赤を飲んだのは
「なあ、聞いてくれよ」
仕事帰りなのだろうか。スーツ姿の男が、する、とネクタイを緩め、だらしなくカウンターテーブルに凭れながら、カウンターの向こうのマスターに語りかける。
親しげな様子、マスターも動じていないことから察するに、常連なのだろう。更に言うのなら、これは「いつものこと」なのかもしれない。テーブル席にいる客たちも、男の様子を特に咎めることもなく、かといって遠慮するようでもなく、普通にわいわいやっている。
涼しい顔をしたマスターが、がらがらとグラスに大きめの氷を入れた。水を注ぐと、氷を縫う水が、なんとも言えないいい音を立てる。そうして豪快に注がれた水のグラスを、マスターはだれる男の側にとん、と置いた。
「どうなさったんですか? 今日は」
気品の漂う穏やかな声。マスターはゆったりと唇を笑ませて、男に応じた。男は恥も外聞もなく、おろろんと泣きつく。
「今日も振られたんだよぉぉぉぉぉぉぉ!!」
「おやおや」
マスターはテーブルに伏す男の様子に、少しだけ目を見開く。瞳に滲んだ感情は、ごく普遍的なもので、けれど一瞬にして消える。それを見たのは、カウンターの反対隅で年季もののワインを味わっていた眼鏡の老紳士くらいなものだろう。
営業スマイルに戻ったマスターは、コリンズグラスを取り出し、よく冷えたトマトジュースを注ぐ。とろ、とした水面を落ち着けて、今度はピルスナーの瓶を開けた。勢いよく注がれたピルスナーは、勢いのままに、白くもこもことした泡を生み出す。トマトジュースと混じったからか、泡はほんのり赤く色づいている。
バースプーンをグラスに射し込み、軽くくるくるとかき混ぜ、マスターは出来上がったカクテルを男に差し出す。動作には一点の淀みもない。
差し出された赤いカクテルを一瞥し、男はじろりとマスターを見上げた。
「同情するなら愛をくれよ」
「具体的には?」
「あの子の愛に決まってんだろぉ!! わかってんだろぉがよぉぉぉぉぉぉぉ!!」
だん、と男の拳がテーブルを打つ。泡がふわふわと揺れた。マスターは微かに目を細める。
「お気に召しませんでしたか? レッド・アイは」
レッド・アイ。トマトジュースとビールで作るカクテルである。トマトジュースの赤が美しいことが特徴のこのカクテルは低アルコールのカクテルであるため、二日酔いの人間がよく飲むことがあるらしい。そんな人間の目は赤くなっているものだ。そこから「赤い目」の名がついている。
カクテルには何かしら、カクテル言葉というものがあり、このレッド・アイも例外ではない。そして、レッド・アイのカクテル言葉は「同情」である。これが、先の男の発言に繋がるわけだ。
同情するなら愛をくれ。彼の切なる願いなのだろう。聞き慣れているであろうその言葉を流し、マスターは男にレッド・アイのグラスを示す。
男はばっとグラスを取り、レッド・アイを煽った。いくら低アルコールとはいえ、と思ってしまうような勢い。
あっという間に干されたグラスには、トマトジュースの赤が滲むように淡く残るのみ。それを見て、マスターの目元が軽く緩む。
男は深く深く溜め込んだような息を吐き出す。腹に溜まった空気の全てを押し出すような強さと辛さが香った。
男は勢いのまま、立ち上がっていたところから、座り込む。目元を押さえ、項垂れていた。泣いているのかもしれない。
「……お前の酒、うまいよ……」
少し掠れた声で、男が言った。おそらく、今放てる最大限に優しい言葉だったのだろう。マスターは少し目を見開いてから、口元を綻ばせる。
「本業ですから」
「ははっ、かーっこい」
「かっこいいのはあなたもでしょう」
マスターはカウンターの隅に生けてある花瓶の花を愛でた。白い菊のようだ。一輪だけ射してあり、瑞々しく咲き誇っている。
花に語りかけるように、マスターは告げた。
「あなたは三年前から、事あるごとに告白して玉砕し、そのたびにここで嘆きを吐き出していく。両手の指で足らなくなってから、回数を数えるのはやめましたが……あなたは決して浮気なことはなく、ずっと一人の女性のことを追い続けている。一途、そう、一途な人です」
マスターのしなやかな指が、白い花弁をすう、と撫でる。
「あなたに愛される人は、きっと幸せだと、私は思いますよ」
「……どうかな。彼女はきっと、そうじゃないから、色好い返事をくれないのだと思うけれど」
「今日はどんな告白をしたんです?」
「ランチをしたんだ。赤い薔薇を贈った」
「おや、食事には行けたのですね」
「ようやくオトモダチ程度の関係にはなれたからね……」
それは、それまで玉砕しつつも、諦めずこつこつと関係値を築いてきたからだ。マスターは「それがあなたのいいところなんですよ」と添えて、それを指摘する。男は少し照れくさそうに、胸元のネクタイをいじった。
少し頬は上気したものの、目元を覆う手はそのままで、男は続ける。
「赤い薔薇は重いと言われたんだ。けれど、それなら何が軽いというんだ? あなたに恋をしたということさえ重いのなら、この想いを伝えることすら、彼女には重荷だというのか?」
「……ええ。とても言いづらいですが、そういうことでしょうね」
菊の花を見つめたまま、マスターは答える。ことのほか、はっきりとした語調で、向こうに座していた眼鏡の老紳士までもが驚いていた。
言いづらいと言いながら、さらりと告げてしまうのは、あまりにも無情ではないだろうか、と口論を危惧した老紳士が、ちら、と二人を見る。男はマスターを真っ直ぐ見つめていた。マスターは一切、男の方を見ようとしない。
目元から手を外した男がマスターに向ける眼差しは、無垢なものだった。軽蔑や失望の色はない。まるで欲しかったものをプレゼントされた子どものような透明さ。色で例えるのならそう、ちょうど、そこの花瓶に咲いている菊のような、白さ。
「両の手では足らないほどの回数の告白。回数だけでも重いし、あなたの一途さ、誠実さはこれでもかというほど、感じられたことでしょう。あなたの愛に不足なんてない。ただ……超過している。度が過ぎているんです。彼女の愛の許容力を凌駕しているんですよ。受け止めきれないものを受け入れようとするほど、愚かではないのでしょう」
「愛の分だけ、幸せを与えるとしても、駄目なのか?」
男の問いに「ええ」と答えながら、マスターはおもむろに、シェイカーを取り出す。がらがらと氷をシェイカーに入れ、メジャーカップにアプリコットブランデーを注ぎ、シェイカーに放る。返したカップにレモンジュースを注ぎ、シェイカーへ。砂糖を加え、トップを取り付け、シェイカーを振る。氷と液体の織り成すかしゃかしゃという音が耳に心地よい。
バーらしさの漂う音を楽しみながら、老紳士がレシピを脳内でなぞり、何かに気づいた。喉元まで出かかった何かを、ワインを含んで誤魔化す。きっとその意図は、マスターにしかわからなかっただろう。
タンブラーグラスに、シェイカーの中身を開ける。とろりとした液体がグラスの底を舐めるように満たした。酒だからなのか、その琥珀色はどこか蠱惑的だ。誘うような色香をまとうそれに、しゅわあ、と気泡がもたらされる。炭酸水が注がれたのだ。妖艶な色合いはどんどん透明度を増していき、淡く弾けながら完成する。
「見事なものだな」
男は居住まいを正した。マスターの流れるような所作に感嘆しているらしい。
「……飲みますか?」
「ああ」
ほろ苦く、笑う二人。
アプリコットフィズにも、カクテル言葉がある。「振り向いてください」というものだ。失恋系のカクテル言葉として、界隈ではあまりにも有名である。
スーツの男は失恋を繰り返している。失恋とわかっているのに、諦めきれず、何度も挑んでは敗れて。滑稽と言って差し支えないであろうその様に、アプリコットフィズはよく似合った。
老紳士は眼鏡の奥の目をすがめた。
——人の心にとやかく言うつもりはない。が……
「マスター」
老紳士の渋く濃さを抱く声が、しっとりと場の空気を揺らす。マスターはすぐ、はい、と老紳士の方へ向かった。
「サイドカーを二杯」
「かしこまりました」
サイドカーというのは、ブランデーを使ったカクテルだ。使うブランデーに特に決まりはないが、コニャックがよく使われるのだという。
マスターは首を傾げる。
「どなたかにお贈りしますか?」
「ああ」
二杯ということは、そういうことだ。それに、このサイドカーにもカクテル言葉がある。「いつも二人で」という、捉えようによっては、ロマンチックなものだ。
はて、眼鏡チェーンが堂に入ったハイカラな老紳士のまさしくお眼鏡に叶うような美人はどんな御仁だろうか、などと思いを馳せていると、老紳士は事も無げに告げる。
「きみと、そこの彼に」
「え」
「早いところ店じまいをして、ゆっくり話してはどうかな? これ、お勘定だよ」
少し多めの金額を押しつけて、老紳士は店を出る。マスターは引き留めようとするが、それを妨げるように、テーブル席から出てきた客が、キャッシャーの前に並んだ。
悠々と、眼鏡は扉を軋ませて出ていく。
白い菊は赤を吸われてしまったのだろう。消えない片想いを「親愛」に見せかけるために、あそこにあるのだ。
恋をした相手に求められるのが「友愛」というのも、なんだか因果応報な気がする。どの因果が誰に応じただのとわざわざ野暮な指摘はしないが、二人でいられればいい、という点だけは、男も、意中の相手も、マスターも、同じなのであろうに、どうも叶わぬ思いに振り回されてしまうらしい。
せめて、今ある幸せくらいは、飲み下してくれまいか、とサイドカーを振る舞った次第だ。
「……さて、どこで飲み直すか」
秋も深い。夜はまだこれから。
「次はバレンシアのうまい店がいいな」
しゃら、と眼鏡チェーンが揺れた。




