第19話 起きたのか、兄ちゃん
「……はっ……はぁ」
一拍おいて、荒い呼吸を止める。悪夢を見たのだ――という認識はなかった。
“夢”というものは、脳の記憶整理のために副次的に発生する生理現象でしかない。
その仕組みを、人体という「システム」の維持機能として彼は理解している。眠っている脳は、散乱した情報を分類して、そのいくらかの記憶を断片的に埋葬する。
情報処理の過程では、過去が再生され、虚構が捏造され、夢として生成される。
所詮は認知の産物だ。そこに意味を求めることは、単なるスピリチュアルである。
――そう理解しているから、彼は、己の頬を伝う冷や汗に説明をつけられない。
「……ここは……」
フィンは一瞬だけ、そこをインスマス号の医務室と錯覚した。
微かに、消毒用アルコールの匂いが空間の中に漂っていたからだ。
だが、部屋の作りはもっと簡素で、棚の配置も違っている。
棚の中身はどれも空であり、遠目にわかるほど埃が積もっていた。
身を起こしてみれば、簡易ベッドに寝かせられていたと気づく。
扉を開けて、廊下の向こう――雑然とした気配を辿って、進む。
「…………っ」
建物を出ると、莫大な光が降り注いだ。燦々と降りしきる太陽光。
突き刺す光条に目が慣れていけば、果てしない青空が広がっている。
ゆっくりと視線を落とすと、そこに在ったのは無秩序な町の姿だ。
「ここは…………」
立ち並ぶのは、ユニット式の建造物。その間を縫うように敷かれた歩道。
狭く細長い街路を、数えきれないほど多くの人々が行き交っている。
男も女も老人も子供も。誰も彼もが、皆、浮浪者のような恰好をしていた。
海鳥の鳴き声が、客を呼ぶ屋台の声が、笑い合う子供の声が、響き合う。
鼻腔をひりつかせてくるのは、塩の匂いと、古くなった機械油の混じる空気。
――どこだ、ここは。フィンは暫くの間、その場所に立ち尽くしていた。
「起きたのか、兄ちゃん」
声へと振り向くと、まだ十歳とも思えるほど幼い少年が立っていた。
無造作に伸ばした深い緑の髪に、やけに色白の顔に浮かべた笑顔。
「……子供? ……誰だ、お前は」
「子供じゃねえ! 名乗るときは自分からだろ」
「――…………」
少年は両腕を組み、彼の目の前でふんぞり返っていた。
沈黙を少し経て、フィンは求められている行動に気づく。
「…………フィンだ」
「背ビレ? なんだよ、それ名前なのか?」
「……名前だ。お前は?」
「………………」
「…………お前は?」
「……リオだよ。変なヤツだな!」
リオ、と名乗る少年は訝しげに睨み、ぎこちなく続けた。
「――なあ、ちょっと家ん中に戻れよ」
「なぜだ?」
「その恰好! 浮いてるって分かんないか?」
「…………浮いている……?」
フィンは周囲を見渡してから、改めて、身に着けている装備を一瞥する。
伽御廉重工製、二七式個人防護装具。愛用の銃とナイフは腰元にない。
きっと、眠っている間に取り上げられたのだろう。が、いずれにせよ――。
いわゆる“パイロット着”のまま、街路を歩いている人間は一人も居なかった。
「とりあえず、こっち来い!」
リオに手を引かれて、フィンは再び屋内へと連れ戻される。
「せめて上に何か羽織れ。ムキムキを見せつけるな」
「……ムキムキ?」
「その腹だよ。やめろ、恥ずかしい」
すたすたと歩く、小さな背中についていく。医務室とは反対側だ。
扉を開けると、そこはもっとプライベートな居住空間のようだった。
リオは壁際のボックスを開いて、中から何着かの衣服を取り出す。
「……っと、これいいな。これ着ろよ、フィン」
「これは……SAVIOの防護ポンチョか?」
「ああ、父さんの持ち物。服だけ残してあるんだ」
投げ渡されたライトブルーのそれを、ばさりと広げて肩に羽織る。
些かの埃臭さがあるものの、サイズはピタリと彼の身体にあっていた。
「だいぶマシだ。目のやり場に困るんだよ」
「……そうか」
「目、覚めて良かったな」
ぱっ、と照る太陽のような少年の笑顔に、フィンの記憶が薄く反応した。
その無邪気さはナイアに似て、気遣う瞳はセレジアを思い起こさせる。
歯向かうような、傲慢そうな物言いといえば、ジョニーの面影だろうか。
彼らは――どうしているのだろう。あれから戦況はどうなったのか。
ポンチョのボタンを留め切ったフィンは、無表情のまま少年に訊ねた。
「……リオ。俺はどうして、ここに居る?」
「“少佐”がアンタの面倒をみろって言ったからな」
「少佐? ……この町の責任者か?」
「まあ、そうかな? ――あ、そうだ!」
唐突に、リオは思い出したように手槌を打つ。
「せっかくだからさ、少佐に挨拶しにいけよな」
彼は窓の向こう、プラットフォームを見下ろす管制塔を指さした。
◇
難民や民兵たちから、“少佐”と呼ばれる人物には心当たりがある。
管制塔の警備をすり抜けることは、フィンにとって容易だった。
巡回する兵たちの練度が低いだけでなく、人数すらも少ない。
どこかへ出払っているのか――市場でくすねたナイフを握り直す。
彼は気配を殺したまま、兵士たちの警戒の死角を縫って進んだ。
「ここは……」
やがて彼は、寂れた管制塔の中層、とある一室の前で立ち止まった。
文字の掠れた“通信室”の上から、執務室と記されている室名札。
ナイフを逆手に構えて、腰を落とし、呼吸のペースを整える。
瞬間。フィンは勢いよく扉を開けると、室内のほうに飛び込んでいった。
そのまま駆けて、正面の壁際の、重厚なデスクに着く男へと攻め寄る。
「おっ……! ……――と、貴様か。目が覚めたようだな」
首筋にナイフを添え当てられても、男が動じることはなかった。
フィンは瞬間的に視線を動かし、室内のクリアリングを完了させる。
その男の他に兵士の姿はなく、監視カメラの類いも見当たらない。
「……気分はどうだね?」
「問題はない」
男はゆっくりと、手にしていた――グラスをデスクの上に置いた。
頸動脈にナイフを当てたままの姿勢で、フィンは声を低く、訊ねる。
「海洋民兵の指導者、タリク・フロストだな」
「我々に指導者など存在しない。私もただの一兵卒だ」
「それでも、お前が組織を率いていることは事実だ」
二人の視線が干渉する。タリクは大らかに笑った。
「殺すつもりがないなら、ナイフを仕舞ってもらえるか」
「――……妙な真似はするな。なぜ、俺を助けた?」
フィンは彼の皮膚から果物ナイフを離し、引き下がる。
不自然なほどにリラックスした様子で、彼は肩を竦めた。
「“なぜ”か。ストレートだな」
「質問に答えろ」
警戒を解かないまま、フィンが睨む。タリクは笑みを崩さない。
「……お互い、駆け引きは苦手というわけだな。ならば率直に言うとしよう。我々に貴様の持つ『力』を貸してもらいたい。貴様を生かしているのは、そのためだ」
「力、だと? 俺に、お前たちのテロリズムに加われということか」
「テロ。……その物言いは心外だが、別に『同志になれ』とは言わない。私たちは、今、とある問題を抱えていてね。それを解決するために、協力してもらいたい」
「……問題というと、開拓者たちの行っている“蜘蛛狩り”のことか?」
そうだ――。フィンが問うと彼は頷き、言葉を続けた。
「ルコール海域、そして“ブルー・レーン”での記録を見させてもらった。企業どもが〈アラクネ〉と呼ぶ――あのGSに、貴様は渡り合ってみせたらしいではないか」
「……それがどうした。お前たちの“問題”と、いったい何の関係がある」
「私の知りうる限り、それができるのは貴様だけということだ。その自覚は?」
「否定はしない。……前置きはいい、はやく本題に入れ、タリク・フロスト」
ふっ、と髭に覆われた口元を歪ませ、タリクは笑った。
「では、率直に言う。あの〈アラクネ〉たちを、貴様に排除してもらいたいのだ」




