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王太子殿下、あなたの国はもう救いません 追放された悪役令嬢は、隣国で聖女より尊い薬師となる

作者: シオン
掲載日:2026/09/14


第一章 卒業祝賀会の断罪


「リディア・フォン・アルヴェイン。貴様との婚約を、今この場をもって破棄する!」


王立学院の卒業祝賀会。


金色の燭台が輝く大広間で、王太子アレクシスは高らかに宣言した。


楽団の演奏が途切れ、集まった貴族たちの視線が一斉にリディアへ向けられる。


もっとも、その顔に驚きはなかった。


婚約者であるアレクシスが、男爵令嬢ミア・ルーベルトを腕に抱いて入場してきた時点で、こうなることは分かっていたからだ。


リディアは深い藍色のドレスの裾をつまみ、静かに一礼した。


「承知いたしました」


「なに?」


アレクシスは拍子抜けした顔をした。


彼はきっと、リディアが取り乱すと思っていたのだろう。泣いてすがり、無実を訴え、最後には嫉妬に狂った醜い本性を見せると期待していたに違いない。


けれどリディアは、そんな彼の期待に応えるつもりはなかった。


「殿下が婚約破棄を望まれるのであれば、謹んでお受けいたします」


「待て。話はそれだけではない」


アレクシスは胸を張り、周囲を見回した。


その傍らで、桃色の髪をしたミアが小さく震えている。白いドレスに身を包んだ彼女は、守ってやらなければ壊れてしまいそうな可憐さを演出していた。


「貴様はミアを妬み、学院内で執拗ないじめを行った。階段から突き落とし、教本を破り、さらには毒を盛ろうとした!」


広間がざわめいた。


リディアは目を伏せた。


階段から落ちた件なら、ミアが自分で足を滑らせたところを、リディアの侍女が助けている。


教本については、ミアが図書室から無断で持ち出し、雨にぬらしたものだ。


毒に至っては笑うしかない。ミアが腹痛を起こした菓子には、彼女自身が厨房から盗み出した木苺が使われていた。ミアは軽度の木苺アレルギーを持っていたらしい。


すべて調査済みだった。


証言も証拠もそろっている。


リディアは一か月前、王太子宮へ報告書を提出していた。しかし、アレクシスは一度も目を通さなかった。


「言い訳はあるか?」


「ございません」


「罪を認めるのだな!」


「いいえ」


リディアはゆっくりと顔を上げた。


「殿下が、私の言葉を聞くおつもりがないことを認めただけです」


アレクシスの顔が赤くなる。


「不敬な!」


「私は三度、調査報告書を提出いたしました。一度目は王太子宮の文官長へ。二度目は殿下の側近であるグレイ卿へ。三度目は殿下ご本人へ。すべて受領印もいただいております」


リディアは扇を閉じた。


「殿下はお読みになりましたか?」


「そのような、言い逃れのために作られた書類など!」


「つまり、お読みになっていないのですね」


広間のざわめきが大きくなった。


アレクシスの側近であるグレイが進み出る。


「そもそも証拠など、いくらでも捏造できる! アルヴェイン公爵家の力を使えば、使用人に偽証させることも容易だろう!」


「そうですか」


リディアは驚かなかった。


想定していた答えだった。


「では、もう一つだけ確認させてください。殿下は本日、王家とアルヴェイン公爵家との婚約契約を破棄なさる。相違ございませんね?」


「くどい!」


「王家が正式に締結した契約です。口頭ではなく、書面にご署名くださいませ」


「よかろう!」


アレクシスは側近から銀の羽根ペンを奪い取った。


侍従が運んできた婚約破棄証書に目も通さず、自らの名を書きつける。続いて王太子印を押し、リディアへ突きつけた。


「これで満足か!」


「はい。心より」


リディアは証書を受け取ると、わずかに微笑んだ。


その瞬間、広間の扉が開いた。


入ってきたのはリディアの父、アルヴェイン公爵エドガーだった。王国宰相である彼の後ろには、公爵家の法務官と王立学院長が続いている。


「署名は済んだようですな」


公爵の低い声に、アレクシスの表情がこわばった。


「宰相。これは学院内の問題だ。部外者は下がれ」


「本日付で宰相を辞任いたしましたので、確かに私は部外者です」


「なに?」


「陛下にはすでに辞表を提出しております」


公爵は娘の隣に立った。


「我がアルヴェイン家は今後、王家との一切の協力関係を解消いたします。婚約契約第十二条に基づき、王家へ貸与していた資金、穀物備蓄、および治水技術者を引き揚げます」


アレクシスの顔から血の気が引いた。


「待て。婚約破棄はリディア個人との問題だろう!」


「契約書をお読みにならなかったのですか?」


リディアが尋ねる。


「アルヴェイン家が王家へ行ってきた支援は、私と殿下の婚約を前提とするものです。婚約が解消された場合、支援も終了いたします」


「そんな話は聞いていない!」


「十年前から毎年、王家の会計報告書に明記されております」


アレクシスが側近たちを見る。


誰も答えられなかった。


王太子が会計報告書を一度も読んだことがないのは、公然の秘密だったからだ。


アレクシスは動揺を押し隠すように叫ぶ。


「脅しのつもりか! その程度の支援がなくとも、王国は揺るがぬ!」


「さようでございますか」


「それにリディアは罪人だ。国外追放を命じる!」


「殿下!」


学院長が声を上げた。


「裁判も行わず、公爵令嬢を追放なさるおつもりですか」


「証人ならいる!」


アレクシスが手を上げると、三人の生徒が前へ出た。いずれも彼の取り巻きであり、ミアを囲む男たちだった。


「私たちは見ました。リディア嬢がミア嬢を階段から突き落とすところを」


「私も、彼女が毒を用意したと聞きました」


「間違いありません」


リディアは一人ずつ見つめた。


最初の男は借金を抱える伯爵家の三男。


次の男は試験で不正を行い、ミアに答案を見せてもらった子爵家の嫡男。


最後の男は、王太子の側近の地位を欲しがっている侯爵家の次男。


彼らがなぜ偽証したのか、理由まで調べはついていた。


「もうよいわ、リディア」


父が静かに言った。


「真実を必要としない者に、真実を差し出す必要はない」


「はい、お父様」


「馬車の用意はできている。領地へ帰ろう」


リディアはうなずくと、アレクシスに背を向けた。


途端にミアが甲高い声を上げた。


「待ってください!」


リディアが振り向くと、ミアはアレクシスの腕から離れ、悲しげに眉を下げていた。


「私、リディア様に謝ってほしいだけなんです。そうすれば追放なんてしなくてもいいって、殿下にお願いできます」


「必要ありません」


「強がらないでください。公爵家の援助がなくなったら、リディア様だって困りますよね?」


リディアは目を細めた。


どうやらミアは、公爵家が王家から援助を受けていると思っているらしい。


実際は逆だ。


王家が公爵家の資金と技術に依存しているのである。


「ミア様」


「はい」


「謝罪をなさるべきなのは、あなたです」


ミアの表情が一瞬だけ消えた。


「階段の踊り場には、魔石式記録装置が設置されています。図書室にも、厨房にも」


「え?」


「費用は私が負担いたしました。学院長の許可も得ております」


取り巻きの生徒たちが青ざめる。


リディアは彼らを見ないまま続けた。


「記録はすべて学院長がお持ちです。裁判になれば公開されるでしょう」


「そんなはず……」


「ただし、裁判は不要です」


リディアは婚約破棄証書を胸元に抱いた。


「私はもう、この国に何も求めませんから」


扉へ向かって歩き出す。


背後でアレクシスが叫んでいた。


「逃げるのか、リディア!」


リディアは立ち止まらなかった。


逃げるのではない。


やっと自由になるのだ。


十年間、未来の王妃として捧げてきた努力も、知識も、時間も。


今度は自分と、自分を信じてくれる者たちのために使う。


大広間を出た瞬間、リディアは胸いっぱいに夜の空気を吸い込んだ。


春の風は、驚くほどやわらかかった。


第二章 王都からの旅立ち


アルヴェイン公爵家の馬車は、夜明け前に王都を出発した。


リディアが生まれ育った公爵邸は、すでに閉鎖の準備が進められていた。必要な書類や財産は一週間前から運び出してある。


父は祝賀会で婚約破棄が宣言されることを予測していた。


正確には、リディアが予測し、父へ伝えていたのだ。


「本当に悔いはないのか」


向かいに座る父が尋ねた。


リディアは窓の外を流れる麦畑を眺めた。


「ありません」


即答すると、父は寂しげに笑った。


「お前は昔から、決断すると振り返らない子だったな」


「お父様に似たのです」


「私は何度も振り返る。特に今回はな」


父は膝の上で拳を握る。


「もっと早く、婚約を解消すべきだった。アレクシス殿下がお前の努力を当然のものとして扱い始めた時に」


リディアは七歳でアレクシスと婚約した。


王妃教育が始まったのは、その翌月だった。


歴史、外交、法学、経済、語学、礼法、薬学、魔術。


一日十二時間に及ぶ教育を受けながら、王太子の公務まで補佐してきた。


アレクシスが十六歳になった年、国境付近で洪水が起きた。


被災者への支援計画を作ったのはリディアだった。王太子名義の布告文を書き、食糧輸送の経路を決め、公爵家から資金を出した。


けれど民衆の前で感謝されたのはアレクシスだった。


彼はリディアを振り返りもしなかった。


それでも当時のリディアは、王妃とは影から王を支えるものだと考えていた。


「殿下に対して、情がまったくないと言えば嘘になります」


リディアは自分の手を見つめた。


「ですが、幼い頃の殿下と、今の殿下は別人です。私が懐かしんでいるのは、もうどこにもいない方なのでしょう」


十歳の頃、アレクシスは優しい少年だった。


王宮の庭園で転んだリディアに手を差し伸べ、彼女の傷を心配して泣いたことさえある。


だが成長するにつれ、周囲から持ち上げられ、自分は何をしても許されると思い込むようになった。


そしてミアと出会った。


ミアは努力を要求しなかった。


政務をさぼっても、作法を誤っても、「殿下はそのままで素敵です」と笑った。


アレクシスにとって、リディアは自分の至らなさを映す鏡だった。しかしミアは、ありのままの自分を肯定してくれる。


どちらを好むかは明白だった。


「これから、どうしたい?」


父の問いに、リディアは窓を開けた。


草と土の香りが馬車の中へ流れ込む。


「北方領へ参ります」


「領地へ?」


「はい。ただし、その前に国境を越えます」


父は驚かなかった。


「ヴァレンティア帝国か」


「帝国北部で、原因不明の熱病が広がっているそうです」


「知っていたのか」


「王宮に届いた報告書を読みました。殿下はご覧にならなかったようですが」


ヴァレンティア帝国はアルヴェイン公爵領と国境を接する大国だ。


二百年前には戦争もあったが、近年は交易が盛んになっている。特に公爵領は、帝国北部の鉱山都市と深い結びつきを持っていた。


「熱病の治療法が分かるのか?」


「まだ分かりません。ですが、報告書に記載されていた症状に覚えがあります」


リディアは鞄から古い薬学書を取り出した。


王都の市場で偶然見つけた、百年前の医師の手記だ。


「灰斑熱。かつて帝国東部で流行した病です。原因は呪いでも魔族でもなく、鉱山に生える苔だと記されています」


「治療薬は?」


「作れます」


リディアは薬学書を抱きしめた。


「私はずっと、王妃になるために学んできました。けれど、その知識は王妃にならなくても使えます」


「危険だぞ」


「承知しています」


「止めても行くのだろうな」


「はい」


父は大きく息を吐いた。


それから、穏やかに笑った。


「ならば公爵家の薬師と護衛を連れていけ。北方の城も自由に使いなさい」


「ありがとうございます」


「リディア」


「はい」


「もう、お前は誰かの期待に応えるために生きなくていい」


父の言葉が胸に染みた。


涙がこぼれそうになり、リディアは窓の外へ顔を向ける。


「分かっています」


そう答えた声は、少しだけ震えていた。


第三章 帝国の黒き騎士


国境の町レイナードに到着した時、街道は避難民であふれていた。


灰斑熱の流行地域から逃げてきた者たちだ。


患者の肌には灰色の斑点が浮かび、高熱と咳に苦しんでいる。


町の治療院には入りきらず、多くの人々が広場に敷かれた毛布の上で横たわっていた。


「これはひどい」


公爵家の薬師長バルドが顔をしかめる。


リディアは馬車を降り、最も近くにいた患者のそばへ膝をついた。


十歳ほどの少年だった。


母親らしい女性が、少年をかばうように抱きしめる。


「触らないでください! うつります!」


「大丈夫です。私は薬師です」


リディアは手袋を着け、少年の額に触れた。


高熱。肌の灰斑。浅い呼吸。


さらに爪の間には、緑がかった黒い粉が付着している。


「この子は鉱山に入りましたか?」


「薬草を拾いに行っただけです。坑道の近くには寄っていません」


「靴を見せてください」


少年の靴底には、乾燥した苔がこびりついていた。


薬学書の記述と一致する。


「バルド。薬箱から月白草を。乾燥したものではなく、生の葉を使います」


「解毒薬を作るのですか」


「ええ。ただし月白草だけでは効きません。銀水を沸騰させ、星砂をひとつまみ加えてください」


「星砂は毒性があります」


「加熱すれば中和されます。灰苔の胞子を体外へ排出させる触媒になるはずです」


薬師たちが動き出す。


その時、町の入り口から騎馬隊が入ってきた。


黒い軍服をまとった帝国兵だ。


先頭の男は漆黒の馬に乗り、銀色の髪を風になびかせていた。


鋭い目と、隙のない姿勢。


帝国の北方軍を率いる「黒き騎士」セドリック皇子だった。


彼は皇帝の第二皇子でありながら、十二歳から国境の戦場に立ち、二十歳で将軍となった人物だ。


冷酷無比。


降伏した敵将にも情けをかけない。


王国では、そう伝えられている。


セドリックは広場の惨状を見渡すと、馬を降りた。


「町長はどこだ」


「わ、私です」


痩せた中年男性が進み出る。


「隔離区画は」


「修道院を使っております。しかし、すでに満員で」


「東の兵舎を開放しろ。部下を五十人置く。井戸は封鎖し、飲み水は上流から運ばせろ」


「兵舎を患者に?」


「異論があるか」


「い、いいえ!」


命令を下すセドリックの視線が、リディアに止まった。


「そこの女。何をしている」


「治療薬を作っています」


「許可なく患者に薬を与えるな」


「では、許可をください」


周囲が静まり返った。


帝国の皇子に対し、公爵令嬢が真っ向から要求したのだ。


セドリックはリディアへ歩み寄った。


「何者だ」


「ローデリア王国、アルヴェイン公爵家のリディアと申します」


「王太子に追放された令嬢か」


話が早い。


「追放命令に法的根拠はありませんので、正確には自ら国を出た令嬢です」


一瞬、セドリックの口元が動いた。


笑ったようにも見えた。


「治療薬の根拠は」


「百十三年前に記された医師オルディスの手記です。灰斑熱は灰苔の胞子による中毒症状。感染症ではありません」


「手記だけを信じて、人に薬を飲ませるつもりか」


「いいえ。まず私が飲みます」


リディアは完成したばかりの薬を受け取った。


濁った銀色の液体から、独特の青臭さが漂っている。


「お嬢様!」


バルドが止めるより早く、リディアは薬を口にした。


苦味に顔をしかめる。


セドリックの眉がわずかに上がった。


「灰苔の粉も摂取していないのに、薬だけ飲んでも安全性しか分からない」


「ですから、次はこちらを」


リディアは少年の靴底から採取した苔の粉を指先につけた。


「待て」


今度はセドリックが手首をつかんだ。


「そこまでする必要はない」


「では、患者への投与を許可していただけますか」


「お前はいつも自分の命を交渉材料にするのか」


「必要であれば」


セドリックはしばらくリディアを見つめていた。


「愚かだな」


「よく言われます」


「だが、嫌いではない」


彼は手を離した。


「投与を許可する。最初の患者は一人。容体を見てから範囲を広げろ」


「ありがとうございます」


少年に薬を飲ませると、一時間ほどで熱が下がり始めた。


夜になる頃には呼吸が落ち着き、灰色の斑点も薄くなった。


母親は泣きながらリディアの手を握った。


「ありがとうございます。ありがとうございます」


「まだ安静が必要です。一晩はそばにいてあげてください」


「はい!」


少年への効果が確認されると、薬はすべての患者へ配られた。


だが問題は残っていた。


灰苔の胞子は鉱山から風に乗り、周辺地域へ広がっている。この町の患者を治しても、発生源を断たなければ流行は繰り返す。


夜の会議でリディアがそう説明すると、セドリックは地図を広げた。


「発生源は、ガルム鉱山か」


「おそらく」


「あそこは三日前に崩落した。坑道内にはまだ二百人が取り残されている」


「救出隊は?」


「灰斑熱を恐れて、作業員が集まらない」


セドリックは冷静に語ったが、地図を押さえる指先には力が込められていた。


「彼らは生きているのですか」


「坑道の奥に備蓄庫がある。崩落時に避難できていれば、まだ生きている可能性はある」


「私も行きます」


「却下だ」


「灰苔を処理する方法を知っているのは私です」


「方法を兵士へ教えろ」


「地図だけでは苔の群生地を特定できません」


「現場で判断させる」


「胞子の濃度、苔の色、空気の湿度を見なければ危険度を判定できません。誤れば救出隊も全滅します」


セドリックは黙った。


リディアは彼の目をまっすぐ見返す。


「殿下。助けたいのでしょう?」


「当然だ。彼らは帝国の民だ」


「ならば、私を連れていってください」


「お前は帝国の民ではない」


「目の前で苦しむ方を助けるのに、国籍は関係ありません」


沈黙の後、セドリックは地図を畳んだ。


「分かった。同行を許可する」


「ありがとうございます」


「ただし、私から離れるな」


「なぜです?」


「命を交渉材料にする愚か者を、誰かが見張る必要がある」


今度こそ、セドリックははっきりと笑った。


冷酷無比と恐れられる黒き騎士の笑顔は、意外なほど穏やかだった。


第四章 生き埋めの鉱山


翌朝、救出隊はガルム鉱山へ向かった。


リディアは防毒効果のある薬液を布に染み込ませ、兵士たちの口元を覆わせた。


さらに月白草の抽出液を小瓶に詰め、一人ずつ持たせる。


「めまい、吐き気、指先のしびれを感じたら、すぐに飲んでください。無理に進めば命を落とします」


「承知した」


兵士たちは真剣にうなずいた。


崩落した坑道では、土煙に混じって灰色の胞子が漂っていた。


リディアが魔力灯をかざすと、岩壁にびっしりと苔が生えている。


「黒く変色している部分には触れないでください。胞子が飛びます」


「燃やせばいいのか」


セドリックが尋ねる。


「今は駄目です。炎の熱で胞子が舞い上がります。救助を終えた後、坑道を密閉して蒸気で処理します」


一行は瓦礫を撤去しながら進んだ。


途中、兵士の一人が崩れた岩に足を挟まれた。セドリックは自ら岩を持ち上げ、部下を救い出した。


皇子だからといって後方から命令するだけではない。


最も危険な場所へ真っ先に入り、誰よりも重い瓦礫を運ぶ。


その姿を見て、リディアは王国で聞かされていた評判が嘘だったと気づいた。


セドリックは冷酷なのではない。


決断が早いのだ。


救える命を救うため、迷って時間を失わない。


二時間後、坑道の奥からかすかな音が聞こえた。


岩を叩く音だ。


「生存者がいる!」


兵士たちが歓声を上げる。


崩落部分を慎重に掘り進めると、人が通れるほどの穴が開いた。


「俺が入る」


セドリックが身をかがめる。


「殿下、お待ちください」


リディアは穴の奥から流れてくる空気を確かめた。


腐った果実に似た匂いがする。


「灰苔の濃度が高すぎます。薬液を飲んでください」


「必要ない」


「必要です」


「残りが少ない。中の民に使え」


セドリックは穴の中へ進んだ。


リディアはため息をつく。


「私には命を大切にしろとおっしゃったのに」


その背を追って、穴へ入った。


崩落の先には広い空洞があり、百八十七人の鉱夫たちが身を寄せ合っていた。


多くが灰斑熱を発症している。


そして倒れた者たちに水を飲ませていたのは、まだ幼さの残る少女だった。


「皇子殿下……?」


少女の目に涙が浮かぶ。


「助けに来た」


セドリックが告げる。


その一言で、鉱夫たちは声を上げて泣いた。


リディアはすぐ治療を始めた。


重症者から薬を飲ませ、歩ける者には互いを支えさせる。


避難が進むさなか、地鳴りが響いた。


天井から小石が落ちる。


「再崩落だ!」


セドリックが叫んだ。


「全員、出口へ急げ!」


鉱夫たちが穴へ殺到する。


秩序を失えば、狭い抜け道で圧死者が出る。リディアは声を張り上げた。


「重症者を先に! 歩ける方は壁際に並んでください! 必ず全員出られます!」


「そんな保証がどこにある!」


鉱夫の一人が叫ぶ。


「ありません!」


リディアは即答した。


「ですが、順番を守らなければ全員死にます! 信じてください!」


少女が最初に動いた。


「みんな、言うとおりにして! この人は私たちを助けるために来てくれたの!」


その声に押され、人々が列を作る。


セドリックと兵士たちは天井を支え、リディアは避難する者たちへ薬を配った。


最後の子どもが穴へ入った直後、天井に大きな亀裂が走る。


「リディア、行け!」


「殿下が先に!」


「命令だ!」


セドリックはリディアの体を抱き上げ、無理やり穴へ押し込んだ。


直後、轟音が響いた。


「セドリック殿下!」


土煙で何も見えない。


リディアは来た道を戻ろうとしたが、兵士に腕をつかまれた。


「危険です!」


「離してください!」


「ここも崩れます!」


「殿下がまだ中に!」


リディアは兵士の手を振りほどき、瓦礫をかき分けた。


指先から血が出ても構わなかった。


「セドリック!」


初めて敬称を忘れて名を呼んだ。


「返事をしてください!」


「聞こえている」


瓦礫の向こうから、低い声が返る。


リディアの胸に安堵が広がった。


「無事ですか」


「左腕を挟まれた。それ以外は問題ない」


「それを無事とは言いません!」


兵士たちと岩を取り除く。


やがて土煙の向こうに、腕から血を流したセドリックの姿が現れた。


リディアは彼に駆け寄った。


「見せてください」


「かすり傷だ」


「骨が見えそうな傷を、かすり傷とは呼びません」


薬を塗り、包帯を巻く。


セドリックは痛みに顔をしかめるどころか、リディアの血まみれの指先を見ていた。


「なぜ戻った」


「あなたを置いていけるわけがありません」


「皇子だからか」


リディアは包帯を結ぶ手を止めた。


「あなたがセドリック様だからです」


彼の目が見開かれる。


だが次の崩落音が、二人の会話を遮った。


セドリックは立ち上がると、傷ついていない右手を差し出した。


「走れるか」


「もちろんです」


リディアはその手を取った。


二人は手をつないだまま、崩れゆく坑道を走った。


出口を飛び出した瞬間、背後で坑道が完全に崩落した。


外では救出された人々が歓声を上げた。


生存者、百八十七名。


救出隊を含め、死者は一人もいなかった。


第五章 崩れ始める王国


一方、ローデリア王国では異変が起きていた。


アルヴェイン公爵家の支援が打ち切られてから、わずか一か月。


王都の穀物価格は三倍に跳ね上がった。


公爵領から供給されていた小麦が止まり、王家が管理する備蓄倉庫は空になった。


「なぜ備蓄がない!」


アレクシスは会議室の机を叩いた。


財務大臣が額の汗を拭う。


「昨年の不作により、備蓄の大半を放出しております。アルヴェイン公爵家から融通を受ける予定でしたので」


「ならば買い戻せ!」


「公爵家は帝国との交易を拡大し、余剰分をすべて輸出しております」


「王太子命令で徴収しろ!」


「アルヴェイン領は公爵家の私有地です。正当な対価なく徴収すれば、法に反します」


「法など私が変える!」


「殿下はまだ国王ではございません」


大臣の言葉に、アレクシスは顔をゆがめた。


隣の席では、ミアが退屈そうに爪を眺めている。


婚約破棄の翌日、アレクシスは彼女を新たな婚約者に指名した。


しかし王妃教育を始めてみると、ミアは一時間と机に向かっていられなかった。


「難しいことなんて分かりません」


「リディア様がやっていたなら、私にもできます」


「王太子妃になれば、使用人が全部やってくれるんですよね?」


彼女はそう言って、授業をさぼった。


アレクシスも最初はミアをかばっていた。


だがリディアが担っていた政務が自分へ戻ってくると、苛立つようになった。


「殿下ぁ、会議はまだ終わらないんですか?」


ミアが甘えた声を出す。


「あと少しだ」


「宝石商を待たせているんです。結婚式の首飾りを選ぶって約束しましたよね?」


「今は穀物の話をしている!」


「そんなの、大臣の人たちに任せればいいじゃないですか」


財務大臣たちが視線を伏せる。


アレクシスも以前なら、同じことを言っていただろう。


しかし実際に王国が立ち行かなくなり始めると、大臣に任せるだけでは何も解決しないと分かった。


そして、これまで解決していたのが誰だったのかも。


「リディアなら、どうしていた」


思わず漏れた言葉に、ミアの顔が引きつった。


「どうして、あの人の名前を出すんですか?」


「比較したわけではない」


「比較しています!」


ミアは立ち上がった。


「殿下は私を愛してるって言ったじゃないですか!」


「愛している。だが今は国の問題を」


「嘘!」


彼女は泣きながら会議室を飛び出した。


アレクシスは追いかけなかった。


追いかける余裕などなかった。


治水技術者が引き揚げた南部では、堤防の補修が止まっている。


北部の街道では、賃金を支払われなくなった警備隊が解散した。


税収管理を担っていた文官の三割が、公爵家とともに王都を去った。


彼らの穴を埋めようにも、仕事の内容を正確に把握している者すらいない。


「殿下」


老いた内務大臣が言った。


「アルヴェイン公爵へ謝罪し、協力を求めるべきです」


「私に頭を下げろというのか」


「ほかに道はございません」


「リディアは罪人だ!」


「その罪状ですが」


法務大臣が書類を差し出した。


「学院の記録装置を検証した結果、リディア嬢による加害行為は確認されませんでした」


「なんだと」


「階段では、ミア嬢が自ら転倒しております。教本を破壊した事実もなく、毒物も使用されておりません」


「証人がいただろう!」


「三名とも、虚偽の証言だったと認めました」


「なぜ今さら!」


「偽証罪に問われると知り、家族に説得されたようです」


アレクシスは書類をつかみ、床へ投げ捨てた。


「すべて、リディアの策略だ!」


「殿下」


「私を陥れるため、最初から仕組んでいたのだ!」


「殿下!」


老大臣が強い声を出した。


「ご自分が誤ったのだと、なぜお認めになれないのです!」


会議室が静まり返る。


アレクシスは震える指で老大臣を指した。


「不敬罪だ。こいつを捕らえろ!」


しかし、護衛たちは動かなかった。


アレクシスを見つめる彼らの目には、敬意ではなく失望がにじんでいた。


第六章 帝国の客人


灰斑熱を収束させたリディアは、帝都へ招かれた。


皇帝から与えられたのは、帝国一等勲章と宮廷薬師長の地位だった。


だがリディアは後者を辞退した。


「なぜだ?」


皇帝は玉座から身を乗り出した。


セドリックによく似た銀髪だが、陽気で人好きのする雰囲気を持つ人物だった。


「宮廷薬師長になれば、帝国内のあらゆる薬草と研究設備を自由に使える。報酬も望むままだぞ」


「ありがたいお話です。しかし私は、公爵領へ戻らなければなりません」


「父君のためか」


「民のためです」


リディアは一礼した。


「王国との交易が途絶えた影響で、公爵領にも変化が起きています。帝国との新たな交易路を整え、国境地域に治療院を建てたいと考えております」


「あの国へ戻るのか?」


「ローデリア王国ではなく、アルヴェイン公爵領へ戻ります」


皇帝は声を上げて笑った。


「なるほど。気に入った」


笑いが収まると、皇帝は隣に立つセドリックを見た。


「それで、お前はどうする?」


「どうする、とは」


「気づいていないと思ったか?」


皇帝は息子の左腕を指した。


鉱山で負った傷は回復していたが、まだ包帯が巻かれている。


「そなたが毎日欠かさず治療院へ通い、必要もないのに包帯を交換してもらっていることくらい、帝都中が知っておる」


セドリックは無表情を保っていた。


耳だけが赤い。


リディアも頬に熱が集まるのを感じた。


確かにセドリックは毎日治療院へ来ていた。


最初の数日間は治療のためだった。


しかし傷がふさがった後も、彼は「動かすと違和感がある」と言って診察を求めた。


リディアは気づきながら、気づかないふりをしていた。


「父上」


セドリックが低い声を出す。


「余計なことをおっしゃらないでください」


「余計なものか。欲しいものを欲しいと言えず、戦場に逃げるような息子を持つと、父親は苦労する」


「逃げてはいません」


「では、リディア嬢が帰る前に伝えよ」


謁見が終わり、リディアは宮殿の庭園へ出た。


白い薔薇が咲き誇る中、セドリックが追いかけてくる。


「リディア」


彼はリディアの前で立ち止まった。


「父の言葉は気にしなくていい」


「そうですか」


「だが、すべてが間違いというわけでもない」


「どの部分でしょう」


セドリックが言葉に詰まった。


戦場では一万の兵を動かす男が、一人の令嬢を前にして困り果てている。


リディアは思わず微笑んだ。


「笑うな」


「申し訳ございません」


「私は弁舌が得意ではない」


「存じております」


「今、笑っただろう」


「少しだけ」


セドリックはため息をついた。


それから、真剣な顔でリディアを見つめた。


「お前が好きだ」


飾りのない言葉だった。


だからこそ、まっすぐ胸へ届いた。


「鉱山で命を救われたからではない。薬師として優れているからでも、公爵令嬢だからでもない」


セドリックは続けた。


「強いのに、強がっていること。自分の傷には鈍感なくせに、他人の痛みには誰より敏感なこと。必要とされれば命まで差し出そうとして、だが自分から助けを求めることは苦手なこと」


リディアは目を伏せた。


「褒められている気がいたしません」


「褒めてはいない。心配している」


彼はリディアの手を取った。


「私のそばにいてほしい。お前が自分を犠牲にしようとした時、止められる場所にいたい」


温かな手だった。


アレクシスに触れられた時、リディアはいつも間違えないよう緊張していた。


けれどセドリックの手に触れていると、不思議なくらい呼吸が楽になった。


「私は、良い妻にはなれないかもしれません」


「なぜだ」


「王妃教育で身につけたことは多くあります。ですが、夫に黙って従うことだけは、どうしてもできそうにありません」


「従う必要はない」


セドリックは迷わず答えた。


「私は部下ではなく、伴侶を求めている」


「意見が対立するかもしれません」


「話し合えばいい」


「私が正しいとは限りません」


「私も正しいとは限らない」


「薬の研究をやめるつもりはありません」


「治療院を建てよう」


あまりにも迷いのない答えに、リディアは笑ってしまった。


目尻に涙が浮かぶ。


「ずるい方です」


「よく言われる」


「嘘ですね」


「ああ。初めて言われた」


リディアはセドリックの手を握り返した。


「お返事は、少しだけお待ちいただけますか」


彼の瞳に落胆がよぎる。


「嫌というわけではありません」


「では、なぜ待つ」


「私はまだ、自由になったばかりです。誰かの婚約者になる前に、自分の足で立ってみたいのです」


セドリックはしばらく黙っていた。


やがて、静かにうなずいた。


「分かった」


「申し訳ございません」


「謝ることではない。お前が自分で選ぶまで待つ」


「どのくらい?」


「何年でも」


その言葉が、リディアには何より嬉しかった。


アレクシスはリディアの選択を認めなかった。


セドリックは待つと言ってくれた。


「それでは、一年」


リディアは答えた。


「一年後、国境の白薔薇が咲く頃に、もう一度聞いてください」


「約束しよう」


セドリックはリディアの手の甲へ口づけた。


白薔薇の花びらが風に舞い、二人の間を通り抜けていった。


第七章 偽りの聖女


王国の混乱が続く中、ミアに聖女の力があることが判明した。


神殿で水晶に触れたところ、まばゆい光が放たれたのである。


大神官はミアの前にひざまずき、彼女こそ百年ぶりに現れた聖女だと宣言した。


「ほら、見てください!」


ミアは得意げにアレクシスへ笑いかけた。


「私を選んだ殿下は正しかったんです!」


聖女は王国を守護する特別な存在だ。


傷を治し、土地を清め、魔物を退けると伝えられている。


民衆は歓喜した。


穀物不足も、洪水への不安も、聖女がいれば解決すると信じたのだ。


アレクシスも希望を抱いた。


「ミア。南部の堤防へ行き、土地を祝福してくれ」


「嫌です」


「なぜだ?」


「泥だらけになるじゃないですか」


「しかし、聖女の力なら洪水を防げるのだろう?」


「どうやって使うのか、知りません」


大神官が祈りの言葉を教えたが、ミアは覚えようとしなかった。


治癒の力を試そうとしても、軽い切り傷すら治せない。


それどころか、ミアが水晶へ触れるたび、神殿の魔力が減少していった。


「どういうことだ」


アレクシスに詰め寄られ、大神官は青い顔をした。


「分かりません。水晶が光ったのは事実です。しかし、聖女の力が発現しない例など記録にございません」


「ミアは本当に聖女なのか?」


「殿下まで私を疑うんですか!」


ミアが泣き出す。


以前なら、アレクシスはすぐ彼女を抱きしめただろう。


今は違った。


彼女の涙を見ると、また話が進まなくなるという苛立ちを覚える。


その日の夜、神殿の若い神官が王宮を訪れた。


「殿下にお伝えしたいことがございます」


「申せ」


「聖女の水晶を調べたところ、表面に光魔石の粉が塗られておりました」


「光魔石?」


「魔力を流せば強く発光する鉱石です。ただし、聖女の力とは関係ありません」


アレクシスは椅子から立ち上がった。


「誰が塗った」


「監視記録には、判定の前夜、ミア様が神殿へ入る姿が残っております」


アレクシスはミアの部屋へ向かった。


彼女は鏡の前に座り、新しい首飾りを合わせていた。


「この首飾り、どう思います? 聖女なら白い宝石のほうが」


「ミア」


声を聞いた瞬間、ミアの肩が跳ねた。


「な、なんですか?」


「水晶に光魔石の粉を塗ったのか」


「知りません」


「記録が残っている」


ミアは目を泳がせた。


「私じゃありません」


「昨夜、神殿へ入ったな」


「お祈りをしていただけです」


「では、部屋を調べさせてもらう」


衛兵が動く。


「やめて!」


ミアは引き出しを押さえた。


しかし衛兵が彼女をどかし、引き出しを開ける。


中には光魔石の小瓶が入っていた。


室内が静まり返る。


「違うんです」


ミアが立ち上がった。


「私は本当に聖女なんです。でも力がまだ目覚めていないだけで」


「なぜ偽装した」


「だって!」


ミアは涙を流し、アレクシスへ詰め寄った。


「殿下が最近、私を見てくれなくなったから!」


「そのために国を欺いたのか」


「私が聖女になれば、みんな私を大切にしてくれると思ったんです!」


「大切にされるためなら、何をしても許されると思ったのか?」


ミアの顔から表情が消えた。


「殿下が、それを言うんですか」


「なに?」


「殿下だって同じでしょう?」


ミアは笑った。


「王太子だから何をしても許されるって、ずっと思っていたじゃないですか。政務をさぼっても、リディア様を追い出しても、自分が正しいって」


「黙れ」


「私たち、似た者同士だったんです」


「黙れ!」


アレクシスが手を上げる。


ミアは目を閉じた。


だが彼は、振り下ろせなかった。


「衛兵」


アレクシスは手を下ろした。


「ミア・ルーベルトを拘束しろ。王家および神殿に対する詐欺の容疑で、牢へ入れよ」


「嫌! 殿下、助けて!」


衛兵に腕を取られ、ミアが暴れる。


「私は殿下を愛してるんですよ!」


「お前が愛しているのは、自分を甘やかす者だけだ」


「そんなの殿下も同じでしょう!」


扉が閉じても、ミアの叫びはしばらく響いていた。


一人になったアレクシスは、力なく椅子へ座った。


机の上には、リディアが残していった政務記録が積まれている。


整った文字で、問題点と対処法、必要な予算、想定される危険まで細かく記されていた。


豊作の年に備蓄を増やすこと。


堤防の補修を二年以内に終えること。


文官の養成機関を設立し、特定の家門への依存を減らすこと。


アレクシスは、そのすべてを退けた。


自分に意見するリディアが気に入らなかったからだ。


彼女が間違っていたのではない。


正しかったから、疎ましかった。


「私は……何をした」


誰も答えなかった。


第八章 独立する公爵領


半年後、アルヴェイン公爵領はローデリア王国からの独立を宣言した。


それは突然の反乱ではなかった。


公爵家は三か月前、王家に自治権拡大を求める書面を提出している。


王都の機能不全により、公爵領では税金に見合う行政サービスを受けられなくなっていた。


街道の警備も、災害対策も、教育も医療も、公爵家が独自に負担している。


それでも王家は以前と同額の税を要求した。


さらにアレクシスは、帝国との交易利益の八割を王家に納めるよう命じた。


公爵は拒否した。


するとアレクシスは軍を派遣し、力ずくで公爵領を接収しようとした。


だが王国軍の兵士たちは国境へ到着すると、武器を置いた。


彼らの家族もまた、食糧不足に苦しんでいた。


一方、公爵領では帝国との交易によって食糧が安定供給され、避難民へも温かいスープが配られている。


何のために戦うのか。


誰を守るための軍なのか。


兵士たちは答えを出した。


「我々は民に剣を向けない」


指揮官は公爵の前でそう宣言した。


戦闘は起きなかった。


アルヴェイン公爵領は周辺の五領と連合し、新国家アルヴェリアを建国した。


初代国王にはエドガーが推された。


しかし彼は王位を辞退し、評議会を中心とする制度を採用した。


「一人の無能によって国が傾く危険を、身をもって知ったからな」


父の言葉に、リディアは苦笑した。


彼女はアルヴェリアの医療院長に就任した。


身分や国籍にかかわらず治療を受けられる病院を作り、薬師を育てる学校を併設した。


貧しい者からは治療費を取らない。


代わりに余裕のある商人や貴族から寄付を募り、国の予算も投入する。


最初は無謀だと言われた。


だが病人が減れば働ける者が増え、結果的に税収も増加した。


帝国からも留学生が訪れるようになり、薬学研究は急速に発展した。


そんなある日、リディアの研究室に花束が届けられた。


白薔薇だ。


差出人は書かれていなくても分かった。


「一年、ですか」


窓の外では、春の日差しが新しい街並みを照らしている。


約束の日が近づいていた。


第九章 訪れた元婚約者


白薔薇が満開になる三日前。


アルヴェリアの国境門に、一台の馬車が到着した。


豪華な装飾は傷つき、王家の紋章にも泥がついている。


馬車から降りたのはアレクシスだった。


かつての華やかさは消え、頬はこけ、金色の髪も乱れている。


「リディアに会わせてほしい」


門衛は槍を構えた。


「リディア院長は多忙です。面会の約束がない方を通すことはできません」


「私はローデリア王国の王太子だぞ!」


「ここはアルヴェリアです」


アレクシスの顔がゆがむ。


それでも彼は怒鳴らなかった。


怒鳴れば何も得られないと、ようやく学んだのかもしれない。


「頼む。話をするだけでいい」


知らせを受けたリディアは、面会を許可した。


再会の場所に選んだのは、公爵邸ではなく医療院の応接室だった。


アレクシスは扉を開けると、立ち上がったリディアを凝視した。


「久しぶりだな」


「お久しぶりでございます、アレクシス殿下」


リディアは簡素な青い仕事着を着ていた。


宝石はなく、化粧も薄い。


それでもアレクシスには、王都にいた頃より美しく見えた。


当時のリディアは、いつも張りつめていた。


今の彼女は穏やかで、自信に満ちている。


自分が彼女から奪っていたものが何だったのか、アレクシスは初めて理解した。


「座ってもいいか」


「どうぞ」


二人は卓を挟んで向かい合った。


「ローデリアの状況は存じております」


リディアが先に切り出した。


ローデリアでは南部の堤防が決壊した。


農地の四割が水没し、食糧不足は決定的となった。


国王は心労で倒れた。


アレクシスは王太子のまま国政を任されたが、貴族たちは次々と領地へ引き揚げ、中央政府は崩壊寸前だった。


「援助を求めにいらしたのでしょうか」


「ああ」


アレクシスは頭を下げた。


王太子が、かつて追放した令嬢へ。


「食糧を売ってほしい。価格はそちらの言い値で構わない」


「対価を支払えるのですか」


「王家の宝物庫を開放する」


「宝石では民のお腹は満たせません」


「分かっている。それでも、今の私に差し出せるものはそれしかない」


リディアはアレクシスを見つめた。


「なぜ、私のところへ?」


「お前なら、民を見捨てないと思った」


その言葉に、リディアはわずかに眉を寄せた。


「それは信頼ではありません」


「分かっている」


「私の善意を利用しているだけです」


「それも分かっている」


「ならば、なぜ」


「ほかに道がない!」


アレクシスは声を震わせた。


「毎日、人が死んでいる。王宮の門には、子どもを抱いた母親が列を作っている。倉庫には何もない。私は王太子なのに、何もできない!」


拳を握り、涙をこらえる。


「お前ならできた。ずっと、できていた。だが私は、それを自分の力だと思っていた」


リディアは黙って聞いていた。


「謝って許されるとは思わない」


アレクシスは立ち上がり、床へひざまずいた。


「お前を信じなかった。努力を軽んじた。罪まで捏造した。すべて私の過ちだ」


「殿下」


「すまなかった」


それは、リディアがかつて何より欲しかった言葉だった。


婚約破棄の夜なら、心が揺れたかもしれない。


だが今は、静かな気持ちで受け止めることができた。


「謝罪はお受けいたします」


アレクシスが顔を上げた。


「では」


「ですが、元には戻れません」


その顔に、かすかな希望が浮かんでいたことをリディアは見逃さなかった。


「私は食糧支援について、評議会へ提案いたします。医薬品も送りましょう」


「本当か」


「ローデリアの民に罪はありません」


「ありがとう、リディア」


「ただし、条件があります」


リディアは書類を差し出した。


「王家の会計記録をすべて公開すること。食糧は王家ではなく、各都市の救援所へ直接配送すること。配給はアルヴェリアと帝国の監査官立ち会いのもとで行います」


「受け入れる」


「もう一つ。アレクシス殿下は王位継承権を放棄してください」


アレクシスの動きが止まった。


「それが、条件か」


「はい」


「私を信用できないから?」


「違います」


リディアは首を振った。


「今の殿下なら、以前より良い政治ができるかもしれません。ですが、王位は失敗を償うための場所ではありません」


「……そうだな」


長い沈黙の後、アレクシスは書類を手にした。


「分かった。放棄する」


「よろしいのですか」


「私は王になる資格が欲しくて、王太子としての責任を果たしたかったわけではない」


自嘲するように笑う。


「責任を果たしていると思われたかっただけだ。そんな者が王座に座るべきではない」


アレクシスは署名した。


今度は、書類を最後まで読んでから。


「ミアはどうなりましたか」


リディアが尋ねる。


「裁判で五年の労役刑を受けた。神殿の治療施設で働いている」


「そうですか」


「最初は逃げようとした。だが最近は、患者の世話を覚えたらしい」


「いつか、自分の過ちと向き合えるとよいですね」


「お前はミアを恨んでいないのか」


「恨んでいないと言えば嘘になります」


リディアは素直に答えた。


「ですが、彼女を憎み続けるために時間を使うのは、もったいないと思えるようになりました」


アレクシスは目を伏せた。


「強いな、お前は」


「いいえ」


リディアは微笑んだ。


「強く見せる必要がなくなっただけです」


面会を終え、アレクシスは扉へ向かった。


そこで一度、振り返る。


「リディア」


「はい」


「幸せか」


彼女は迷わなかった。


「とても」


アレクシスは寂しげに笑った。


「そうか」


それだけ言って、部屋を出ていった。


彼が去った後、廊下の柱の陰からセドリックが現れた。


「盗み聞きは感心いたしません」


「護衛だ」


「扉に耳を当てる護衛がいるとは知りませんでした」


セドリックは気まずそうに視線をそらした。


「復縁を迫られたら、追い出すつもりだった」


「迫られませんでしたよ」


「少し期待していた顔だった」


「よく見ていらっしゃいますね」


「当然だ」


セドリックはリディアの顔をのぞき込んだ。


「大丈夫か」


リディアは胸に手を当てた。


痛みはなかった。


過去が消えたわけではない。


けれど、もう過去に縛られてはいない。


「はい。大丈夫です」


「なら、仕事が終わるまで待っている」


「今日は夜までかかります」


「構わない」


「三日後ではないのですか」


白薔薇が満開になる日。


約束の一年が終わる日だ。


セドリックは表情を引き締めた。


「三日後にもう一度聞く。今日のこれは、そのための準備だ」


「どんな準備です?」


「お前の好きな菓子を調べる」


「一年あったのに、まだ調べていなかったのですか」


「薬草茶は知っている。菓子は情報が多すぎる」


リディアは笑った。


「では、仕事が終わったら一緒に選びに行きましょう」


「いいのか」


「はい」


答えると、セドリックは少年のように笑った。


第十章 白薔薇の誓い


三日後。


国境の庭園では、白薔薇が満開を迎えていた。


一年ぶりに同じ場所へ立ったリディアの前で、セドリックは片ひざをついた。


軍服ではなく、黒い正装を身にまとっている。


「リディア・フォン・アルヴェイン」


彼は小さな箱を開いた。


中にあったのは、豪華な宝石ではない。


銀色の指輪に、小さな青い石が一つ埋め込まれている。


ガルム鉱山で採れた青晶石だ。


「約束の答えを聞かせてほしい」


リディアは一年を振り返った。


自分の意思で仕事を選び、自分の判断で人を助けた。


失敗もした。


新薬の調合を誤り、十日分の材料を無駄にしたこともある。


患者の家族に責められ、泣いた夜もあった。


そのたび、セドリックは答えを押しつけず、ただ隣にいた。


必要な時だけ手を差し出し、リディアが自分で立ち上がるのを待ってくれた。


「セドリック様」


「はい」


「私は今後も、薬師として働き続けます」


「もちろんだ」


「アルヴェリアを離れるつもりもありません」


「帝国とアルヴェリアの間に、新しい公道を整備する」


「学術院を作りたいのです」


「予算を確保しよう」


「まだ何も説明しておりません」


「説明を聞いてから金額を決める」


リディアは笑った。


「私が無茶をしたら、止めてくださいますか」


「ああ」


「あなたが無茶をしたら、私も止めます」


「努力する」


「努力では足りません」


「分かった。約束する」


リディアは手を差し出した。


「それでは、私をあなたの伴侶にしてください」


セドリックが指輪をはめる。


指輪は驚くほど、リディアの指になじんだ。


立ち上がったセドリックに抱きしめられる。


白薔薇の香りと、彼の温もりに包まれた。


「愛している」


耳元で告げられ、リディアも腕を回した。


「私も愛しています」


庭園の入り口から歓声が上がった。


隠れていた父、皇帝、薬師たち、兵士たちが一斉に姿を現す。


「お父様!」


「私は止めたのだが、皇帝陛下がどうしても見届けると」


「未来の娘が承諾する瞬間を見逃せるものか!」


皇帝が豪快に笑う。


セドリックは頭を抱えていた。


「いつからいたのですか」


「お前がひざまずく前からだ」


「最初からではありませんか」


「心配するな。途中で断られた場合は、全員で慰める準備もしていた」


兵士たちが酒瓶を掲げる。


リディアは笑いをこらえきれなかった。


完璧な求婚ではない。


けれど、これでいいと思った。


これほど多くの人に祝福され、笑い合える未来を、かつての自分は想像もしていなかった。


終章 悪役令嬢と呼ばれた女の幸福


リディアとセドリックの結婚から五年が過ぎた。


二人は帝国とアルヴェリアの国境に館を構え、季節ごとに両国を行き来して暮らした。


リディアが設立した国境学術院には、身分を問わず学生が集まった。


灰斑熱の治療薬は改良され、より安価に製造できるようになった。


さらに研究の過程で、新しい解毒薬や熱病の治療法も発見された。


学術院の正門には、リディアの言葉が刻まれている。


「知識は、誰かを見下すためではなく、誰かを助けるためにある」


ローデリア王国は王政を廃止し、諸侯会議による統治へ移行した。


王位継承権を放棄したアレクシスは、南部の復興官として働いている。


最初の数年は反発も大きかった。


だが彼は逃げなかった。


泥にまみれて堤防を築き、農民の声を聞き、失敗すれば謝罪した。


かつての傲慢さは消えていた。


二度とリディアの前に現れることはなかったが、年に一度、学術院へ匿名の寄付が届いた。


差出人は記されていない。


リディアも、詮索しなかった。


ミアは刑期を終えた後も、神殿の治療施設に残った。


聖女の力はなくとも、彼女は患者を笑顔にすることができた。


最初は褒められたい一心だった。


しかし、世話をした老女から「ありがとう」と言われた日、自分の手で誰かを助ける喜びを初めて知ったという。


もちろん、過去の罪が消えるわけではない。


許さない者もいる。


それでも彼女は、許されることを要求せず、働き続けた。


ある春の日。


リディアは学術院の庭で、薬草の苗を植えていた。


「母上!」


五歳になる娘のエレナが走ってくる。


銀色の髪と青い瞳を持ち、好奇心旺盛な子だ。


「走ると転びますよ」


言ったそばから、エレナは石につまずいた。


地面に手をつき、しばらく黙る。


泣き出すかと思ったが、彼女は自分で立ち上がった。


「痛くないです!」


ひざから血が出ている。


「強がらなくていいのですよ」


リディアは娘を抱き上げた。


「痛い時は痛いと言ってよいのです」


「でも、皇女は強くなくちゃいけないって」


「誰が言ったのです?」


「お父様です」


ちょうど庭へ来たセドリックが足を止めた。


「私は、強くなれとは言ったが、泣くなとは言っていない」


「同じです!」


「違う」


「同じ!」


親子の言い合いに、リディアは笑った。


「まず傷を洗いましょう」


治療室へ向かおうとすると、エレナが母の首へ抱きついた。


「母上は、昔、悪役令嬢だったのですか?」


リディアは目を瞬いた。


「誰から聞いたのです?」


「学校のお友達です。母上は悪い王子様に追い出されたって」


セドリックの眉間にしわが寄る。


「その子の名前は」


「子どもの話ですよ」


リディアは夫をたしなめた。


「でも、母上は悪い人じゃありません」


エレナは真剣な顔で言った。


「ありがとうございます」


「どうして悪役令嬢って呼ばれたんですか?」


リディアは少し考えた。


「誰かにとって都合の悪いことを言ったからでしょう」


「都合の悪いこと?」


「間違っていることを、間違っていると言ったのです」


「それは悪いことですか?」


「いいえ。ただ、正しいことを伝える時には、相手の心を考える必要があります。それを、母上も後から学びました」


リディアは娘の髪をなでた。


「けれど、誰かに悪者と呼ばれたからといって、本当に悪者になるわけではありません」


「じゃあ、どうすれば分かりますか?」


「自分が何をしたかを振り返ること。そして、自分を大切にしてくれる人の言葉を聞くことです」


エレナは父を見た。


「父上は母上を大切にしていますか?」


「世界で一番大切にしている」


即答だった。


「私よりも?」


「同じくらいだ」


「ずるいです」


エレナが頬を膨らませる。


セドリックは娘をリディアの腕から受け取った。


「治療室まで競争するか」


「父上は走っちゃ駄目です!」


「なぜだ」


「大人だからです!」


「大人は走ってはいけないのか」


「はい!」


「初めて聞いた」


言い合いながら歩く二人の背中を、リディアは追いかけた。


庭には白薔薇が咲いている。


風に乗った花びらが、明るい空へ舞い上がった。


かつてリディアは、王太子妃になれなければ人生は終わると思っていた。


婚約を破棄されれば、名誉も未来も失うのだと。


だが実際に終わったのは、自分を縛っていた古い物語だけだった。


悪役令嬢として断罪された夜。


あれは不幸の始まりではない。


リディアが自分の人生を取り戻した、最初の夜だった。


「リディア」


振り返ったセドリックが手を差し出す。


「置いていくぞ」


「今、参ります」


リディアはその手を取った。


誰かに命じられたからではない。


王妃になるためでも、家の期待に応えるためでもない。


自分が選んだ人と、自分が選んだ道を歩くために。


三人の笑い声が、白薔薇の庭に響く。


悪役令嬢と呼ばれた女は、もう誰かの物語の脇役ではなかった。


彼女は自分自身の物語の主人公として、末永く、そして誰よりも幸せに暮らした。


完

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