた。ヤンも途中で気付いていたのである。二人は翌日、人目を忍んで早朝にザーンを出発。夕方にはアメルダムに到着し、その足でこの店に足を運んだのである。


「そうです。いやあ、懐かしい。味も変わってないだろうか…期待していいですよ。ああ、兄に連れてこられたことは無かったのですか?」

「ファン・バステン将軍は部下を誘うときは必ずこの近くの歓楽街の居酒屋でした。昼食は店屋物で済ますことが多いですし。ああ、泥酔騒ぎが続いたときにはシルヴィア様に首根っこを掴まれて引きずっていかれてましたが、確かこのお店で夜通し説教されていたのではないかと…」


 笑い話になるような話ですら固い口調で話してしまう。そんなシモンを見てヤンは微笑を浮かべた。


「ああ、義姉上もこの店は気にっているようですから。ファン・バステン家御用達のお店です。ま、今日はそれほどゆっくり料理を楽しむことはできないかも知れませんがね…」


 入り口の大きな樫の扉を開け、二人は店の中に消えていった。





 ヤンとシモンが出立する前日、州府庁舎から戻ったウィレムとジェラルドは妙に打ち解けていた。州卿および都市卿との会合は夕食をとりながらであったようだが、後半にはワインが出たのであろう。ウィレムは景気よく大声を上げて笑い、ジェラルドも幾分酔いの兆候が顔に出ていた。

 彼らは実に大胆な公国東部における伝染性吸血病対策について協議を終えてきたのであった。


「兄上、まだ呑むんですか?」

「ん?上さんいないときぐらいいいだろう?」

「そろそろ多少は量を気にして飲まないと、悠々自適でゆっくり呑む時間ができた頃には呑めない体になってますよ」

「ちっ…医者と飲む酒はうまくないな…マウリッツもそうだが…どうして小姑みたいな男ばっかり回りに集まるんだろうな」

「誰が見ても小姑になってしまうぐらい、兄上が呑み過ぎだからですよ」


 ヤンは護国騎士団支部庁舎横の料理屋で夕食を済ませ、シモンはすでに予備役入りの辞令が下ったため、庁舎を出て近くの宿屋に宿泊していた。この場にいたのは三人だけである。


 ウィレムが騎士団長になってからの護国騎士団には全軍において評判の悪い奇習がある。夕刻以降に行われる会議には、どんなに重要なものであっても、飲酒が伴うのだ。全軍の尊敬を集める護国騎士団長ウィレム・ファン・バステンの最大の欠点とされるのは、酒癖、というよりも飲酒の習慣そのものであった。

 毎晩のように部下たちを誘い、歓楽街に繰り出す。行き先では大いに盛り上がり、時として泥酔騒ぎを起こす。暴力沙汰こそ多くは無いものの、一事は軍務府に対し、アメルダムの飲食店組合から護国騎士団員入店禁止としたいとの申し入れがきたことがあるぐらいであった。


 すでにほろ酔い加減にもかかわらず、さらにワインを喉に流し込みながら、ウィレムは州府庁舎での議論のあらましを述べた。


「ふむ。なかなか面白いことを考えたね。ジェラルド」

「お前と話していると、だんだん大胆なことが当たり前に思えて来るんだよ。ま、といっても、構想自体はヤンの考えていたものと変わらないだろう?」

「そこまで具体的に考えたことはないけどね。そのあったりは領主でもない医者の手にはあまるからな」

「ふんっ、一介の医者がそもそも原案だって考えるような話じゃないがな」


 最後の一言はウィレムのものである。


「さて、ヤン、とりあえず、明日は早めにザーンを出てくれ。目立たないようにな。騎士団の馬車を出してやりたいところだが、それじゃせっかく忍ぶ意味がない。悪いが乗合馬車を使ってくれ」

「ええ、かまいませんよ。軍の馬車なんて窮屈なものに何時間もゆれていたくないですからね」

「大して変わらんと思うがな…」

「で、アメルダムについたら、その後は?」

「牡鹿亭に行ってくれ。あとのことはそこでシルヴィアから聞くこと」

「あぁ…やっぱり義姉上の指示で動くんですか…」


 ヤンは心底げんなりした顔で言う。


「といっても、そうそう頻繁にシルヴィアと会うこともできんと思うがな。とにかく慎重に、お前が俺やシルヴィアの指示で動いているなんて気付かれないようにしてくれ。というか、ばれないように自分で考えて勝手に動けってことにはなるだろう。シルヴィアはお間に協力するだけだ」

「はあ、それはそれで逆にプレッシャーが掛かりますね…」





 そんやりとりを思い出しながら、ヤンは店の玄関をくぐった。


「あ、これはこれは。ヤン様…お懐かしゅうございます。すっかりご立派になられましたな」

「はは、もうすぐ三十路になります。店主ウェンクリアも元気そうだね」

「ええ。お蔭様で、ファン・バステン将軍や奥様にも大変ご贔屓にしていただいてますので。さ、個室をご用意しております」

「義姉上はまだ来てないのですか?」

「はい。少し遅れるかもしれないとご連絡がありましたが、別の方がすでにいらしております」

「別?」


 ヤンもシモンもシルヴィア以外に同席する者がいるとは聞いていない。


『罠か…』


 シモンは警戒心を強めた。この会合に関する情報が漏れているとは考えがたいが、それでも完璧といえることはない。もし、何らかの方法でヤン・エッシャーがシルヴィア・ファン・バステンと接触し、アメルダムにおける活動を始めることを察知した者がいたなら、シルヴィアを足止めした上で、待ち伏せする、そんなこともありえるかもしれない。


 だが、一方でシモンの勘は危険を告げていない。ウィレムがシモンを高く評価する理由は、護国騎士団、いや全軍一とも噂される剣の腕だけでなく、優れた危機探知能力にある。軍略家と言うほどに、兵法にすぐれているわけではないが、動物的な勘とで言えようか、説明し難い予知能力ともいえる危機を察知する嗅覚に優れている。


「シモンさん。自分の勘はもう少し信じてもいいと思いますよ」

「エッシャー先生…」


 シモンの内心を感じ取ったヤンは微笑を浮かべながら言った。


「少なくとも義姉上は早々簡単に罠に掛かる人ではありません。ここの店主ウェンクリアも…ある程度の事情は抑えていることでしょう。長年ここで店を構え多くの客を相手にしていますから、怪しい人物なら義姉上の知り合いを騙ったところで個室に通したりはしません」


 そういいながら、無警戒にヤンはドアを開けて中に入った。


「なっ?!」


 不意をつれたようにヤンが叫んだ。まさかと思いながらシモンはヤンを押しのけ、剣の柄に手をかける。


「?」

 

 部屋を見回してシモンはあっけに取られた。椅子から立ち上がり、目を丸くしてこちらを見ているのは二人の女性であった。一人は三十前後ぐらいであろうか、男装に近い動きやすい服装、長いブロンドの髪を後ろで一本にまとめている。すらりとした長身の美女である。もう一人は二十歳前後に見える短めに切りそろえた亜麻色の髪の女性で、服装は質素で地味であるが、こちらもかなりの美人である。


「………」

「………」


 双方とも成り行きの意外さに無言となってしまっている。もっとも状況がわかっていないのがシモンであった。ヤンが驚いた意味がわからない。どう見ても工作員などには見えない二人であるし、待ち伏せしていたなら、シモンが剣を抜こうとしても驚く前に攻撃してくるはずである。


「遅れてごめんなさい。ん?」


 そうこうしているうちに、今度は後ろから女性の声が聞こえてきた。シモンも聞き覚えがある。デザインは地味であるが、一級品の絹を使って編まれ、さりげなく宝石を散りばめたセンスのいいドレスを豊満な肉体に纏い、ブロンドの髪を肩まで伸ばした大柄な美人。ウィレム・ファン・バステンの妻シルヴィア・ファン・バステンである。


「何しているの?シモン君…」

「え、い、いや…」

「というか、何を固まっているの?ヤン…」

「………」


 沈黙が続く…。


「ん…ああっ、ああ、そうか…カリスはともかく、もう一人を見てびっくりしちゃったわけね。ヤン」


 ポンっと、手をたたいてから、妙にニヤニヤしながらシルヴィアが言った。


「で、シモン君は?」

「あ、いえ、部屋に入ったエッシャー先生が声を上げたので、敵の待ち伏せでもあったのかと…」

「なるほど、それで二人もびっくりして席を立っているわけね。で、いつまで四人とも固まったままでいるの?店主ウェンクリアも注文を聞けないでしょう。とりあえず、お座りなさいな」


 一同、若干の気まずさを感じながら席に付き、各々飲み物を注文した。料理はシルヴィアがコースを注文してある。ヤンとシモンはオーソドックスにワインを、女性二人はワインを桃の果汁で割ったもの、シルヴィアは桃の果汁だけを注文した。


「義姉上…お酒をひかえておられるのですか?」

「ん?まあ、旦那様が酒豪だと、妻はお酒がすすまなくなるのですよ…」

「は、はあ」


 シルヴィアはウィレムほど好んで呑むわけではないが、実はウィレム以上に酒には強く、酔っ払ったところをヤンは見たことが無い。食事の席で酒を断るというのは意外であった。


「さて、全員を知っているのは私だけですから、紹介させてもらいます。こちらはカリス・クリステル。ああ、ヤンは何度か顔を合わせているわね。クリステル財団総合診療所の所長で優秀な産科医です。公国中央医局の参事官も兼ねていて、私とは長い付き合いです」

「カリス・クリステルです。エッシャー先生とはお久しぶりですね」

「ええ。大変ご無沙汰しておりました」


 公国中央医局の参事官というのは、医局の運営について意見を述べることができる重要な役員である。常勤の者と非常勤の者がいるが、カリスは非常勤の参事官であろう。この若さ、しかも女性でとなると極めて異例のことである。


「で、こちらは…、ああ、先にこっちにしましょう。こちらは、護国騎士団長親衛隊の百人長、今は今回のために一度予備役入りしているけど、ウィレムご推薦の優秀な剣士シモン・コールハース君です。アメルダムにいる間はヤンの護衛兼助手として働いてもらいます」

「シモン・コールハースです。御初にお目にかかります」


 生真面目に頭を下げるシモンにカリスは無言の微笑で答えた。

 五人はカリスと、最初からいたもう一人の若い女性はテーブルの窓側に、その正面にヤンとシモンが並び、シルヴィアは一番奥の席を占めている。この場を取り仕切るのはシルヴィアなので、女性であることを除けば妥当な席順であった。

 が、話の仕切りを買って出ているシルヴィアが、もう一人の女性だけはなかなか紹介しようとしない。急に雑談をしたりしながら、ニヤニヤと笑みを浮かべ、時々盗み見るようにヤンを見ている。そうこうしているうちに、酒と料理が運び込まれてきた。


「あの、失礼ですがシルヴィア様…もうお一方、ご紹介いただいてないのですが…」


 痺れを切らしたシモンの問いにシルヴィアはがっかりしたようにため息をついてから、話し始めた。


「もうちょっと、じらしておきたかったのだけど…まあ、いいでしょう。彼女のことを知らないのもシモン君だけね。ヤンはともかくシモン君を疑心暗鬼にしているのは気の毒だから紹介してあげましょう」

「奥様、それは私の方から…」

「ああ、その方が…面白そうね」


 カリスの申し出に答えるシルヴィアは急に扇子を取り出して、口元を隠した。公国一の淑女といわれる彼女にしてはやや下品な笑いが口元から漏れ出ている。


「こちらは私の妹です。と言っても父が生前に孤児院から養子に貰い受けた娘なんですけど、なかなか機会が無くってご紹介できておりませんでした」

「い、いつからですか…?」

「うーん、もうかれこれ…十年ちょっと前になるかしら?」

「つ、つまり…まだ私がファン・バステン家にいた頃から…」

「ああ…妹を責めないで上げてくださいね。あなたの邪魔をしたくないって、自分が一人前になるまでは会わないでおきたいって言うものですから…」


 シモンには二人の会話の意味はほとんどわからない。ただ、シルヴィアはもう爆笑していた。当の本人たる名前の知らない女性は、控えめの微笑を浮かべながら、なぜか少し緊張しているようであった。


「とてもお懐かしゅうございます。エッシャー先生。御初にお目にかかります。コールハース卿」

「ひ、久しぶりだね。さ、サスキア…」


 シモンはあいかわらずよくわからない顔をしているが、とりあえず、ヤンとは旧知の仲らしい。


「シモン君が事情がわからなくて混乱しているみたいだから、説明はするけど、とりあえず、食べながらにしましょう。どうしたの?ヤン、食事が喉に通りそうも無いの?」


 なるほど、ヤンは本当にシルヴィアが苦手らしい。ウィレムですら、ヤンをやり込めることはできても、ここまで呆然となるまでに追い詰めることはできなかった。


 食事は豪華ではないが、噂どおり美味であった。普段は独身寮での粗食で、他は歓楽街の居酒屋に誘われるぐらいのシモンにとっては、滅多にありつけないほど舌に心地よい。が、ヤンはシルヴィアの言うとおり、ほとんど喉にも通らないようである。


「予想以上の反応です。十年前からの仕込みがやっと使えてたわね、カリス」

「奥様…別に私はエッシャー先生をいじめようと思っていたわけではないんですのよ」

「私はあなたから彼女の話を聞いたときから考えていたんだけどね」


 年長の女性二人は二人にしかわからない会話をしている。


「ええと、じゃ、あらためて。彼女はサスキア・ウテワール。先ほどカリスが話したとおり、彼女の義理の妹です。ご両親を幼い頃になくしたのだけど、家名を残したいからと、実家の姓を名乗っています。じゃ、残りのややこしい部分はヤンからね」

「は、はあ…」


 ため息をついてからヤンは話し始めた。


「実は私も孤児院にいたことがありまして、彼女はそこで一緒だった…いわゆる幼馴染というやつです」

「それで、どうしてそんなに気まずそうなんですか?」

「シモン君、いいわね。生真面目すぎてそういうのに疎いから、かえって鋭い質問が飛び出るわ」

「は?」


 ヤンの事情は事前にウィレムから聞かされてはいた。ヤンとウィレムは腹違いの兄弟で、ヤンは保安兵団長だった二人の父親が、メイドに生ませた子供であった。妻のヒステリーを恐れた父親は大金を与えて母子を屋敷から出したのだが、数年後、母親は流行病で死亡。父親に隠れてウィレムが手配した孤児院に入り、さらに数年後、今度はウィレムの母が同じ病で死亡したため、孤児院からヤンを引き取ったのである。そして、その一年後、やはり同じ病で二人の父親も亡くなり、それからは家長となったウィレムが父親代わりとなって、十歳年下のヤンと共に暮らしていたのである。


 しかし、シモンは混乱しっぱなしである。その孤児院時代の幼馴染の女性と、なぜ今引き合わせねばならないのか。


「ふむ、じゃあ、シモン君にヒントを上げましょう。私は国務府と司法府の顧問を勤めています。特に国務府ではある国家的な問題に長いこと取り組んでいます」

「ええと…たしか晩婚化と少子化に対する対策でしたね」

「ええ。アメルダムでは貴族も含めた女性の社会進出が目覚しい反面、そのために晩婚化が進み、少子化の傾向も強くなってきました。さまざまな政策を打ち出して、少しずつ回復してきているんですが…」


 ここで、目は怒ったようにジロリと、しかし口はにんまりと歪んだ奇妙な表情でヤンを見る。


「ふぅ…身内に独身者が多すぎて…体裁が…」


 わざとらしいため息と共に言うシルヴィア。


「な、なるほど…つ、つまり…」

「なかなか身を固めようとしない義弟にやきもきはしていたけど、カリスから彼女の話を聞いていたから、無理に縁談を進めたりはしなかったのです。かわいい幼馴染の話はヤンからも聞いてましたしね」

「あ、義姉上っ!」

「あ、あの…し、シルヴィア様?縁談って…そ、そんな話は…」


 シルヴィアが『縁談』と口にした瞬間、当の二人が抗議の声を上げる。


「い、今はそんな話をしている場合では…」

「縁談って…わ、私はエッシャー先生のお仕事のお手伝いがしたいとだけ…」

「健気よねぇ…ヤンの手伝いがしたいってだけで、十六の頃から看護士の資格を取って…」

「もう、何年か前からは二十歳そこそこの若さで産科婦長にも押されていたんですよ。元々医学院に行けば医師の資格も取れるぐらいの頭は持っているのに…ね、サスキア」

「お義姉様っ!」


 サスキアという女性は顔を真っ赤にしている。


「ま、確かにこんな話をしている場合じゃないわね。残念ですけど、式は今回の事件が終わってからと言うことで…お預けを食らっているのは、あなたたちだけじゃないから…」

「いや、その、縁談を前提にされても…ん?私たちだけではないとは?」

「ふふ…さすがね…そこにちゃんと食いついてくるなんて…実は、スタンジェ先生もご婚約されたのです」

「ま、マウリッツがっ?」


 行方不明の兄弟子の名を聞いてヤンは驚く。ヤンの兄弟子マウリッツ・スタンジェは実兄ウィレム・ファン・バステンの親友であり、シルヴィアとも面識はある。極めて真面目で、若くして神医とも呼ばれる公国有数の研究医である。十数年前に流行し、ヤンとウィレムそれぞれの母と二人の父を死に至らしめた伝染性の熱病、スペルファ熱の治療法を確立したことで、師のヨアヒム・カイパー博士と伍する評価を得ている。

 しかし、そんな彼も四十を目の前にして未婚と言うのがたまに傷であった。公国中央医局長と言う要職にあり、経済的にも余裕があるというのに、一向に結婚しようとしなかったのである。


本人曰く、


『結婚は人生の牢獄』


と言う思想の持ち主であった。


「いったい誰と…」

「そこにいる、カリス・クリステルとよ。彼女ももう何年も…」

「お、奥様っ!まあ、そこの二人じゃあるまいし、今更照れたりはしませんけど、過去の話はいいじゃありませんか…」


 露骨に照れた様子でそう言うが、多少の優越感らしきものを感じさせるのは女性ならではなのだろう。


「しかし…マウリッツは…」

「ああ、ヤン、ウィレムには口止めしておいたのよ。護国騎士団の中からは話が漏れる可能性があるようだし、あなたたち以上に隠密の行動が必要だから」

「?」

「エッシャー先生、つまり、マウリッツは拉致されたりしたのではなく、自分の意思で姿を消しているんです。私にはちゃんと話してくれました。今は…まあ、どこにいるかまではわからないんだけど、たぶん、東部国境あたりじゃないかしら…」

「………」

「あの、失礼ですが…つまり…」


 シモンは半信半疑の様子で尋ねた。ヤンの護衛を指示されたシモンですら、マウリッツ失踪の真実は知らなかったのだ。


「今回警戒しないといけないのは、吸血鬼を使ってなにやら策動している連中だけじゃないの。彼らの目論見にも入っているんでしょうけど…伝染性吸血病に関する問題、不祥事があれば、まず第一に公国中央医局長と伝染性吸血病対策室長を兼ねるスタンジェ先生が責を問われます」

「ですが、伝染性吸血病に対応するには…」

「もちろん、そんなことに対処できるのは、公国の要人、特に医療関係者ではスタンジェ先生しかいないわ。でもね…政治家とか役人って言うのは、解決すべき事態よりも、他人を蹴落とすチャンスが大事になってしまうのよ」

「………」

「スタンジェ先生だけじゃないわ。ウィレムにしたって、わざわざ騎士団長自らザーンに駐留することにした理由は、実際にはアメルダムからしっぽまいて逃げたって言うのが本当ね」

「で、私と言うわけですか…」


 むっつりとした表情のヤン。


「そういうことね。医学と軍事、その他面倒なこと全般は、中央の政治とかかわりの浅いヤンにやってもらおうって話よ。スタンジェ先生やウィレムじゃ動きづらいから…」

「…嵌められた…」


 ぼそりと口にしたのは、アメルダムで活動を押し付けられたことなのか、はたまた花嫁候補として、幼馴染を紹介されたからなのか…。


「では…カイパー博士は…」


 当然の疑問であった。マウリッツ・スタンジェの失踪が本人の意思であったとして、同時に姿を消したヨアヒム・カイパーはどうなのだろうか…。


「カイパー博士については私たちにもわかっていないわ…でも、そうそう簡単に拉致されたりするような人でもないし…」

「と、言うよりも…博士がぷらっといなくなるのなんていつものことです。拉致するにも、足取りを掴む方がよっぽど難しい。民衆のための医療に携わりたいなどと言って、アメルダムで診療所を開業しましたが、元々人嫌いです。アメルダムにはクリステル財団の診療所をはじめ、公国中央医局直轄の医院も格安で診療していますから、高名とは言え、汚らしい爺さんにしか見えない医者のところに来る患者はいませんよ…」

「では…無事だと…」

「恐らくですが。医師としてだけでなく、実は結構荒事にも慣れていますから…どこにいるのかは平時であってもわからないことがほとんどです」


 ヤンの言葉に危機感はない。要するに、今のところこちらの陣営は誰も失ってはいないということだ。



 今や公国有数の政治勢力と言われるファン・バステン派は極めて奇妙な派閥である。そもそも、ファン・バステン家は武門の誉れがあると言えども、爵位は男爵位でしかない。関係の深い有力貴族としては、シルヴィアの従兄弟である、司法卿アントン・ファン・フェルメール伯爵がおり、シルヴィアはその従姉弟で、以前は公国有数の伯爵家であるファン・フェルメール家の家督を相続していたこともある。しかし、名門と言えばそのファン・フェルメール伯爵家だけで、政府の要人としては、中心人物とされ、護国騎士団長の地位あるウィレム・ファン・バステン、公国中央医局長マウリッツ・スタンジェ、同局参事官カリス・クリステル、現保安兵団長ピエト・ファン・サッセン。これが全てであった。


 にもかかわらず、名門貴族の派閥に煙たがられるほどの勢力があるのは、一つには下級役人や兵士たち、そして一般市民の人気が高いことであり、もう一つは、公国の君主たる国公との関係が深いからである。そもそも、シルヴィアはまだ子供の頃の現国公ジェローン・ルワーズの教師であったこともあるのだ。




「で、そろそろいい加減本題に入りましょう。カイパー博士については探すだけ無駄だと思いますが…」

「そこはその通りね。カイパー博士が自分で姿を消しているなら、ヤンにだって探すことはできるはずがないわ」

「それで、私はまずどうすればいいのですか? それに何故ここにクリステル先生と…サスキアがいるのです?」


 当然の疑問であった。隠密裏に行動するなら関係者は極力減らすべきである。


「まず、有力貴族の妨害はともかくとして、政府機関、特に国務府、中央医局、護国騎士団、保安兵団の中に存在するであろう、吸血鬼一党との内通者をあぶりだす必要があります」


 この四つの組織は、吸血鬼対策の中心として活動すべき政府機関であると共に、ファン・バステン派が直接的に影響力を及ぼしている組織である。


「国務府については私が、中央医局はカリスが、保安兵団についてはファン・サッセン将軍が隠密裏に内偵をしています。護国騎士団については、ウィレムがザーンにいる間は、第一部隊のカレル隊長が動いているわ」


 カレル・パルケレンネは、護国騎士団の中でも珍しい、平民出身の叩き上げである。百人長クラスであれば、シモンのように優秀な人物が昇進することがあるが、部隊長クラスとなれば、ほぼ貴族のためのポストであったのを、ウィレムの抜擢人事でアメルダム駐留の第一部隊長にまで昇進した人物である。


「でも、どうしても表立っては動けないことも多いのよ。内部の人間は特に地位が高い分だけ動向が筒抜けだから…」

「つまり…私はみんなの雑用係と…」

「そう不満そうな顔はしないでよ…そもそも組織の垣根を越えて動ける人がいないと、相互に連絡を取り合うのも難しいのよ。カリスは元々私とは頻繁に友達づきあいで顔を合わせているから、今更心配する必要もないだけど…」


 カリス・クリステルとシルヴィア・ファン・バステンの仲は十年前から有名であった。元々、ファン・フェルメール家と深いかかわりのあるアメルダム最大の民間組織、クリステル財団の創設者の令嬢であるカリスは十代のころから、年上のシルヴィアと親友となり、社交界では『二輪の美花』ともてはやされていた時代もある。


「ファン・サッセン将軍やカレル隊長との連絡役ということですか?」

「そんなことだけのためにあなたを呼んだりはしないわ。増してシモン君付きでね。私たちの手の届かないところは全般的に動いてもらうわよ。あ、それから、あんまり細かい指示なんて出せないと思うから、自分で考えて動くようにしてね。情報を提供する手段は準備しておくから」

「…つまり…みんなにこき使われる役目と…」

「悔しかったら、はじめから責任ある立場というものについてごらんなさいな」


 ヤンはやられっぱなしであった。


「あの…それで、こちらのサスキアさんは…」


 カリスがここにいるのは、中央医局での調査について協力を求めるためであろう。だが、サスキアがこの場にいる理由にはならない。


「シモン君、あなたは予備役入りしたとは言え、独身寮の部屋は残っています。自分から希望しない限り出なくていいようになっているから、そこで寝泊りするように。ヤンは隠密行動が必要だから、実家に寝泊りは無理です」


 半眼でヤンはシルヴィアを見ている。兄嫁と使用人しかいない実家など、どうせ居心地が良いわけも無い。


「カリスが自分たちの新居の名目で買い取った屋敷があるから、そこを拠点にすること。で、男一人で潜伏していたりすると、周囲にも疑われてしまうわ…」

「…ま、まさか…」

「あなたの身の回りの世話は彼女が担当。近所には新婚夫婦ってことにしてね」

「あ、義姉上っ!」


 さすがにこれにはヤンも怒った。赤面しながらでは迫力に欠けるのだが。が…。


「あ、あの…え、エッシャー先生…ふ、振りだけですから…あと、私も一応看護士ですし、伝染性吸血病に関する知識もあります。お手伝いできることもありますから…」


 やはり赤面してはいるが、かなり勇気振り絞った感じで言う。


「う…」

「ヤン…女にここまで言わせて、拒否したらさすがに酷いわよ…ま、当面は・・・『振り』ってことで…」

「あら、奥様…別にそのまま既成事実ができても、先生は責任を取ってくださると思うし、サスキアも大喜びで私はかまいませんわよ…」

「義姉上っ!」

「お義姉様っ!」


 二人して大声を上げるが、とりあえず、これはその通りとするしかなかった。




 今後の動きの細かい打ち合わせを食事をしながら済ませたあとは、やや酔ってきたカリスが陶然した表情で惚気だす。気付けば手にしている酒は、桃の果汁で割っていたものから、生のワインに変わっていた。


「マウリッツったらねぇ…ホント優しいんだから…私との結婚が決まったら、こんな状況だってのに、弟弟子のエッシャー先生のことまで考えて…自分だけ幸せになるんじゃ申し訳ないって…」


 そう惚気るカリスを見ながら、ヤンは小刻みに震えていた。


『兄弟子の差し金かよ…』


 呆然としながら、シモンはマウリッツの本音を読み取ってみた。


『自分だけ結婚という牢獄に入るのは癪だから弟弟子も道連れにしよう』



「ん?シモン君?ああ、あなただけ一人ねぇ…三十近くまで自分の恋人は剣だなんて、変態性癖を持っているから…」

「え、いや、あの…何を?」

「精神科医が言うには、異常性愛の源は性欲求の過剰な抑圧にあるってね」

「く、クリステル先生?」

「そのうちあなたにもいい娘を見繕ってあげるからまってなさい」

「は、はぁ…」


 気のない返事をしながら、シモンは別のことを思い出した。ケテル村にいたカレン・ファン・ハルスである。明らかにヤンに惚れていると思われるあの伯爵令嬢の存在をシルヴィア達は知っているのだろうか…。


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