「要らない子」と言われた十歳の私を、公爵夫人になった私が迎えに行きます
「要らない子だって、お母様が」
夜中の十二時。寝室の隅で、古い姿見がそう言った。
正確には、鏡の中の女の子が言ったのだ。
埃っぽい物置部屋。積み上げられた木箱。その隙間で膝を抱えている、栗色の髪の痩せた子。
着ているのは、袖の短くなった灰色のワンピース。
知っている。
あれは、十歳の私だ。
◇
私、ミレイユ・ヴェルデンは、公爵夫人になって三年になる。
実家のロシュ伯爵家から持ってきた嫁入り道具は、この姿見ひとつだけだった。
ドレスも宝石も、母は「セシルの分が足りなくなるから」と一枚も持たせてくれなかった。
物置部屋の隅にあったこの鏡だけは、誰も欲しがらなかったので、私がもらった。
公爵家の人たちは、驚くほど優しかった。
侍女は私の好きなお茶を三日で覚えた。料理長は私が残した皿を見て、翌日から味付けを変えた。
夫のクラウスは、どんなに遅く帰っても、寝室の扉を開けるたびに同じことを言う。
「ただいま。……おかえり、ミレイユ」
帰ってきたのは自分なのに、まるで帰ってきたのは私のほうだというように。
おかえり、と言われるたびに、私は返事に詰まる。
三年経っても、まだ慣れない。
ここが自分の帰る場所だと、どこかで信じきれていないのだ。いつか「やっぱり要らない」と言われる気がして。
子どもの頃、私の居場所はあの物置部屋だった。
妹のセシルに来客がある日は、決まってそこに入れられた。
「あなたは手がかからないから、少し待っていてね」
母はいつもそう言った。
待っていれば、いつか順番が来ると思っていた。
来なかった。
十歳の誕生日も、そうだった。
その日はセシルの誕生日の三日後で、屋敷にはまだ妹のためのお客様が泊まっていた。
私の誕生日を覚えている人は、家の中に一人もいなかった。
――いや。一人だけいた。
その夜、物置部屋に、青いドレスの貴婦人が来たのだ。
背の高い男の人と一緒に。
二人は私を連れ出して、星の見える丘でケーキを食べさせてくれた。
帰り際、貴婦人は私の髪に青いリボンを結んで、こう言った。
「あなたは要る子よ」
朝になると、二人はいなかった。
夢だと思った。夢にしては、リボンだけが本物だった。
そのリボンは今も、鏡台の引き出しに入っている。
色褪せて、端がほつれて、それでも捨てられない。
苦しい夜は、それを握って眠った。十六年間、ずっと。
◇
「……誰か、いるの?」
鏡の中で、十歳の私が顔を上げた。
私は息を止めた。
声が、届いている。
「いるわ」
口から勝手に言葉が出た。
女の子はびくりと肩を揺らし、それから、おそるおそる鏡に近づいてくる。
向こう側にも、この子にとっての鏡があるのだろう。物置の隅の、あの姿見が。
「お化け?」
「いいえ。……そうね、通りすがりの、おばさん」
「おばさんにしては、きれい」
思わず笑ってしまった。
笑ったのに、目の奥が熱かった。
「今日、何の日か知ってる?」
女の子が、小さな声で言った。
「わたしの、誕生日なの。でも、セシルのお客様がまだいるから。お母様が、物置にいなさいって」
「……そう」
「わたしね、要らない子なんだって」
指先が冷たくなった。
覚えている。その言葉を聞いた日のことを、私は全部覚えている。
夕食の席に呼ばれなくて、廊下で待っていた。客間の扉の向こうで、母が笑っていた。
『上の子? ああ、あれは要らない子なの。手がかからないのだけが取り柄で』
あの夜まで、私は自分を「手のかからない、いい子」だと思っていた。
あの夜から、ただの「要らない子」になった。
「――ミレイユ?」
背中から声がした。
振り向くと、夫のクラウスが寝台から身を起こしていた。月明かりに、銀色の髪が光っている。
「眠れないのか」
「クラウス、あの、これは……」
説明しようとして、言葉が出てこなかった。
鏡の中で膝を抱える子どもと、鏡の前で泣きそうになっている妻。
正気を疑われても仕方がない。
クラウスは何も訊かずに、私の隣に来た。
鏡をのぞき込む。女の子がぎょっとして、木箱の陰に半分隠れた。
夫はしばらく黙っていた。
それから、ひどく静かな声で言った。
「あれは、君か」
「……ええ。十歳の私」
「誕生日の夜の?」
私は目を見開いた。
リボンの話をしたのは、結婚した年に一度きりだ。この人は、覚えていたのだ。
クラウスは鏡に手を伸ばした。
指先が鏡面に触れた瞬間、そこが水面のように波打った。
冷たくない。むしろ、ほんのりと温かい。
「通れるな」
「待って。何が起きるか分からないのよ」
「分かっていることもある」
夫は振り向いて、当たり前のことのように言った。
「その子も迎えに行こう」
◇
それからの三十分を、私は一生忘れないと思う。
クラウスは執事を起こし、料理長を起こし、厨房に灯りをつけさせた。
寝間着に外套を羽織っただけの公爵に叩き起こされて、料理長は文句ひとつ言わなかった。
「十歳の女の子が喜ぶケーキを。名前を入れてくれ。ミレイユ、と」
「……奥様の、でございますか」
「そうだ。十歳の、奥様のだ」
料理長は一瞬だけ私を見て、何も訊かずに頷いた。
それから、大きな手で卵を割りながら、ぼそりと言った。
「苺は、十粒でよろしいですか。奥様は苺がお好きですから」
「……私、言ったことがあったかしら」
「いいえ。ですが、いつも最後に残して、大事そうに召し上がりますので」
返事ができなかった。
見ていてくれた人がいたのだ。この家には、最初から。
騒ぎを聞きつけた侍女頭が、細い蝋燭の箱を抱えて駆けてきた。
「旦那様、蝋燭は何本ご入用で」
「十本だ」
「かしこまりました。……あの、奥様。お誕生日の分は、明日の晩餐にご用意しておりますのに」
私は思わず侍女頭の顔を見た。
明日が私の誕生日だと、この人たちは知っていたのだ。私が一度も口にしていないのに。
「今夜のは、十歳の分なの」
侍女頭は目を丸くして、それから、なぜか嬉しそうに笑った。
「では、とびきり明るい蝋燭を選んでまいります」
その間に、クラウスは書き物机で手紙を一通したため、封蝋を押した。
何を書いたのか訊いても、「後で話す」としか言わなかった。
「着替えておいで」
夫は私の肩に手を置いた。
「迎えに行くなら、ちゃんとした格好で」
衣装部屋の扉を開けて、私は迷わず一着を選んだ。
深い青のドレス。
リボンと同じ色の。
寝室に戻ると、夫も銀の鷹の紋章が入った正装に着替えていた。
鏡台の引き出しから、色褪せたリボンを取り出して、髪に結ぶ。
鏡に映った自分を見て、私はようやく気がついた。
あの夜の貴婦人は、こんな顔をしていた。
◇
鏡を抜けると、埃と黴の匂いがした。
懐かしい匂いだった。懐かしいと思ってしまう自分が、少しだけ悲しかった。
女の子は、木箱の陰で固まっていた。
私はドレスの裾を払って、その子の前にしゃがみ込む。
近くで見ると、思っていたよりずっと小さい。頬がこけて、手首が細い。
こんなに小さかったのか。こんなに小さい子に、あの人たちは。
「こんばんは」
「……ほんとに出てきた」
「ええ。お誕生日のお祝いに来たの」
女の子は、瞬きを三回した。
意味が分からない、という顔だった。祝われるという言葉と、自分とが、うまく繋がらないのだ。
その顔を、私は知っている。毎朝、鏡で見ていたから。
「お名前は?」
「ミレイユ。……ミレイユ・ロシュ」
「素敵な名前ね」
「お母様は、長くて呼びにくいって言う」
「じゃあ、私がたくさん呼ぶわ。ミレイユ」
女の子の耳が、じわりと赤くなった。
「……おばさんの名前は?」
私は一瞬、迷った。
本当のことは言えない。言ったら、この子はきっと混乱する。
「秘密。でも、いつか分かるわ」
「いつ?」
「あなたが大人になったら」
女の子は不満そうに唇を尖らせた。
その顔があまりに子どもらしくて、私は少し安心した。こんな顔も、ちゃんとできたのだ。
クラウスが外套を脱いで、その子の肩にかけた。
大人の外套は、十歳の子どもには膝まで届く。女の子は裾を両手で握りしめて、夫を見上げた。
「おじさんは、だれ?」
「この人の夫だ」
「おっと……?」
「それから、君に用がある者だ」
クラウスはそれ以上言わず、女の子に手を差し出した。
女の子は長いこと、その大きな手を見ていた。
それから、指を一本だけ乗せた。
◇
物置の扉を開けると、廊下の先から笑い声が聞こえた。
客間ではまだ、セシルのためのお茶会が続いているのだ。夜中だというのに。
女の子の足が止まった。
「だめ。お母様に叱られる」
「叱られないわ」
「物置から出たら、叱られるの。いつもそう」
私は、その子の手を握り直した。
叱られるのは、いつも私だった。セシルが花瓶を割っても、セシルが泣いても。
――お姉様なんだから。手がかからないんだから。
「大丈夫。今夜は、ミレイユの誕生日だもの」
廊下に出たところで、客間の扉が開いた。
母だった。十六年前の、まだ若い母。
母は私たちを見て、眉をひそめた。
「どなた? 勝手に屋敷の中を――」
言いかけて、言葉が止まった。
母の視線が、クラウスの胸元で止まっていた。
銀の鷹の紋章。
この国で、それを身につけていい家はひとつしかない。
「ヴェ、ヴェルデン公爵家の……!」
母の声に、客間がしんと静まり返った。
扉の隙間から、お客様たちが次々に顔をのぞかせる。その中に、フリルだらけのドレスを着た七歳のセシルもいた。
セシルは私たちを見て、それから女の子を見て、頬をぷうっと膨らませた。
「お母様、どうしてお姉様だけお客様といるの? ずるい!」
いつもなら、その一言で全部が決まった。
母はセシルを抱き上げ、私は物置に戻される。
十歳の私も、それを知っている。外套の中で、小さな肩がびくりと縮んだ。
けれど、今夜の母はセシルを見なかった。見る余裕がなかった。
「公爵閣下が、どうしてロシュ家の長女を……?」
「あの子、いつもいない子じゃなかった?」
お客様たちのひそひそ声が、廊下に広がっていく。
ずるいと叫んだセシルの声は、誰にも拾われずに消えた。
母の顔が、白から赤へ、赤から青へと変わった。
慌ててスカートをつまみ、深々と頭を下げる。
「た、大変失礼いたしました。このような夜分に、ようこそお越しくださいました。すぐに主人を――いえ、娘のセシルを呼んでまいります。とても愛らしい子で、きっとお気に召して」
「用があるのは、この子だ」
クラウスの声は低かった。
怒鳴ってもいないのに、廊下の空気が凍った。
母は顔を上げ、夫の外套にくるまった女の子を見た。
その目に浮かんだのは、驚きでも心配でもなかった。
なぜ、それを。そういう目だった。
「その子は……上の娘ですが。何もできない子で、お目にかけるような者では」
「今日は、この子の誕生日です」
私は静かに言った。
「ご存じでしたか」
母は答えなかった。
答えられないのだ。知らなかったのだから。
腕の中で、女の子が私のドレスをきゅっと握った。
見下ろすと、その子は母ではなく、私の顔を見上げていた。
どうして知っているの、と言いたげに。
クラウスが、一歩前に出た。
「ロシュ伯爵夫人。今夜、この子をお借りする。夜明けまでには返す」
「は、はい、もちろん、ですが……」
「それから、これを伯爵に。必ず渡してもらいたい」
夫は懐から、あの封筒を取り出した。
母は震える手で受け取り、封蝋の鷹を見て、喉を鳴らした。
私はもう、母を見ていなかった。
◇
屋敷の裏手に、小さな丘がある。
子どもの頃、私が一人で星を見に行っていた場所だ。
丘の上に夫が自分の上着を敷いて、私たちはそこに座った。
十月の夜風は冷たいはずなのに、ちっとも寒くなかった。
私は、抱えてきた籠の蓋を開けた。
小さな、丸いケーキ。
白いクリームの上に、苺が十個。
真ん中のチョコレートの板に、名前が書いてある。
『ミレイユ 十歳のお誕生日おめでとう』
女の子は、ケーキを見たまま動かなくなった。
一秒。
二秒。
小さな指が、チョコレートの板の文字をなぞった。
み、れ、い、ゆ。
一文字ずつ、確かめるように。
クラウスが、ケーキに細い蝋燭を十本立てていく。
一本。二本。三本。
女の子の目が、蝋燭の数を追いかける。四本、五本、と唇だけが動いていた。
十本目が立ったとき、夫が火打ち石を擦った。
小さな火が、一本ずつ灯っていく。
夜の丘の真ん中に、十個の光が輪になった。
女の子の頬が、橙色に照らされた。
その目の中にも、十個の火が揺れていた。
「……これ」
声が掠れていた。
「これ、わたしの?」
「ええ」
「セシルの、じゃなくて?」
「あなたの。あなただけの」
女の子の唇が震えた。
泣くのかと思った。でも、泣かなかった。
泣き方を、もう忘れてしまっていたのだ。この頃の私は。
代わりに、その子はとても小さな声で訊いた。
「……食べて、いいの?」
その一言で、私のほうが駄目になった。
ずっと飲み込んできたものが、喉の奥からせり上がってくる。
視界が滲んで、苺の赤がぼやけた。
私は女の子を抱きしめた。外套ごと、力いっぱい。
細い。
骨ばっている。
こんなに軽い子どもを、私は十六年間、ひとりで抱えて生きてきたのだ。
「いいの。全部食べていいの」
「……おばさん、泣いてる」
「泣いてないわ」
「泣いてる」
「そうね。泣いてるわ」
腕の中で、女の子が身じろぎした。
それから、ぎこちない手つきで、私の背中をぽん、と叩いた。
二回。
母がセシルにだけしていた叩き方だった。見て、覚えていたのだ。いつか自分もしてもらえる日のために。
私は顔を上げた。
涙で濡れた顔のまま、その子の目をまっすぐに見た。
「ミレイユ。よく聞いて」
「……うん」
「あなたは、要る子よ」
女の子の目が、大きく見開かれた。
「誰がなんと言っても。お母様がなんと言っても。あなたは要る子」
「……どうして、わかるの」
「だって」
声が詰まった。
それでも、言わなければいけなかった。十六年前の私が、誰かに言ってほしかった言葉を。
「だって私が、こんなにあなたに会いたかったんだもの」
女の子は、ぽかんと私を見ていた。
それから、その顔がゆっくりと崩れていった。
最初に、鼻の頭が赤くなった。
次に、下唇が震えた。
最後に、大きな目から、ぽろりと一粒こぼれた。
一粒こぼれたら、もう止まらなかった。
十歳の私は、声を上げて泣いた。
生まれて初めて、誰かの腕の中で。
クラウスは何も言わずに、私たち二人をまとめて腕で囲った。
◇
泣き止んだ女の子に、私は蝋燭を指さした。
火は少し短くなって、蝋がクリームの上にぽたりと落ちていた。
「願いごとをして、吹き消すのよ」
「ねがいごと?」
「何でもいいの。ひとつだけ」
女の子は、蝋燭をじっと見つめた。
長い、長い間。
それから目をつぶって、両手を胸の前で組んだ。
「来年も、だれかが、わたしの誕生日をおぼえていてくれますように」
息を吸う音がした。
ふうっ、と頬を膨らませて、女の子は一息で十本の火を吹き消した。
煙が細く、夜空にのぼっていく。
私は、拍手をするのも忘れていた。
叶う。
その願いは、叶う。
十六年後、公爵家の料理長が、私の好物を黙って覚えていてくれる。侍女頭が、私の誕生日の晩餐を、私より先に用意してくれている。
でもそれを、この子に教えることはできない。
だから私は、精いっぱいの拍手をした。クラウスも、大きな手を打ち鳴らした。
◇
ケーキは、三人で食べた。
女の子は苺をひとつずつ大事に食べて、最後の一個を、少し迷ってからクラウスに差し出した。
「おじさんに、あげる」
「いいのか。君のケーキだ」
「外套、貸してくれたから」
クラウスは真顔で苺を受け取り、真顔で食べ、真顔で「うまい」と言った。
女の子が、初めて笑った。
前歯が一本、抜けていた。そうだ、この頃、ちょうど前歯が抜けていたのだった。
女の子は、クリームのついた指を舐めながら、夫の顔をじっと見上げた。
「おじさんは、おばさんのこと、好き?」
「好きだ」
即答だった。
私は持っていたフォークを取り落としそうになった。
「どのくらい?」
「この丘から、王都の端まで」
「……それって、どのくらい?」
「馬で三日だ」
女の子は真剣な顔で指を折って数え、それから、満足そうに頷いた。
「じゃあ、すっごく好きなんだね」
「そうだ」
私は顔が熱くて、夫のほうを見られなかった。
三年間、一度もそんなことを言われたことはない。いや、私が言わせなかったのかもしれない。
聞いてしまったら、失うのが怖くなるから。
東の空が、うっすらと白み始めていた。
私は自分の髪に手をやって、結んでいたリボンをほどいた。
色褪せて、端がほつれた、青いリボン。
十六年間、苦しい夜に握りしめてきたもの。
女の子の髪に、それを結ぶ。
指が震えて、一度失敗した。二度目で、きれいな蝶結びになった。
「これ、なあに?」
「お守り。苦しい夜は、これを握って眠りなさい」
「……おばさんは、また来てくれる?」
胸が軋んだ。
来られない。きっと、もう二度と。
答えられずにいると、クラウスが女の子の前に膝をついた。
目の高さを合わせて、はっきりと言った。
「来る」
「ほんとう?」
「十六年後だ。少し長いが、必ず迎えに来る。それまで、そのリボンをなくすな」
女の子は、リボンの端をぎゅっと握って、こくりと頷いた。
◇
眠ってしまった十歳の私を、子ども部屋の寝台に寝かせた。
物置ではなく、本当の寝台に。
クラウスの外套をかけたまま、額にひとつ口づけを落として、私たちは鏡を抜けた。
寝室に戻ると、窓の外はまだ夜だった。
時計の針は、私たちが出発した時刻から、一分も進んでいなかった。
髪に手をやる。
リボンは、ない。
当たり前だ。あれは今、十六年前の私の髪に結ばれている。
なのに私は、十六年間、あのリボンを握って眠ってきた。
頭の中で、何かがぐるりと一周した気がした。
「……クラウス」
「ん」
「あの手紙。何を書いたの」
夫は少し気まずそうに、銀色の髪をかいた。
「十六年後、ヴェルデン公爵家当主が、ロシュ伯爵家の長女ミレイユ嬢を妻として迎えに参ります、と」
私は、声を失った。
三年前。
ヴェルデン公爵家から縁談が来たとき、実家は大騒ぎになった。
母は当然のように、セシルを差し出そうとした。
けれど公爵家は、頑として「長女を」と譲らなかった。
理由は誰にも分からなかった。私にも。
「父に言われていたんだ」
クラウスは、鏡のほうを見ながら言った。
「時が来たら、ロシュ伯爵家の長女を迎えに行け。古い約束がある、と。父も、なぜそうなったのかは知らなかった。……伯爵家はきっと、あの手紙を君に隠していたんだろう」
隠していた。
公爵家が長女を迎えに来ると知りながら、母は十六年間、私を物置に入れ続けた。
その時が来たら、セシルにすり替えればいいと思って。
怒りは、不思議と湧かなかった。
それよりも、胸の奥にずっと沈んでいた冷たい塊が、ゆっくり溶けていくのが分かった。
「最初は、わけも分からず会いに行った」
夫が、私のほうを向いた。
「会って、分かった。この人を迎えに来たんだと」
「……そんなこと、一度も言わなかったじゃない」
「言ったら君は、『私なんかを』と言っただろう」
言っただろう。三年前の私なら、必ず。
クラウスは私の頬に手を当てて、親指で涙の跡を拭った。
「迎えに行けたな」
「ええ」
「二人とも」
私は、夫の胸に額を押しつけた。
鏡の中にはもう、物置部屋は映っていなかった。
映っているのは、青いドレスのまま抱き合う、少し髪の乱れた夫婦だけだ。
◇
後で聞いた話では、ロシュ伯爵家はその後、セシルの浪費が祟って、領地の半分を手放したという。
母から、援助を乞う手紙が一度だけ届いた。
私は封を切らずに、執事に返してもらった。
恨んでいるわけではない。
ただ、あの家の物置に、もう私はいないというだけだ。
十歳の私は、あの夜、ちゃんと迎えに来てもらったのだから。
鏡台の引き出しに、青いリボンはもうない。
代わりに毎晩、寝室の扉が開いて、夫の声がする。
「おかえり、ミレイユ」
三年間、返事に詰まっていた言葉だ。
ここにいていいのか分からなくて、いつも曖昧に笑ってごまかしていた言葉だ。
今は、迷わない。
ここが私の帰る場所だと、十歳の私が教えてくれたから。
私は夫に駆け寄って、少しだけ泣きそうになりながら答える。
「ただいま」
(了)




