夜
学校を出て最寄り駅に着くまで、柊は手を握ってくれていた。お互い改札を通り抜けるのと同時に手はするりと解けた。解けてしまった手は、さっきまでの心の繋がりも消えていきそうで少し心がちくっと痛んだ。醜態を晒してしまったのと同じだったから、いくら受け入れると言っていても、空気もあるし限度もある。弁明をしたほうがいい気がしたけれど、言い訳がましくなるのも避けたい。ホームにあるベンチに座り、また私は一人俯いて考えていた。すると柊から口を開いた。「あの!さ。俯かないで。あの紙、渡したでしょ?読ん、だ?」柊は自分で口を開いたくせに、最初に声を発した時よりどんどん小さくしながらボソボソと話した。「え、何?聞こえない。」私はちゃんと聞き取れなくて、自ら耳から顔を寄せてしまった。柊は、私の耳に手を添えてはっきり言った。「お昼の時渡した紙、読んだ?」耳に声を発していて、息遣いや添えられた手が硬っていたり、まだ私を壊れモノに触れるように扱ってくれていて、少し恥ずかしくも嬉しくて微笑んだ。「え、なんで笑うの?なんかおかしいことした?」といつもの柊に近い挙動に戻って少しホッとしながら、一瞬で相手にされていないことに気づくようで、またなぜか針を刺されたように心が痛んだ。私もぎこちない薄ら笑いで声を出した。「見たよ。何?乙は、って。なんか他より特別とか?んなわけ……。」全て話す前に柊は、またさっきと同じように耳を赤くした。なんなんだろう、この振り回される感覚。相手のペースに持っていかれるこの感覚。振り回されるのに慣れない私はすぐにまた口を開こうとした。「……ぁ、」声が出なかった。今の私の顔はどうなっているのか、わかりたくなかった。この感覚は、二年間塞いだ感覚だ。彼の目には、私はどう映っているのだろう。「電車、くるよ、いかなきゃ。」柊はそう言って私の手を掴んで引っ張った。その手はなんだか他の人の手よりも、幼い頃の母に握られていたあの薄い記憶の中よりも熱かった。私の心を引っ張った指針になる人の手は、やっぱり大きく包まれる不思議な感覚だ。そんな人だから、私は気に入ってしまう。
電車がホームに入る、大きな音が鳴った。ホーム一面に響く音に向かって柊は口をぱくぱくさせて何かを喋っていた。目の端から見えていた姿は、綺麗な横顔で。電車がホームに入って大きく風が吹いた。何か、私の素直じゃない面をその風に持っていかれた。そんな気もした。ドアが開いて降りる人にぶつかって、掴まれていた手が離れた。また逃すことはなぜか避けたかったから。ただそれだけで、もう一度手を、今度は私から掴んだ。上手に掴めずに、指先しか掴めなかった。柊は、掴んだ私の手をグッと握り込んで、同じ車両に乗り込んだ。扉が閉まるアナウンスが流れている時に、柊は1つだけ空いている席を指さした。電車が動き出す前に急いで席まで向かった。当然のように柊は私を座らせて、目の前のつり革を掴んだ。私が掴んだ手は、まだ離されていなかった。空中に、繋いだままの手が居場所を失って目の前で浮いていた。柊はそっと私の膝に手を置いてくれた。けれど私はなんとなくその手を離せずに、ギュッと握り込んでいた。それを受け入れるように柊もずっと、手を離さずに見守ってくれていた。お互い寂しいのかもしれない、そう思った。私が生きづらい世界を生きているように、彼も彼なりに生きづらさを感じているのかも、そんなふうに都合よく解釈した。私の降りる駅が近づいてくるけれど、そうなっていくとともに、この空間には私と柊だけの、二人だけの世界が確率されていくようだった。
「次は……駅……駅。」私の降りる駅の名前がアナウンスで響いた。電車のブレーキ音と同時にバッグを肩にかけて、繋いだ手を離して、扉に向かった。柊は特に追いかけてくる様子もなく、自然と離れて「また明日。」とだけ告げた。私はそれに頷いて扉が開いたと同時に背を向けて歩き出した。ホームに降りて気づいた。私は彼が、柊が出会ったあの時から特別であったこと。気づいてから振り返ると、もう電車が出発直前で。「閉まるドアにご注意ください。」そういうアナウンスが聞こえていた。振り返った目の前に彼はいなかった。追いかけてこない姿に少し寂しくなった。元はと言えば、ただの同級生だ。寂しいと思う気持ちの行き場がないのは、当然だった。ましてやそんな気持ちを抱くことすら本当は良くないと思っていたのは私だ。気持ちが行ったりきたりしていて忙しい。明日からは、もっと普通を意識しなければ。そしてこのことは舞揺に伝えよう。私の唯一の友達らしい人だから。普段はやりとりしないけれど、こういう時くらい私だって話を聞いて欲しいモノだ。考えながら歩いていると、気がつけば改札を通り、帰路の途中だった。
「ただいま。」玄関を開いてぐちゃぐちゃにローファーを脱ぎ捨てる。「ご飯いるのー?今できたとこだけど。」いつもはイヤホンで耳を塞いでいるのに、今日は塞がず帰ってきたせいで、母の声が脳に直接入ってくる。私は一人で考えることが多いんだよ、と少しうざったくなり「今いい。後で食べる。」と冷たく言ってしまった。急ぎ足で自分の部屋に入って、扉をしめた。部屋に入った途端、力が抜けて、背中を扉に預けてずるずるとしゃがみ込んでしまった。ゆっくり携帯の画面を開き、時間を確認した。18:45。そりゃあご飯も出来上がる時間だ、と思いながら舞揺の連絡先を開いた。なんて言えば良いんだろう。好きな人ができた?違う。一年の時に出会った男と再会した?違う。こんなに短くまとめられるはずがない。「舞揺、久しぶり。元気?クラス離れちゃったね。何組になったか、確認できなくて、知らないんだけどさ。明日、少し話せない?」これだけ送って、私は制服の袖を脱いだ。
部屋着に着替えて、ダイニングに向かった。いつもなら携帯を持って移動するが、今日はもうたくさんだった。「ご飯冷めてるわよ、あっため直して食べなさいねー。」母からの言葉を受けておかずを電子レンジで温めた。くるくる回るターンテーブルを眺めていると、思考能力も吸い取られていくようで、今はそれが心地よかった。レンジがチンと音を鳴らした。思ったより長く見入ってしまっていたから、ご飯も装えていない。急ぎでご飯をお茶碗に装い、電子レンジを開いて温めたおかずに手を伸ばした。温めすぎていたのか、お皿が熱くて指先がひりっと痛んだ。今朝のヘアアイロンの時のように。ぼうっとしていた私が悪いんだろうけど、ご飯を口に入れる時も、同じように舌先を火傷した。らしくない私になぜか涙がでた。痛くて出た涙、と思いたくて感覚を麻痺させようと思った。そう思うほどに涙は反比例のようにボロボロ溢れた。こんなに少女趣味だったんだ。好きな人ができて、その人を想う気持ちは止められなかった。ご飯もたいして喉を通らなかった。必死に飲み込んだご飯は、口の中でぐちゃぐちゃになって、甘くしょっぱく、少し辛い気もした。
ご飯を終わらせた私は携帯を持って、お風呂に向かった。いつも音楽を聴きながら、ゆっくり湯船に浸かるのが、日課だった。携帯を防水用のジップロックに入れて、服を脱いで風呂に入った。いつものプレイリストを流し、さっさと頭と体を洗い終えて、湯船に浸かった。今日のプレイリストは、なぜか恋愛ソングの類が流れた。見透かされている気もしたけれど、私の言いたいことを代弁してくれる気もして、なんだか心地よかった。ゆったり湯船での時間を過ごしていると、通知音が鳴った。携帯の画面を開くと舞揺からの返事だった。「乙、連絡ありがと。私、最後のクラスは、5組。明日、お昼に話す?今私時間あるから、電話でも良いよ。」舞揺らしく淡白な返事だ。でもまだ友達やれてるんだ、と少し嬉しかった。「今お風呂上がるから、電話もできる。でも明日約束できるなら明日にしようかな。」私のこの曖昧な私の返事に対して、なんて返ってくるか、私はわかる。けれどキリもいいのでお風呂は上がろう。返信もすぐには返ってこないし。湯船からざぶっと立ち上がり、風呂場から出た。丁寧にバスタオルで体を拭いて、髪もタオルドライをしっかりする。服を着て、タオルドライができた髪をしっかり乾かす。いつもおざなりになる自分のメンテナンスを入念にしてしまう。これも好きな人の効果かな。
メンテナンスを終えて自室に戻る。携帯を見ると、舞揺から返事が来ていた。「明日ね、了解。私5組だから迎えに来てよね。」迎えに来てよね、なんてセリフが似合うのは彼女だからだな、と感心して布団に入った。また明日、昨日より変わった一日になるかも。今まで平穏を望んでいた私の精一杯の変化の受け入れだった。




