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隣の声

掲載日:2026/04/20

 君が来てから、書けるようになった。


 君は何も言わない。最初から、言わなかった。来た日も「お邪魔します」を言わない。靴を脱いで、上がって、俺の部屋の隅に座った。それだけ。俺は「お茶飲む?」と聞いた。君は頷いた。それだけのやり取りで、君がこの部屋に住むことが決まる。


 俺は小説を書いている。書いている、というのは、書こうとしている、に近い。三年前にデビューして、二冊出して、三冊目が書けない。一行も書けない。書いては消し、書いては消し、それで二年。担当編集の連絡は半年前から月に一度になった。心配しているのか、諦めているのか、わからない。


 君と知り合ったのは去年の冬。図書館だった。俺の二冊目を読んでいる人がいて、それが君だ。声をかけたのは俺の方だった。「それ、面白いですか」君は本から顔を上げて、少し考えて、頷いた。それで終わり。次の週、同じ席で会った。君はまた俺の本を読んでいた。今度は一冊目。俺は隣に座った。何も言わなかった。君も何も言わない。一時間くらい、二人で黙って本を読む。本を読んだのは君で、俺は読んでいるふり。その次の週、俺は「うちに来る?」と言った。君は頷いた。


---


 君は喋れる。


 それは知っている。最初の日、お茶を渡したとき、君は「ありがとう」と言った。声は普通だった。少し低めの、落ち着いた声。それから、君は喋らない。喋れるのに、喋らない。理由は聞かなかった。聞かない方がいいと思った。


 君がうちに来てから、二週間で、俺は三十枚書いた。二年間一行も書けなかったのに。書いている間、君は隣の部屋で本を読んでいる。本のページをめくる音が、俺の部屋まで聞こえる。その音が聞こえると、書けた。


 君は俺の書いたものを読まない。最初の頃、俺は書き上げた原稿を君に渡そうとした。君は受け取らない。首を横に振る。それから、俺のノートパソコンを指差して、それを閉じる動作をした。読まない、という意味だった。「読まないの?」君は頷く。「なんで」君は答えない。俺は少し考えて、それでいい、と思った。君が読まないからこそ、俺は書けるのかもしれない。


 君は料理をする。来た翌日に冷蔵庫を開けて、しばらく見て、扉を閉めて、財布を持って出かけた。買い物袋いっぱいの食材を持って帰ってきて、夕食を作る。味噌汁。ご飯。卵焼き。ほうれん草の胡麻和え。鯖の塩焼き。全部、俺が中学生の頃に母親が作っていたものと同じだ。母親は十年前に死んでいる。俺は何も言えなかった。食べた。食べながら、何度も鼻を啜った。風邪かな、と思った。違う。君は黙って自分の分を食べていた。


 君のことを、俺はほとんど何も知らない。名前は知っている。年齢は知らない。仕事をしているかも知らない。家族がいるかも知らない。聞いてもいいのかもしれない。聞いたら、君は答えるかもしれない。でも俺は聞かなかった。聞いた瞬間に、君がここからいなくなる気がする。


---


 春が来た。


 俺は百枚書いていた。担当編集に「書けてます」と連絡した。編集が驚いていた。「読ませてもらえますか」「もう少し待ってください」君に「百枚書けたよ」と報告する。君は本から顔を上げて、少し笑った。それだけ。「おめでとう」とも「すごい」とも言わない。少し笑って、また本に戻る。俺はその「少しの笑い」を、もう何度も思い出している。


 夏になった。俺は二百枚書いていた。君は変わらない。隣の部屋で本を読んで、料理を作って、洗濯をして、たまに散歩に出る。散歩から帰ってきた君の頬が少し赤いと、俺は嬉しかった。なぜ嬉しいのかはわからない。わからなくてもいい。


 ある夜、寝る前に、君が俺の部屋のドアをノックした。君がノックするのは初めてだ。俺は「うん」と返事をする。ドアが開いた。君が立っていた。手に、紙を一枚。差し出された。受け取った。書いてあった。短い文章。君の字。


 「書き終わったら、私は帰ります」


 俺は紙を持ったまま、君を見た。君はこっちを見ていた。何も言わない。俺は何か言おうとした。何も出てこない。君は少し頭を下げて、ドアを閉めた。


 その夜、眠れなかった。書き終わったら、君は帰る。君は最初から知っていた。俺がいつか書き終わることを。書き終わったら自分が帰る場所に戻ることを。「住む」と思っていたのは俺だけだ。書き終わらなければいいのか、と考えた。書き終わらなければ、君はずっとここにいる。でも書かなければ、君が来てくれた意味がなくなる。どうすればいいのかわからない。わからないまま、夜が明けた。


 書き続けた。書き続けながら、書く速度を少しずつ落とした。一日五枚を四枚に。三枚に。二枚に。君は気づいていた、と思う。でも何も言わない。本を読んで、料理を作って、洗濯をして、散歩に出る。いつもと同じ。俺は卑怯だ。書かないで君を引き止めるのは卑怯。書き終わって君を帰すのも卑怯。どっちにしても卑怯。卑怯なまま、秋になる。


---


 ある朝、目が覚めたら、君が玄関に立っていた。


 小さい鞄を持っている。来た日と同じ鞄。


「……行くの?」


 君は頷いた。


「俺、まだ書き終わってないけど」


 君は少し笑った。少しだけ。その笑い方を、俺は知っている。春に「百枚書けた」と言ったときの笑い方。


 君が口を開いた。


「書き終わるよ」


 声が聞こえた。久しぶりに、君の声。低めの、落ち着いた声。「ありがとう」と言ったとき以来。


「書き終わる。私がいなくても。あなたはもう、書けるから」


 俺は何も言えなかった。


 君は玄関に立ったまま、続ける。


「私がいたから書けたんじゃない。あなたはずっと書ける人だった。書けないと思っていただけ。私はその思い込みを、隣で剥がしただけ」


「……」


「だから、もう大丈夫」


 君は靴を履いた。ドアを開けた。外は秋の朝だった。空が青い。


「最後にね」


 君は振り返らずに言った。


「私が話さなかった理由、聞かないでくれてありがとう」


 ドアが閉まった。部屋に俺だけが残った。


---


 机に向かった。パソコンを開いた。書いた。書けた。君が言った通り。書けた。


 でも一行書くごとに、隣の部屋でページをめくる音が、聞こえないことを確認していた。確認するたびに、書く手が少し止まる。止まっても、また書く。


 三冊目を書き終わった。冬だった。担当編集に原稿を送って、返事が来て、出版が決まる。本ができた。書店に並んだ。サインをした。読者が読んでくれた。感想が届いた。君からは何も来ない。


 本の見本が届いた日、俺は一冊を持って図書館に行った。君と最初に会った場所。同じ席に、君はいない。当たり前だった。一年も経っていた。司書の人に本を預けた。「あの、これ、寄贈なんですけど」「ありがとうございます」「……ここで、よく女性が本を読んでいたんです。一年くらい前。低めの声の人」司書の人は少し考えて、首を横に振った。「すみません、わからないですね」俺は頷いた。本を置いて、図書館を出る。空は青かった。秋に君が出ていった日と、同じ青さ。


 君は今、どこにいるのか。話しているのか、まだ話さないのか。俺は知らない。聞かなかったから知らない。聞けばよかったのかもしれない。聞かなかったから君は来てくれたのかもしれない。


 俺は今も書いている。四冊目を書いている。書ける。書けるようになった。


 ただ、書きながら、ときどき耳をすませる。隣の部屋でページをめくる音が、聞こえないことを確認する。


 聞こえないとわかってから、もう一行、書く。

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