第八話
それからどれくらいの時間が経ったろう。ひと月か、それともふた月かな? 部屋にこもって作曲に没頭している僕に時間の感覚はない。昼夜すら問わず、起きて、疲れて寝るまで、ひたすら作曲、作曲、作曲だ。
警戒していたグロリアは僕を手中に収めて満足なのか、時折顔を出すだけで他にちょっかいをかけてくる様子もない。
ひたすら平坦で、平穏で、くそつまらない毎日だ。
そんな僕の気分が影響してか、出来上がる音楽もくそつまらないものだった。こいつはもうしょうがない。天才でない僕は結局、その時々のメンタルが作品にめちゃくちゃ影響するんだ。だからスランプにもなったし、セデュのおかげで、克服することもできたのだし。…。
セデュのことを考えると苦しくてたまらないから、めったに思い出さないようにしている。
発作的に泣き叫んで暴れまわりたくなることもあるけど、なけなしの理性で押しとどめている。
自我崩壊を起こすのはまだ早い。せめてあいつの映画のための曲だけは、完成させないと。
そう思って頑張ってはいるのだけど、くそつまらない曲の数々だけは、如何ともしがたい。どうしたもんだろうか。
最新式の電子ピアノに突っ伏してうんうん唸っていると、数日ぶりにグロリアが顔を出した。
「よくないわねえ、あなたの曲。どうしちゃったの?」
スコアを眺めての率直な感想に、僕は彼女をじとりと睨みつける。
「誰のせいだと思ってるのさ。こんなところに閉じ込められて、自由もなくて、僕の才能が羽ばたけないよ」
「そうねえ、今から別の作曲家に頼むのもちょっと面倒そうだし。あなたに羽ばたいてもらわないとねえ」
「じゃあ出してよ。ここから。だーしーてーよー!」
地団駄を踏むとふかふかのマットに足の裏が埋まる。彼女は彼女なりに、僕が快適にすごせるように気を遣ってくれてはいるのだ。方向性が明後日の方向にぶっ飛んでいるだけで。いやそれが問題なんだけれども。
「そうねえ、じゃあ、今夜、一緒に行きましょうか」
「え? どこに」
「撮影現場。いとしのセデュイールにも会えるわよ」
がたりと思わず腰を浮かす僕を面白そうに眺め、
「ただね、遠くから見るだけよ。逃げたりしたらどうなるか、わかっているわよね?」
獲物をいたぶる猫のように、彼女は言ったのだった。
黒服に囲まれた車内で、僕はそわそわ落ち着かない。グロリアは先に現場に向かい、目立たない作業服に着替えさせられた僕は裏口からこっそり、撮影現場に侵入した。もちろん両側には監視付きだ。ともあれ、ここにセデュがいるのだ。僕は急くような気持ちでセットの合間を縫って、ライト輝く舞台を目指す。
あっと、声に出すことはできなかった。
何台ものカメラに囲まれて、暗闇にぽかんと浮かびだしたような、18世紀を再現したセットに、彼がいた。
襞飾りのある、紫紺の時代がかった衣装すら完璧に着こなして、気品あふれる佇まいで、傍らの女優さん(ダイアナだ)を熱っぽく見つめている。
ほかに何も目に入らないかのように、女優さんを口説く彼の横顔を見ていたら、なんだか涙が滲んできた。
生きててよかったなア、なんて大げさな感想も浮かぶ。
顔が見られてよかった。元気そうでよかった。なんだかそれだけで、僕もまだまだ生きていける。
まだまだ、彼のために働ける。
ごしごしと顔を擦って、恥ずかしまぎれ、黒服の男たちに「ちょっとトイレ」と断って駆け出す。律儀についてくる黒服の男たちがなんだかおっかしくって、笑い声が出そうになって、噛み殺す。
緊張感のつづく現場では、僕の姿には誰も気づかなかったみたいで、ほっとする。またこんなふうに、屋敷を抜け出して、彼の姿を見に来られたらいいな、なんて、ぼんやりと考えて、見上げた個室の窓に、僕はひらめいた。
小さい窓だったけれど格子は嵌っておらず、屈めば人ひとりくらいは余裕で通れる。
悲しいかな、身体の堅い僕はちょっと肩が閊えたけれど、なんとか抜け出して地面に降り立つ。
さあ自由だ、見つからないうちに探検しよう。もう一度、彼のいるところに戻ってもいいかな。声をかけることはできないけど、眺めるくらいなら、グロリアも文句は言わないだろう。帰るときに彼女に擦り寄って甘えれば、逃げ出した判定にもならないはずだ。ヨシ!
なんだかんだ図太い僕はチョコマカとセットの中を歩き回る。重厚な白亜のセットの他に、修道院を模したセットもある。うすぐらい天井にきらめくステンドグラスが壮麗だ。すっげえ、いくらくらいかかってるのかな、なんて観光気分で歩いていた僕は、不意に横から伸びてきた腕に掴まれた。
やばい、もう見つかった、と黒服のいるはずの隣を見やれば、そこには彼がいた。
何度も、明け方の夢に現れては僕を苦しませた、セデュがいた。
「やあ、ひさしぶりだね。君の現場、見に来たよ。すごいねえ、セットとか、金かかってるって感じする。君の衣装もすげえなあ、その服が似合う現代人、なかなかいないよ。タイムスリップしてきたお貴族様みたいだ。いやーお見事お見事。それじゃ」
一方的にまくし立てて立ち去ろうとする僕を彼の腕が留める。というか、彼が腕を離してくれないので、僕は身動きができない。
「はなしてくれない、かな? 痛いんだけど」
無言のままぎりぎりと力を籠める彼に、眉を顰めてつぶやくと、夢から醒めたように、ぱっと手が離される。
「すまない、怪我はないか」
「だいじょーぶ。どこも悪くない。いたって健康体さ」
「それなら、よかった…」
18世紀の衣装とメイクのまま、現場を抜け出してきたのだろう、彼が俯く。きらびやかな彼と薄汚い作業服の僕とでは、住む世界が違うのが一目でわかる。まるで現代の風刺画みたいだぜ。嫌になる。
「今まで、どこにいた」
「マチウから聞いていない? ちょっと環境を変えたくなってさ。作曲のほうは捗ってるよ。もうすぐ完成だ」
「…曲のことは、いい。心配していない。私が言いたいのは、その…」
口ごもる彼は必死に言葉を探しているようだ。シナリオのセリフならあんなにスラスラと出てくるのに、相変わらず、彼はきまじめで、不器用らしい。
「考えたんだけどさ、やっぱり僕たち、一緒にいないほうがいいと思うんだ。今回のことだけじゃなくてもさ」
僕は僕の、泥に汚れたスニーカーに目を落とす。こいつは誰のものなんだろう。少なくとも僕のものじゃない。あの黒服の、誰かの私物かな?
「君は仕事が忙しいだろうし、僕だって忙しいし。それにやっぱり、よくないだろう? 僕のイメージに引き摺られて、君まで悪く言われるのはさ…」
「そんなことは気にしない」
「君がしなくても、僕が気にするの。君の足を引っ張りたくない。わかんないかなあ、ちょっと冷静になって考えてみなよ」
「本当のことを言ってくれ」
僕の肩に置いた、彼の手が震えているのを感じる。何かを恐れるように、待ち望むように、見つめてくる彼の目を感じる。
僕の耳朶にピアスはもう嵌っていない。屋根裏部屋の引き出しにしまいこんで、そのままだ。
いつまでも、彼の思い出に縋るのもつらくなるばかりだから、外してしまったんだった。
「僕はもう君とはいられない。さよならだ」
彼の目を見られないままつぶやくと、肩から彼の手が離れていく。
離れないでと、思ってしまって、見上げると彼の目と目が合った。
「お前は今、幸せでいるのか?」
泣き笑いのような顔で彼が言う。ちかちかと、彼の瞳にライトが反射して、それがひどく不安定に、揺れているように見える。
僕は頷く。だって、他にどうしようもない。
「しあわせだよ。最高にしあわせだ!」




