青春リリィは暴走中
数名ほど居た客はパラパラと帰っており、閑散とした店内で初老のバーテンがカウンターの中で退屈そうにグラスを拭いている。テーブル席が二つ、後は六席のカウンターがあるだけの小さな構え。薄暗い店内には小洒落たジャズが静かに流れている。
一人、グラスを傾ける客がいる。
「そろそろなん閉店だけど」
バーテンの穏やかな声に、カウンターの端の席に座っていたツバサは「んー」と返事した。
長い金髪を後ろにまとめ、キリリと伸びた細い眉にスッと通る鼻筋。間接照明に照らされたツバサは、中性的な、どこか掴みどころのない雰囲気を漂わせた顔立ちだ。
ツバサもまた自分の店を持っている。しかし自分の所の営業が終わった後にはいつも、かつてアルバイトをしていたこの店に来ては管を巻いているのだ。
「最近早いんじゃないかい?」
「君のようなのと違って、年を取ると生活リズムが健康になるんでね」
「それまたご立派なことで。じゃあ最後の一杯にはゆっくり付き合ってくれよ、マスター」
バーテンは苦笑した。ツバサはウィスキーのロックを呷った。
コト、とグラスを置く。外からは車の音が微かに聞こえてくる。扉の向こうはすっかり夜の帳も落ち切り、じきに日付が変わる頃。壁掛けの時計はもうすぐ十二時を指すところだ。
「閉店札だけ掛けとくか」
CLOSE、と書かれた掛札を手に、バーテンはカウンターの外へ出た。ツバサはグラスの氷をカラカラ弄りながら、何気なくその様子を目で追った。
バーテンが扉に手をかけようとした時、扉に付けられたドアベルが音を立てた。
「あ……っ!」
扉の向こうにいたのは、口をポカンと開けた一人の少女だった。バーテンと対面した少女は、蛇に睨まれたカエルの如くビクリと身を強張らせた。
つぶらな瞳が、忙しない様子でグルグル回っている。
「ど、どうも」絞り出すようなか細い声。少女の目線が下に行き、バーテンの持つCLOSE札と合わさる。すると彼女はおずおずと尋ねた。
「あ、あの、もう閉店ですか?」
「ええ、すみませんが本日は――」と、バーテンが申し訳なさげに言った時だった。
「まだ営業中だよ。ラストオーダーの一杯くらいしか出せないけど、構わないかい?」
カウンターチェアから身を乗り出し、ツバサが威勢良くもそう言い放った。少女はコクンと首を縦に振った。
バーテンは面倒臭そうな目線をツバサに送った。ツバサはと言うと、そしらぬ顔で席から立ち上がり、少女の傍まで行った。
「マスター、閉店札は掛けとけよ。さぁさお客さん、こっち来てお座んなさい」
少女の肩に手を触れる。やや強引ともいえる手さばきで、ツバサは自分の席の隣に彼女を座らせた。小さな身体が小刻みに震えている様子が、ツバサの手のひらに伝わった。
バーテンは呟いた。「知ーらね」
カランと鈴が鳴り、バーの扉が閉められる。扉に掛けられたCLOSE札が控えめに揺れる。
慣れない様子で高い椅子に腰を下ろす少女を、ツバサは改めてまじまじ見つめた。
清楚な黒髪は肩口で切り揃えられており、小さく白い丸顔を縁取っている。強張った口元は真一文字に結ばれ、ややふっくらした頬にはそばかすがポツリポツリと浮かんでいる。
その幼い顔立ちはどう見ても高校生、あるいは中学生の制服を着ても全く違和感無さそうだ。
「そ、それじゃああの、うぃすきーのろっく……」
少女が注文しかけたのを、ツバサが遮る。
「悪いね、ウィスキーはさっき全部飲んじゃったんだ」
「そうなんですか? それじゃあ、うぉっか……」
「ウォッカもこのお腹の中さ」
「だったら、えっと、えっと……」
知っている酒の種類は多くないらしい。少女が困っているのを、ツバサはニヤニヤしながら見つめた。禁酒法時代のアメリカならともかく、ウィスキーやウォッカを切らすバーが日本のどこにあるというのだ。
汚い大人の出まかせを信じてしまう辺り、今時珍しい純朴な少女だった。横目で見ると、バーテンもクスクスと笑いをこらえている様子だ。
「マスター、このカワイ子ちゃんにプリンセスリリィを」
ツバサはバーテンに目で合図を送った。
「かしこまりました」
バーテンはサッと後ろを向き、棚に並べられた多くの酒瓶の中からユリのプリントが施された物を一つ手に取る。それから冷蔵庫のライムジュースを取り出し、手早くシェイク。
その間にツバサは、少女に尋ねた。
「君、名前は?」
「あ、百合子っていいます」
「ツバサだ。よろしく」
ツバサはニコリと微笑み、百合子と握手を交わした。
「お待たせしました」プリンセスリリィが出来上がった。バーテンは百合子の前に差し出したグラスに、薄い緑の液体を注ぎ込んだ。
「飲んでみな」
ツバサは手でグラスを傾ける動作をした。
「い、いた、いたたただきます……」
しどろもどろの百合子。ツバサは必死に笑いをこらえながら、バーテンに小声で言った(水を用意しとけ)。
百合子は目の前に出された液体をジッと見つめた。まるで劇薬でも飲むかのようにして、そっと口をつけたグラスの縁を傾ける。
ギュッと目が閉じられ、やがて彼女の喉がコクンと鳴る。その一連は、苦い粉薬を飲まされる幼子のようだった。
「ほら、水だよお嬢ちゃん」
ツバサは百合子の前に、水の入ったグラスをコトッと置いた。
「あ、ありがとうございます!」
オアシスを見つけた砂漠の遭難者がそうするように、百合子はゴクゴクと水を取り込んだ。
「どうだい、大人の味は苦いだろう」
ツバサはニコリと微笑んだ。百合子は驚きと恥ずかしさと申し訳なさがない交ぜにされた表情で、上目遣いにツバサのことを見上げた。
「バレちゃい……ますよね、そりゃぁ」
説教でもされると思ったのだろう、百合子はシュンとしてこうべを垂れた。
無言となった百合子は、並々残っているカクテルと、半分ほどのカサになった水のグラスを見比べて、小さくため息をついた。
「どうしてココに来ようと思ったのか聞かせてくれるかい、お嬢ちゃん。その一杯はご馳走してやるよ」
ツバサと少女、二人の間に沈黙が漂う。バーテンはカウンターの奥で、見守るように佇んでいる。
本来だったら未成年が出歩いて良い時間ではなく、それがバーの店内となれば尚更問題だ。しかし扉には現在、閉店を示す札が掛けられているわけで。
そして何より、ツバサは楽しいことが好きだった。
やがてバーの沈黙を、百合子の細い声がサキサキと切り破った。
「私、大人の女になろうと思ったんです」
「ブっふうぅ!!」
今まで散々こらえてきた笑いをついに我慢出来なくなり、ツバサは思い切り噴き出した。「本気なんですよっ!」と、真っ赤な顔をふくれさせた百合子がそれを咎める。咄嗟に背を向けたバーテンの肩も、ピクピクと震えている。
「悪いね、ハハ。いやー良いと思うよ、うんうん」
バカにされているのを感じ取ってか、未だ百合子は頬をふくらませている。
彼女は水をチビリと飲み、こう言った。
「彼に、フラれちゃったんです」
「上手くいってなかったのかい」
「上手くいってたんですけど、あの、この前初めて彼の家にお呼ばれされたんです」
その時、彼とやらは「今日は親も出かけているから」と付け加えたという。
「それで、一緒にDVDを見て、段々良い雰囲気になってきて、キスして、そういう段階になってきて……」
高校生の情事を聞いてツバサは、自分が興奮していることに気付く。
「私、処女だったんです。でもこの人ならいいやと思って、処女だから優しくしてねって、言ったんです」
鼻血が出そうだったが、幸いにもツバサのポケットには、さっき街頭で貰った消費者金融のティッシュが入っていた。何かあっても止血に関しては心配ないだろう。
「でも、彼……非道いこと言ったんですよ」
――うわ、今時高二で処女とかマジで? ないわー……。
彼女に対し、そう言ったらしい。
「結局その日は何もなく終わって、それから段々連絡も取らないようになって、自然消滅ってワケです」
百合子の話に黙って耳を傾けていたツバサは、事の顛末を聞いて「ふぅむ」と唸った。初めて会った相手にこんなことを語ってしまうのは、バーの雰囲気がなせる技だろうか。
処女厨という言葉が声高に叫ばれる一方で、彼のような人間も一定割合居るには居る。
彼に処女を捧げようとした時、この少女はどんな気持ちだっただろうかとツバサは考えた。同時に、彼の気持ちも。
「なあ、お嬢ちゃん」
「何ですか」
「女の子の初めてってのは、そう安売りするもんじゃない。きっと彼も、それを分かってたんじゃないかな」
「彼が? ……そんなわけ、ないです」
「お嬢ちゃんの初めては自分には荷が重い、おいそれと頂戴するほど自分は大した男じゃないって、そういう風に思っていたのかもしれないよ」
だとしたら、それはそれで立派な男と言えなくもない。少なくとも、処女の女の子だけを漁ってヤリ捨てするような腐れチ○ポと比べたら、ずっと見上げるところがある。
「でも、友達とかは皆言うんです。高校生で処女はダサイって。それで、私……」
手っ取り早く処女を捨てるため、夜の街に繰り出した。
なるほど高校生らしい超が付くほどの短絡的思考に、ツバサは思わず苦笑い。
「でも、なかなか声って掛けてもらえないものなんですね。かといって逆ナンするほどの度胸もないですし……」
「それで、ヤケ酒でも呷ってやろうと?」
「バーの店内で仲良くなった男性にお持ち帰りされるとか、小説でよく読みますし」
君は普段どんな小説を読んでいるんだ、というツッコミをツバサは喉の奥に閉じ込めた。
「要するにお嬢ちゃん、ヤリたいんだね」
バッサリ放たれたツバサの言葉に、百合子は押し黙る。小刻みに震える彼女の肩が、その本心を物語っている。
――でも、怖い。
それを悟りながらも、ツバサはバーテンにこう言い放った。
「マスター、お会計。今日はこの子と一緒に帰ることにするよ」
ツバサは財布からお金を取り出し、ポンとカウンターに置いた。そしてお釣りを受け取る間もなく、百合子の手をグイッと掴む。
「えっちょ、あっ!?」
慌てふためく百合子に対し、バーテンがカウンターの向こうから「またのお越しを」と言った。
扉のドアベルが、まるで悪魔の冷笑が如く冷たい音で鳴った。
風のある夜だった。冷たい空気に肌を包まれ、百合子は身震いした。もっとも、その震えの原因が寒さだけでないのは明らかだが。
百合子の手は力無かった。ツバサはそんな彼女の手を引いて歩く。歩を進めるにつれ、人通りも街灯も徐々に少なくなっていく。
百合子の顔色は現在、不安九割・好奇心一割といったところか。濃くなっていく暗闇と反比例して、一割の好奇心もどんどん身を縮めていく。
やがて、狭い路地に差し掛かる。立ち並ぶ雑居ビルの間、そこに人の気配は一切無かった。
「さてお嬢ちゃん、覚悟は出来てるんだよね」
百合子の不安が、十割を振り切る。
しかしツバサは構う様子など見せず、強引に百合子と唇を重ねた。驚きに目を見開く少女。数瞬後に、百合子の方から身体が引かれる。
「どうした? キスは初めてじゃないだろうに」
百合子は声も出せず、ただ見開いた目でツバサのことを見つめていた。再びツバサは百合子の唇を奪う。今度は十数秒、その繋がりを離すことなく、途中からは舌まで侵入させた。
「ひゃんっ!」
逃げる百合子を、ツバサは逃がさない。百合子の身体を抱き寄せて、ツバサは二人の身体が密着した状態で三度目のキスをする。
口腔の中で逃げる百合子の舌をツバサのソレが追い、蹂躙する。歯茎を舐り、頬の裏を撫で、そうして息継ぎさえも許さんとして少女の唾液と熱を堪能する。
「んっ……んぅ……」
ぷぁ、と息の続かなくなった百合子が身体を引く。肩を激しく上下させ、必死に空気を吸い込む。その様子を見て、バーテンはクスリと笑ってから言った。
「これで終りじゃあないよ、お嬢ちゃん。こっちも、もっと楽しみたいんでね」
百合子の白い手を強く握り、自分の股間へと誘導する。百合子は抵抗するが、ツバサの力は強かった。
恐怖を物語るように、百合子の顔が真っ青に染まる。しかしツバサは、冷酷な笑みを浮かべるばかりだった。
そして。
「ごめんなさい! 許して下さい!」
「もう遅い!」
「いやーっやめて! 助けておとーさんおかーさん私犯され――あれっ?」
ツバサの手が離される。百合子は頭上にハテナマークを浮かべ、ツバサの股間をズボンの上からポフポフと叩く。
「あれっあれっ……」
あるはずの感触が。
「……ない?」
ポフポフポフポフ。
「んっ、こら……やめないか、触りすぎだ」
「あ、すいません。あの、えっと、ツバサさんって……」
「うん、女。正真正銘の」
カァッと、百合子は頬を赤くした。
「どうだった?」
自販機でオレンジジュースを買ってやり、百合子に飲ませた。彼女は一口だけ飲んで、ツバサのことを見つめた。
「どうだった、って」
「怖かっただろう、ああやって襲われかけて」
百合子は缶のパッケージを見ながら、困ったような怒ったような微妙な表情を浮かべた。
「酷いです、騙すなんて」
「これが本当の男だったら、あんなものでは済まなかったんだよ」
痛い目を見せてやろう、という気持ちは確かにあった。それで反省させてやろうとも。
ただ、楽しいこと好きのツバサにとって一番の動機は“面白そうだったから”これに尽きる。
「あ。キスはしたけれども、私はノーマルだから安心して」
「へ、変な気遣いは結構です!」
「正直、ちょっとチュッってして終わるつもりだったんだ。けど、お譲ちゃんが可愛いものだからつい悪ノリしちゃってね。あそこまで激しくするつもりは無かったんだよ」
……本当だよ、とツバサが念を押すと、百合子の頬は先ほどより赤味を増した。
どこまでも可愛らしい少女。こういう無垢で純情な子こそ、ツバサはついイジめたくなるのだ。
だからこそ、彼女が夜の街を往くことには感心しないわけで。
「もう帰りなさい。きっとお家の人も心配しているよ」
「はい。……あ、でも私、お酒臭くなってないですか? さっきちょっと飲んじゃったし」
親に怒られることよりも、法律を犯してしまったことへの罪悪感が大きそうだ。
「まったく、やっぱり君は可愛いなあ」
ツバサはカラリとした声で笑った。
「さっきのアレ、バリバリのノンアルコールなんだけど」
「そんなはずはっ!? 私確かにポワ~って感じがして、頭がグルグルして……」
「それはきっと、お姉さんに酔ったのさ」
「……バカ」
少女は愚かだったのではなく、少し世間知らずで、青春のエネルギーがおかしな方向へと暴走したに過ぎない。
それを正しき方向へと導くのが、大人の役目。悪い大人から守ってやるということも。
一人で歩く夜道は危ないということで、ツバサはその後百合子の家の近くまで送り届けた。二十歳になったら今度は本物のお酒を一緒に飲もう、と最後に言い残して。
次の日もツバサはバーに居た。例の如く、閉店間際のバーにはバーテンとツバサの二人しかいない。
「でさぁ、百合子ちゃんが本当に可愛いの。ああいう妹がいたら毎日が楽しいんだろうなぁ」
「妹っていうのは図々しいな。君の年齢を考えると姉妹というより母娘「おっと、黙れよマスター」ツバサは額に青筋を立てた。
その時、扉のドアベルが鳴った。ツバサとバーテンが目をやると、そこには二人にとって予想外の人物が立っていた。
「やあお嬢ちゃん、ずいぶん早い再開だね。もう二十歳になったのかい?」
少女はスタスタとツバサの傍まで歩み寄り、隣の席に腰掛けた。彼女はモジモジとしながら、潤んだ瞳を上目遣いさせ、ツバサのことを見上げた。
「私、あの後いつもツバサさんのこと考えてて……。ご飯の時もお風呂の時も寝る時も、あなたの顔が頭に浮かぶんです」
ツバサは顔を引きつらせた。
「……お引き取り願おう、ここは未成年お断りだ」
「お願いですお姉さま、もう一度私にキスして下さい!!」
「お嬢ちゃん、君は若いエネルギーが暴走している。きっと君には良い男性が現れ「お姉さまが好きです! 私とお付き合いしてください!」
「お姉さまって呼ぶなーーー!!!」
大人は時に、青少年を妙な方向へ暴走させてしまうケースもあるわけで。
それにしっかり責任を取ることも、大人の大切な役目なのである。
「知ーらね」と、カウンターの内側で薄汚い大人が呟いた。
お読みいただきありがとうございました。
寒い日が続くので最近めっきり筆を執っていません。