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うつくし君

駆ける、駆ける。
蓮の花に蛍がもぐりこんだような灯りの、そんな大きな屋敷から飛び出して、駆ける。道行く人が忌々しげになんとはしたない、とぼやく声が聞こえた。けれど、そんなこと少しも気にならない。蕩ける色彩の夜の街は、瞳の淵の雫のせいだ。自分の足音、ザシュザシュと足元で砂が躍る音。すぐ後ろからは同じような音がしていて、私が止まればそれも諸共にに止まるのだ。嗚呼、その事実の、その事実が、なんということだろう。兎にも角にも考えがまとまらない。駆けて駆けて駆けて、そしてたどり着いた場所は。
「狐! 狐! いますか!」
裏通り、密集した細い道を抜けた先。瓦の剥がれた屋根に、ささくれた柱。そんな家の玄関戸の前で声を張り上げる。
「おお、おお。こんな時間に何かと思えば、お前か」
カラカラと音を立てて玄関戸が開く。ぬるりと姿を見せたのは、その名の通り狐を想起させるような細い目の男。若い見かけにそぐわず、ゆったりとした動作は老人じみていた。私はそれがもどかしくて、慌ただしく彼の両の手をとる。
「狐! 狐! 嗚呼良かった。お願い、お願いです、どうか」
自分の声は不自然に上ずっている。狐は私の後ろに視線を向けたようで、ほんの僅かに目を見開いた。
「どうかほんのしばらく、匿っていただけないでしょうか」



 納屋の扉がそうと開くと、柔らかな月光が細く差し込む。同時に流れ込んでくるのは遠くの喧騒、ざわめきや雑音。とっさに耳を覆いたくなるような、そんな不安がつま先から駆けてくる。
「あなたは、どなたですか」
肩がびくんと跳ねてしまった。いけない、いけない、いけない。札越しの薄白い視界に見える少年が、此方をじっと見つめている。
「今うちに、六の人形(ひとがた)はいないのですよ。ついさっき、呉服屋へ狐さまが売りにいきました」
ぞっと血の気が引いた。とっさに取った筆で書いた数字、その選択の誤りを指摘されて、両手が小刻みに震えだす。少年の表情はみえない。
「あ、あ、あの、私」
少年のぼやけた輪郭が近づいてくる。硬直した体は動かなくて、その手が偽の札を剥がすのにも抵抗できない。ばっと札がなくなって、少年の瞳にうつった自分と目があった。少年の瞳は濃紫で、逆光のせいかとても深くみえる。そこに揺れる自分の姿は弱弱しく、みっともなかった。少年は偽の札を静かに傍らに置くと、人差し指をそうと唇にあててみせる。
「狐さまに話をすれば、或いは家に入れてくれるかもしれませんよ。そうですね、とりあえず事情―いえ、それより先に名前を教えてくださいませんか」
少年は無表情で、然し優しい声音で囁いた。その柔さに堰き止められていた不安と恐怖が涙に溶けてあふれ出た。嗚咽を堪えて、なんとか自分の名前を絞り出す。少年に聞こえたか心配で、何度も何度も繰り返す。少年は頷いて、無表情のまま私の頭に手を乗せる。
「サクミ、ですね。僕は…」



 窓枠の隙間から、細い光が差し込んできていた。ゆっくり瞼を開けると、全身がひどく強張っている。ああ、この光の印象と、硬い体が似ていたのかしら。そんな風に思いながら身を起こし、目を擦る。懐かしい夢のあとというのは妙な疲労感が伴って、思考の芯も痺れたようになっている。どれくらい眠っていたかわからないが、特別の約束も持たない私には関係のないことだった。
部屋の隅の鏡の前へ、這うように進む。これといった家具もないこの部屋は、こういう自堕落な移動も楽で実に良い。鏡に映った自分はくたびれ、黒い髪が輪郭に張り付いてどことなく不気味にみえる。それを払い、手櫛で見苦しくない程度に整えた。
「聞いたかね。昨日、裁判で人形にされた男がね、売り場に出る前に奪われたらしいよ」
「ほほお、そりゃ酷い。いやまあ、わしの言えたことではないかもしれんがな」
襖越しの隣の部屋から、くぐもった会話が聞こえた。誰か客が来ているらしい、応対する狐の声はどこか愉しげだった。否、あの男はいつだって愉しげなのだ。ケモノじみて髪を振り乱し、突然飛び込んできた女を彼は興じて出迎えた。―ああ、そうだ。昨夜のことをはたと思い出し、つい溜息が漏れた。どうにもならなくなったとき、いつも世話になるこの家。あんな異様な様子の女をヒョイと家にあげてくれるのはこの家くらいのものだろう。日ごろ下衆だなんだと悪名高い男ではあるが、私にとってありがたい存在であることは揺るがない。礼を言わねばと控えめに襖を引くと、居間で向かい合う二人の男の姿が見えた。手前に座る狐が私に気がついて、顔だけ此方を向く。
「おお、起きたか。ずいぶんながく寝とったの」
そういう彼の向かいに座っているのは、見覚えのない男だった。服装からしてある程度裕福な商人といったところか。狐の客なのだろう。彼は私を少しみてから狐に視線を戻し、しみじみといった様子で言う。
「お前は人形を売った金をこういうことに使うのか。なんとなく意外だな」
とたん、狐が口に含んでいた茶を吹き出しそうな勢いでむせこみ、笑い出す。神妙な顔をしていた商人はなにを笑われたのかわからないようで首を傾げる。私はとりあえずはだけた衣服を手早く直した。後にも先にも、狐との間にそんなコトありはしない。
「こりゃあええ、傑作傑作!」
文字通り笑い転げる狐を尻目に、向かいの男に丁寧に頭を下げる。このような勘違いも慣れたもので、今さら狐のように盛大に笑えるものではない。そもそも私のカタチは無駄に艶めかしく見られがちなのだ。だらしのない女の姿というのは、ときに妙に淫らにみえるのだといつだか聞いた覚えがある。
「私は桜見と言いまして、この狐には幼いころに世話になりました親子のような関係です」
商人は、あぁなんだ、とさして興味もなさそうに小さく言った。
「勘違いをしてすまなかった」
いえいえ、と軽く微笑みを返したところで、まだ笑いの引かない狐が息も絶え絶えといった様子ながら座布団を敷いてくれた。私が幼いころからこの家にある、だいぶ薄汚れたものだ。紅梅の柄は擦り切れ色褪せて見れたものではないし、ほつれた箇所も狐が直しているので不器用だった。彼は昔から、どうにもみみっちすぎる。かと言って、使い古された座布団のつぶれ具合も決して嫌いなわけではない。腰かけたって畳に座すのと大して変わらないけれど、なにか安心できるものがあると思う。自然と頬が緩んでしまう。此処には、私のすべてを形成した幼い頃の想い出がたくさんあった。
 しばらくして、ようやっと息を整えた狐は私にも茶を淹れてくれた。何処からだか鮮やかな茶菓子も とりだしてきて、私と商人に差し出す。その菓子が「彼」の好きなものだったのは、意図的な意地悪かはたまた親切か。十中八九意地悪だろう。狐はそういう男だ。瞬きをひとつして、茶菓子に手を付ける。美味いか、美味いかと鬱陶しく尋ねてくる狐と目を合わせないようにと視線をそらせば、商人と視線がかち合った。彼の分の茶も茶菓子も減っていないところをみると、もしやずっと見られていたのか。ヒヤリと心臓を嫌な感覚が撫でる。なにか言わなくてはと口を開きかけたとき、狐がぐいと商人の肩を引き寄せる。
「なんだ、買いたいのはあんたのほうかい? 弾んでくれれば、「心のある」この女も売ったっていいよ」
狐は意地悪く口の端を持ち上げる。商人はそれに対して肩をすくめてみせた。
「お前から人形以外を買う気はないね、ただでさえ踏んだくられるのだから。ただ、その娘が珍しいからみていただけさ。いや、なに、狐が育てたというにはあまりに普通の娘だもんでね」
ああ、なんだ、それだけ。私はそうと目を伏せて、それから商人に微笑んで見せる。
「もの珍しさだけでは狐に金は払えませんか」
その言葉に、狐がほう、と驚いたような息を漏らした。私は微笑みを崩さない。対する商人はおかしそうに笑って、首を振る。
「中々世間の男からすりゃ魅力的な申し出なのやもしれないが、今回は断らせて貰おう。今宵は恋人に贈る人形を受け取りに来たんだ」
恋人。そう答えた商人の表情はとても柔らかく、穏やかだった。ああ、愛おしいなにかをみるときの目だ。愛おしいなにかを語るときの声だ。かつてあの彼が、確かに私に向けてくれたものだ。そんなことを胸の内で唱えていると、今度は狐が口を開く。
「おっと困るね、この女の前で人形のことをそんな風に言ってもらっちゃ。贈る、だなんて言うとこの女は鬼になって怒りますぜ」
狐はカラカラと笑う。しかし商人の顔からは笑みが引く。
「なんだって? 恋人に贈り物をするのはいけないことか」
代わりに浮かんだ怪訝そうな表情に、狐は手をひらひらと振る。
「嗚呼、違う違う。この女は人形が " 好き " なのよ。彼奴等に情をかけちまうのさ」
狐の言葉に、商人は目を思いきり見開いた。その反応は予想のできていたことだ、話の中心にされながらも私はただ黙って 二人のやり取りを見ていた。
「人形って、人形だろう。なんだってそんな」
「いつからだかはわからんが、歳取るうちにドンドン酷くなるんだ、この女の人形好きは」
「はァ。人形売りのお前が育てた娘がそんな風になるなんて、妙なこともあったもんだな」
「いやはや全く、困ったもんだね。これからさらはなおさらこじらせそうだしのう」
狐がチラと、私がついさっきまで居た襖の向こうをみたようだった。私は座布団の上に正座した姿勢のまま静かに身体をずらして、その視線を遮る。
「人形と言えど、彼らは人間なのですから。愛してしまうことはいけないことですか」
私が問いかけた言葉に、商人は曖昧に笑ったが、頷くことは遂になかった。

 「人形」と、呼ばれるのは所謂道具だ。
顔に数の書かれた札を貼られて、こころをなくしたもの。権利をなくしたもの。自由をなくしたもの。それらは他者から道具として扱われ、売り買いされる存在である。罪人・戦争による捕虜などが主に政府の手で人形と成されることになるのだが、中には妙な手段で勝手に道具を作る違法者もいる。
私の育ての親の狐は、その筆頭であると言えた。



「本当にあの商人さんは恋人のことが好きなんでしょうね」
狐の店で無事に買い物を終え、人混みに溶けていく商人の背中を見送りながら私は自然そう呟いていた。人形好みのことが暴かれたときは場を凍らせてしまったが、あの後商人とはいくつか話をした。いつから恋仲になったとか、どこが愛しいのだとか、そんなことを話す彼の表情は全く本当に眩しいものだった。
「幸せというものが身体から溢れて、こちらにまで伝わってくるようでした」
私がそう言えば、隣で腕を組む狐は常時よりいっそう瞳を細めて、私の顔を覗き込む。その顔には嫌な笑みがべったりと張り付いていた。
「ア奴のことを思い出しとるな」
その狐の一言は、一瞬にして私の世界の音を奪う。確かについ先ほどから脳裏をかすめていた彼への感情が、狐の言葉によって途端膨張する。肺から空気が絞り出され、全身をめぐる血液が酷い音をたてる。
「にしてもさっきは驚いたよ。冗談でも余所の男を煽るようなことを言っちゃ、彼奴は泣くんじゃないんかね。…ああいや、もう泣かないんだったっけかね」
狐の言葉がまとわりついて、昨夜の実感が全身に絡みつく。両手で顔を覆って、表情が歪みそうになるのを必死に隠した。狐に見られれば、すべて見透かされてしまいそうな気がした。
「さァ、もう入るかね。お前がいないとあれが寂しが…らないが、なあ、そんな気がするだろう」
狐はそう言って、踵を返す。私もそのあとに続きながら、寂れた狐の家のさらに奥にみえる、小さな納屋を視界に捉えていた。嗚呼、あの中には今でも。今でも、あれだけ、たくさんの。その風景を脳裏に浮かべるだけで、落ち着きかけた鼓動は締め付けられて、再び勢いを強めるのだった。



 最早、扉の隙間から漏れる光が拡張していくその光景は見慣れたものとなっていた。暗い納屋の中がたちまち明かされる。顔に札を張ったたくさんの人形、その中心で膝を抱える私のことを見つけた彼は、溜息をつく。はじめてこうして出会ったときより、ずっと髪が伸びた。
「ああ、またここにいたんですね」
狐に拾われてから、ここに通うのは私の日課になっていた。
「あの…私、なんだかここにいると安心するの。だから」
私は言いかけた言葉を途切れさせる。『身寄りのない』どんくさい』『美しくもない』『なんにもない』。むかし少年たちに浴びせられた嘲り笑いが頭の中でぐるぐると響いていた。
彼と目が合う。その濃紫の瞳は成長するにつれより美しくなっていくように思われる。濡れたように艶めく黒い髪も、本当に呼吸を忘れるほどきれいだ。
「大丈夫ですよ」
 ふと、彼が歩み寄ってくる。そうしてまぼろしの嘲り笑いを遮るように、私の両耳に手を添える。
「あなたを苦しめるような連中はもういません」
 彼は薄く微笑えんだ。優しくて穏やかな声。私の心音は静かに、けれど確実に高まっていく。
「それにもし、またあなたを苦しめるような存在が現れたときは。僕がそんな存在を許しません」
 両耳にあてがわれていた手が、そのまま両ほほへ降りてくる。そして流れるようにゆっくりと、
彼の唇が私の唇をなぞった。
「あなたのことを守ります」
 甘い吐息の隙間から、彼のその言葉は私の鼓
膜に溶けて沁みた。



今日も今日とて、目を覚ます。ああどうも、狐から与えられたこの部屋の光の調子があの納屋の感じに本当に似ているらしい。夢の中のぼんやりとした彼の輪郭を辿ろうとしていると、ふと自分の布団のわきに座す〝壱〟の札と目があった。和紙で作られた札の向こう、いくら心を失おうと、身体がどこか損なわれるわけではない。紫色の瞳が薄らと透けて見えていた。
「ああ、お早う、…壱」
声をかけたところで返事など返ってくるはずもない。壱はただ微動だにせずそこに固まっている。どこかしかから入ってくる朝の空気の風が吹くたびに、彼の髪と札が揺れた。ただそれだけが、その意思の残り屑さえ感じさせない動きだけが、彼の動きだった。
「昔の貴方の夢を見るのよ、ここで眠ると。おかげで毎朝とても苦しいの」
昨日の朝は部屋の隅でおとなしく膝を抱えていた壱が、どうして今朝は此処にいるのだろうか。答えはあまりにも容易い、狐が指示を出したのだろう。此処に来るにあたって、主である私以外でも、狐に限って従うようにと命を出してあったから。目が覚めた瞬間彼を私の視界に入れようと言うのだろう。嫌がらせが趣味、特技がぼったくりでは巷で下衆呼ばわりされるのも仕方のないことだ。
 昨日と同じようにずるずると、立ち上がることすら横着しながら畳の上を這う。壱は当然動かない。胸にこみ上げてくる、この強い圧迫感。鏡越しに壱を見つめながら、紅をそっと小指に載せる。それをそのまま自分の顔に載ることで覆い隠していく。偽ったり隠したりする手段については、女は往々にして通であると思う。
ぱた、ぱった、たたた。
ふと、居間と反対の襖の向こうから、妙な足音が聞こえてきた。よもや狐ではあるまい。狐の客人であっても、みな彼の神経質な側面を知っているはず、屋敷の中を走りまわるなどありえはしない。そうなれば、と襖に手をかけて勢いよくそれを開く。未だ小指の先に残っていた紅が襖にうつって仄かな色を付けた。
 そこを走っていたのは、「七」の札を付けた小さな少女だった。狐に給仕でも頼まれているのだろう、忙しなく縁側を行き来する彼女の奇妙な足音の原因はみてすぐにわかった。何処かで何かにつまづきでもしたのか、右ひざから血をにじませている。よほど打ち付け方が悪かったのだろう。深い傷は彼女にびっこを引かせていた。
「ねえ、ねえ。あなた、いらっしゃい」
呼びかければ、少女の足はぴたと止まる。私が壱に狐の命を許したように、狐も私が邸内の人形を繰れるようにしているのだろう。壱拾六の札の向こうには、くりくりの幼児特有の大きな瞳と小さな唇が透けて見える。債務者の娘か何かが借金の果てに札を貼られたのだろう。幼い顔も、他の例外ではない。虚ろな表情が風が吹いた拍子に垣間見えた。背筋をぞくりと戦慄が走る。
「手当してあげるから、こちらへ」
鏡台の引き出しから包帯を取り出す。少女は躊躇わないままびっこをひいてこちらへ寄ってきた。それを座らせて足に包帯を巻いてやっていると、開け放ったままだった襖から狐が顔をのぞかせた。
「おんや、茶が随分と遅いと思えばお前さんが捕まえていたか」
狐は七の足のことなど少しも気にかけていないようだった。ニヤついて、如何にも楽しそうに私の処置をみている。
「そんなもん動かなくなったらそれまでよ。売れなくなったら捨てればいい」
今日の狐は煙管をふかしている。つい煙越しに狐を軽く睨みつけてしまっていた。
「私は貴方と同じ様には考えられません」
「知っとるよ」
「でしょうね」
「終わったら飯食いに来い」
狐は平行線をあっさりと断ち切って、居間へと戻る。私は七の包帯を結んで、頭をぽんと撫でてやる。七は札越しの表情を動かさないまま、茶を持って縁側へと歩いて行った。私の部屋を突っ切ればすぐなのに、そうしないのも狐の命なのだろう。
食卓に向かえば、そこには質素ながらもすきっ腹を大いに刺激する食事が並んでいた。
「ほれ。はよせんと冷める」
私のことを待つ、なんて気遣いは一切見せずに狐はすでに油揚げを頬張っていた。味噌汁にそんな美味そうな顔をしては、一応主役であろう焼き魚が可哀想だと言うものだ。挙げ句の果てには狐は焼き魚の皮を器用に剥いて私の皿に載せる。仮にも親代わりであるくせして、と呆れていれば、ぺたんこの座布団に座って手を合わせる私を見ながら狐が笑って声をかける。
「こうして一緒に飯を食うのもいつぶりかね」
「昨日夕餉を食べたでしょう」
「ああいやいや、朝飯のことじゃ。昨日はお前が遅くまで寝とったろ」
私が呆れていたことに勘づいたのか、狐はわざとらしく親ぶろうとしているようだった。いや、もしかしたらまた意地悪のつもりなのかもしれない。魚の身を骨から剥がしながら狐の舌がまわりだす。
「お前が悪ガキどもに虐められてうちの商品用納屋に忍び込んでからもう何年じゃ」
「忘れてしまいました」
「じゃあ、奴に惚れて何年じゃ?」
「何時からだったか覚えていません」
青菜を口に運びながら、私は淡々と答える。狐が飽きてくれると良いと思ったがどうもそうはいかないらしく、その顔にはまだ笑みがうかんでいた。
「じゃあ。例の瓦版は見たかね」
「見てません」
狐はそれを聞くと字の載った木版を取り出した。絵も入っているようで、そこには顔に壱の札を貼り付けた男とその手を引く女が描かれている。一昨日の、夜のことだと其れは言う。
「政府の裁判でな、確か殺人罪だったろっか。兎に角男が人形にされたらしい。然し裁判が終わりその男が売り場に送られようってときに女が乱入して来て、掻っ攫っていったと」
狐はただ笑って核心を突くことはしない。ただ彼のなかのものが疑念でなく確信であることは最早明らかである。私とて初めからその点を隠す気はないのだから、焦りなどしないけれど。紅をのせて隠したいものは、きちんと隠せている筈だ。
「壱の料金は、幾らだった」
狐が笑ったまま問いかけた。そもそもこの家に来た晩、私は彼に『匿って欲しい』と言ったのだ。今更そんなに回りくどい言い回しをすることもないのでは、と思う。私は空になった茶碗を置いて、手を合わせる。それから狐に視線を寄越すと、問いを返した。
「私を政府に差し出しますか」
同じように手を合わす狐の皿には食べ残しが随分と多い。呆れた偏食家だと思う。
「さあね。それでうちの商売の全部をお前に明かされては堪らん」
「貴方は相変わらず商売の邪魔をされるのだけは許さない」
言えば、狐はケラケラと声をあげて笑いだす。
「そうじゃ。でも逆に言えばそれだけ、じゃ」
細い目だけが笑っていない。
「くれぐれも商売の邪魔だけはしてくれるな、桜見」
久々に呼ばれた名前は楔の役割なのだろうと思った。私はただ静かに目を伏せて、頷く。湯呑みの縁に紅がついている。あとでまた、引き直したほうが良いかもしれない。



縁側に腰掛けて見上げる空は無数の穴があいたような星空だ。隣に座る壱の札は、いまは夜風に揺れている。指をそっと絡めても、壱の手がそれを返してくることはない。空いた左手で壱の指を静かに動かして、私の右手と繋がせた。
「狐はわかった上で匿ってくれるから有難いわ」
虚空に私の言葉が浮かぶ。
「でも彼も違法者なのだから、当然かもしれない」
それは空気と彼の鼓膜を震わせるだけで、本当にただそれだけだ。
「でも問題は商売の邪魔をするなと釘を打たれてしまったことね」
意味は届くことなく地面に落ちる。
「そういえばね壱、狐が貴方のことを何時から好きだったのかときいてきたわ。私は覚えてないと答えたのだけど、多分貴方と初めて会ったときからずっと、が答えなの」
壱の顔を覗きこめば、紫色が淡く透ける。札にかかる髪は夜に溶け込むどころか映えるような真っ黒だった。
「身寄りがなくて、しかも鈍くさくて失敗ばかりするものだからいつも虐められてた私を。たまたま逃げ込んだ家の小間使いだった貴方に救われて、狐の気まぐれで拾われたあの日から。私ずっと貴方が好きだったんだわ」
納屋の扉を開けて、私を見つけてくれた少年。彼は身寄りのない点においてだけ私と同じだったけれど、他の点では私よりずっとずっと優れていた。狐が時々彼に言付けた無理難題のように思える仕事も、彼は表情一つ変えずにこなしてみせた。そのうちの一つが、「私に仕事を覚えさせ使えるようにすること」だったのではないかと思う。街のどんな家でも役に立たないと放り出された私に、彼だけが真摯に向き合ってくれた。
「貴方が本当に優しくて優しくて、なんでもできて、私どんどん苦しくなったの」
感謝と憧れのなかに日に日に混じり出したいくつかの感情は日々膨れていった。彼の動作一つ、声一つ、それら全てに心奪われた。本当に本当にただただ苦しかったと思う。
「壱、貴方のことをどんどん好きになったのも本当よ。それこそ毎日、「昨日より今日のほうが好き」って思うくらい」
いま壱の瞳は虚ろで、光を持たない。どれだけ見つめても、見つめ返してくることはない。繋いだ指に力が入る。目眩がしそうだ。
「…ねえ、私ね、貴方がこうなっていよいよ我慢が出来なくなったわ」
繋いだ手を解いて、縁側から庭に飛び降りる。素足に地面の感触が心地よい。両手を広げれば視界を丸々腕に抱けそうだった。それはきっと、狐の家で初めて人形を真近に感じて以来ずっとずっと求めていたことだった。心の向こうから声が聞こえる。この庭からは、あの納屋の頭だけがみえる。
「もう我慢できないの。私、あの子たちを出してあげたい」



 むせ返りそうなほどの血のにおいがする。暗い納屋、嗚呼でもそこは、彼と出会った、或いはあの頃よく彼が迎えに来てくれたあそことは違う。さらに言えばあの頃とは立ち位置も反対だ。私は扉のそばに立って、煌々と輝く白い月を背にして立っている。そして、うずくまる彼に手を伸ばしている。それこそまるで、嘗て彼がそうしてくれたかのように。
「ねえ」
呼べば、両手で顔を覆っていた彼が指の隙間からこちらへ視線を向ける。白い骨ばった手と、覗く爛々と揺れる紫色。そして彼の全身をべったりと覆い尽くす赤。彼の姿はあまりにも鮮やかで、本当に本当に。締め付けられるようで苦しくなる。
「桜見」
彼の足もとには波打ちそうなくらいの液体が溢れている。倒れている数人の男、その掻っ切られた首元から並々と、もう空気に触れて黒になった赤、がこぼれてゆく。その中心に膝をつく彼が呼んだ私の名前は、常時の彼からは考え付かないほど震えていた。
「桜見、これ、これ、は」
彼の足もと、スラリと長いものが月の光を反射して光の筋になる。彼自身がその輝きに怯えるように肩を跳ねさせた。
「あなたのことを、昔いじめていた連中ですよね」
 彼の言葉に私は頷いた。
「僕は…僕は、その、見つけて、しまって」
 すみれの花を煮詰めたようなその瞳が、曖昧に死体のうえを彷徨った。私は何も、口にしなかった。
「大丈夫です、大丈夫ですよ」
 不意に彼が立ち上がる。そうして遠い日にそうしてくれたのと、同じように。私の両ほほをその大きな手が包み込む。
「僕があなたを守るんです」



嗚呼遂に来た、再び来た。
今宵の空には薄い雲がかかっていて星が見えない。ただ一点ずいぶんと明るい色をした薄灰色があるものだから、おそらくあの後ろに月が隠れているのだろうと思われた。そういえば今日はあの日からちょうど一か月なのではないかと、ふと思い出す。もしそうだとすれば、これはなかなか運命じみたものを感じてしまう。私はすぐ目の前の戸を見つめた。
その戸、納屋の戸には鍵がかかっていた。然しそこに手をかけただけで、力が湧いてくるような感覚がする。狐にはたくさん世話になったと思う。身寄りのないみすぼらしい子供だった自分を拾ってくれた。成長したいまでも押しかければ助けてくれる。それに彼に出会わせてくれたのだって、狐だ。感謝している。感謝していても、それでも譲れない一点がある。それが私にとってはこの納屋なのだ。初めてここに忍び込んだとき、まだ滑らかな木の色をしていた扉は、今となっては雨に濡れたせいか黒茶けている。至る所の金具もすっかり錆びついて、この納屋が如何に長く使われていたかを示唆していた。手を後ろ手に回して、扉に耳を押し付けてみる。当然のことながら、中からは何も聞こえない。然しそこから小さなざわめきの幻聴まで拾うほど、もう感情が溢れてたまらなかった。
両手に握りしめる木製の柄の手触りに、自分の汗が混じる。そのせいで滑りかけたのを改めて強く握りなおせば、血管が切れてしまうのではないかと不安になるくらい全身を勢いよく血液が巡っているのを感じた。息が詰まる。これ以上自分を焦らせば死んでしまうと思った。
息を吸って、それを、振り上げた、
その瞬間。
「物騒なモン振り回してなにしとる」
 軽い声。一度上げた腕は下せなくて、勢いよく鉈が木製の扉を襲った。バキッと乾いた大きな音がして、扉に傷が刻まれる。私は
静かに背後を振り向いた。そこに在ったのはいつもの如く微笑む痩身。腕を組んでこちらを眺める姿はやはり愉しげだった。
「狐」
私は鉈を扉から引き抜きながらただ小さくその名を呟く。いまつけた程度の傷ではとても扉は壊れていないし、中すら見えない。
「女子が振り回すもんじゃないのうそりゃ。まして自分の思い出の場所をそこまで勢いよく壊して良いもんか」
狐はゆっくりと歩を進めてくる。ふらふらゆらゆらと近づいてくる様は妙に不気味で、然し私の心の平静は崩れなかった。
「此処の子たちを出してあげたいのです」
見つかってしまうことはないはずだった、狐の部屋には壱を置いてきていた。狐をここから出してはいけないよと、そう言いつけて来たはずなのだ。それでも何故か落ち着いているのは、きっと心のどこかでこの男と相対するのを予感していたからかもしれなかった。狐の目がすぅと細められた。
「なんのために?」
「あなたも言っていたでしょう。私は、彼らが好きなのです」
「なぜ?」
「なぜってかわいそうではありませんか。同じ人間なのに、こころを奪われて、それこそ人形、道具として扱われるなんて」
 私の言葉を聞いて、狐はにっこりと笑みを深
めた。
「そんな答えは望んじゃいない」
 そうして。狐の言葉は続く。
「安心するから、だろう」
 男の軽やかな言葉はどうして、こんなにも重く響くのか。背中に冷水を流されたような恐怖をつとめて隠そうと、私は小さく息を吸った。
「あの晩殺人の罪を犯したのはお前じゃろ」
しかしその息は吐きだされる前に、止まってしまった。辺りの空気が静寂に沈んで、それと同時に一斉に波紋が立つような、そんな瞬間だった。
「…は?」
 私は唇の隙間から疑問符を落とす。笑顔を作ったはずの唇は引きつっているらしい。頬の肉がひくひくとしていた。
「なぜ、そんな」
「なぜ。それはさっきわしも聞いたことじゃなあ」
 狐がまた一歩私に近づいた。咄嗟に鉈を構える。濡れたような銀色に光の筋が走る。
「来ないで」
狐は足を止めない。止めてくれない。唇を笑みにゆがめたまま、私のことを見つめて。
「来ないでったら!」
庭の土は濡れて音を立てない。狐の足音は地面に吸われ、彼は静寂を纏って私に迫る。

「だって、だって怖かった!」

その静寂が堪らなく恐ろしかった。破ってしまわなければと、私の喉は金切り声をあげる。
「ほしいの、怖いから。ほしいの! 出来損ないでなんにも持たない私より、もっとなんにもない人形がほしいの!」
 狐が足を止めた。中身をすべて吐き出した肺
はひゅうひゅうと苦しかった。
「お前、殺人の罪を着せて奴を、人形に、壱におとしたな?」
 狐は足を止めて、それでもまだ迫ってくる。まだ空っぽの私の肺を絞り上げるような言葉でもって、迫ってくる。私はそれに抗えない。逃れようとすればするほどに、唇からは言葉が落ちる。
「大好きだったの、本当に本当にはじめて会った日から好きだったの」
 納屋の扉を開けてくれた男の子。私の顔から札を剥がして、名前を聞いてくれた。
「でもあんなに美しくて優しくて器用で、なんでも出来る彼が私怖かった。いつか私に愛想尽かしてしまうとずっとずうっと不安だった!」
 狐に取り入ってくれた。仕事を根気よく教えてくれた。それでもできない私を助けてくれた。月夜には唇を交わしてくれた。いつだって完璧に美しく、魅入られて沈むような瞳が私を見つめていた。
「だって、でも。そしたら彼が守るって言ったの。私を苦しめるものは許さないって言ってくれた」
 向かい合うたびに鼓動は痛いほどに高まった。愛しいその姿をみるたび恐ろしかった。胸を食い破られるような感覚がした。
「人形の壱は私のことをもう二度と苦しめないわ」
 壱の札。彼の美しい顔を覆い、彼の溢れる知性を奪い、彼の優しい心を奪う札。風にその札が揺れる光景を思い出す。裁判に飛び込んで、すっかり心の抜け落ちたその姿を見つけた瞬間、その手を取った瞬間、すべてを思い出す。狐は相変わらず私の目の前に立っていた。けれどもう、恐ろしくはない。ただただ私を満たしてゆくのは。
「狐、もう我慢できないの、一番ほしかったものが手に入ると、ねえ全部ほしいわ」
手の中の鉈を握りなおす。自分の手のひらが熱を持って吸い付くようだった。
「貴方が持ってる人形、お願い、全部頂戴な」
 思い出の場所を壊すより、鍵を手に入れたほうが早い。狐が懐からいつも古ぼけて黒ずんだ鍵を取り出すのは知っていた。鉈を人に、その肉に、振り下ろす感覚だって知っている。
 濡れた土を踏む。蹴る。
「悪い子じゃ」
 そして狐の声が響く。
 膝を、つく。
「お前の妄執にも悪癖にも、なんも言うつもりは無かったんじゃ。でもな、商売の邪魔だけはしてくれるなよと」
 安い綿の着物はすぐに水を吸い、膝が濡れた。両手で握りしめていた鉈を、歩み寄ってきた狐が取り上げる。硬直して動かない体が小刻みに震えだす。言葉を発しようとするのに、頭が真っ白で文字列という概念ごとうまく思い出せない。舌はもつれて呻くこともままならない。
「お前はわしの家で育って、そうして戻ってきたんだというのに」
 狐が無造作に鉈を放った。代わりに懐から取り出されたのは、一本の筆。毛先が煤けたように黒ずんでいた。乱れた毛先を指で整えながら、狐は三日月形にその瞳をゆがめた。
「なにもされていないと思ったか」
 狐が私の額に、トンと筆を当てる。とたん真っ白だった頭の中に数多の言葉が氾濫する。悲鳴が喉から絞り出た。
「待って。助けて、私、こんなことは」
「札の」
 まだ体は動かない。その私のすぐ目の前を。薄い、白い紙が舞った。夜の闇を透かす、札。
「札の数は幾つがいい?」
 狐の指が私の額に、今度はその札を押し付けた。薄白くなった視界で、狐が筆を掲げているのがみえた。動かない体のつま先から、じわじわと沁みるように絶望が這い登ってくる。
 幼い日、仕事を失敗すると狐は私を叱った。彼がかばってくれた日もあったけれど、狐は許してはくれなかった。怒鳴ることも殴ることも決してしなかったけれど、ただ冷えた目で、口元にばかり笑みを浮かべて、私の失敗を表情だけで責め立てて。
 そんな、古い記憶を思い出した。
「狐」
「番号を決めたか?」
「いいえ、番号はもうなんでもいいの。ただ、ただ…どうして私のことに気が付いたの? 私隠しているつもりだった」
狐は筆の先端を己の手のひらに押し付けた。
すると筆には墨がたっぷりと染み込んでいる。狐は筆をゆっくりと私の顔へ、私の顔に張り付けた札へ、近づける。
「そんなのお前、お前、うちに来たあの晩からずぅっと。ずぅっとさ」
 筆が札に触れる。私は目を伏せた。
「『幸せで幸せで仕方ない』って表情で笑っていたからだよ」

* 
 夜空を埋めていた雲はいつの間にか晴れている。黒に針穴を空けたような星空に、月が浮かんでいた。
 まだ墨の滴る筆は狐の手のひらに押し付けられるとたちまち乾き、狐はそれを懐へとしまった。
「さて」
 目の前に膝をついた女―桜見だった人形は、その額に「弐」の番号を張り付けている。長い黒髪は艶やかに夜闇に揺れていた。
「お前だって美しい娘だったのに」
狐は唇の端を吊り上げる。彼の背後から、ずるりともうひとつ人形が現れる。
「壱.待たせたのう、さあ、行こうか」
 その声に、人形は静かに並ぶ。狐は黒ずんだ鍵で、納屋の扉をそぅと開く。人形ふたりの入る道を、柔らかな月光が照らした。
比較的脚本と似たような構成になってると思います
どんでん返し系

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