32・コスモス坂・5
時かける少女BETA・32
《コスモス坂・5》
海岸に下り、岩場を回ったところで意外な人物に出くわした……。
「白根さん……」
「あ……」
白根は、小さな岩に腰かけ、何やら絵を描いていた。
芳子が声を掛けたので、一瞬隠しそうになったが、すぐに芳子には興味なさげに絵を描き続けた。
「へえ、白根さんて絵を描くんだ……湘南の海だ……江の島は入れないんですか?」
「あんな俗な物描いたら風呂屋のペンキ絵になってしまう」
「そうなんだ……」
「オレは太平洋を描いている。海を隔てつ我ら腕結びゆく……」
「インターナショナルの海?」
「ああ、世界は一つ。人類は一つなんだ。だから相模湾みたいな小さな海じゃない。世界に繋がる太平洋を描いているんだ」
「こっちのスケッチブック見ていいですか?」
「え……ああ」
芳子は、鞄の傍らに置いてあった、二冊のスケッチブックを取り上げた。湘南のいろんな場所から書いた『太平洋』が描かれていた。
「上手……あ、コスモス坂のもある。家の近所だわ」
「あ、このへんに住んでたのか」
「戦争で家が焼けて、戦後建て直すときに越してきたんです。このあたりには海も山も街も程よい規模であるからって……」
「程よいか……オレにはなんだか箱庭みたいで息苦しい。この海だけが、大きく外の世界に広がっている。お兄さんの笑顔には参ったよ。この箱庭を突き抜けて世界が見えていなきゃ、ああいう風には笑えないよ」
「あれって、マリリンモンローの映画観た後の馬鹿笑いなんですよ。『資本論』三回読んで悟った笑顔なんて嘘っぱちだから。ごめんなさい」
「ハハハ……いいじゃないか。たとえアメリカが作った映画でもいいものは良い。そういう考え方は好きだ。モンローだって苦労して育ったプロレタリアだ。それに今の夫は社会派劇作家のアーサー・ミラーだ」
白根は無理をしているように思った。でも、あんな兄でも幻滅しないのは、もどかしくも嬉しかった。芳子は、今の日本の若者は魔法にかかっていると思っている。できもしない世界平和を実現できるというおとぎ話、兄の勲のようなブントから、白根のような高校生まで。
「今日は、海しか描かないんですか?」
「うん、お兄さんの写真を見ていたら、海だけを描いてみるべきだと思ったんだ」
「つまらなくないですか、海だけじゃ?」
「海をバカにしちゃいけない。海は季節や時間、天気の具合で千変万化だ。見てごらん、水平線は、けして真っ直ぐじゃない。地球は丸いから微妙に湾曲している。ほら……」
白根は、スケッチブックを目の高さで横にして芳子の目の高さに持ってきた。なるほど微妙に湾曲している。
「きれいなライン……」
白根の水平線は、何の迷いもなく、一気に微妙な水平線の湾曲を描いていた。それに、よく見ると、絶えず変化している波や海の表情も巧みにとらえている。芳子は白根の絵の腕はかなりのもんだと思った。多少時代の魔法にはかかっているけど、モノを見る目は確かだと思った。
「そうだ、一度君のこと描かせてくれないか!?」
「え……!?」
「君の表情は、さっきから五六回は変わっている。ほら、今も変わった!」
こうして、二人の付き合いは稲村ヶ崎の海岸から出発した……。




