第七話
広場で酔い潰れているマチウを叩き起こし、プールに飛び込んで熱狂するセレブたちを後目に、帰りの車に乗る。
ひどい衝撃を受けた後みたいになんだか頭の芯がぼんやりして、うまく思考が纏まらない。
帰り際に見渡した広間に、セデュの姿はなかった。
もしかしたら、女優さんにお持ち帰りされちゃったかな? 僕よりも輪をかけて酒に弱いセデュのことだ、酔わされたらでろでろになっちゃって、なんでもされちゃうかもしれない。
……。
まあいいか、あいつも成人男子だ。自分でなんとかするだろう。
僕に一切手を出してこないせいで、相当たまっているだろうし、グロリアみたいな女郎蜘蛛が相手でないなら――それこそ、ダイアナみたいなカワイイ子が相手なら、一発きめてこいよって感じだ。
…これはやせ我慢じゃない。決して。
………。
もういいや、今夜はいろいろありすぎて、作曲する気も起らない。
ホテルに帰り着いたらベッドに直行して、寝てしまおう。それが一番いい。
無意識に耳朶のピアスを弄っているのに気づいて、僕は手を下ろす。
僕にはもう、明るい未来なんて思い描けなくなっていた。
翌日、セデュと顔を合わせないままに、約束の時間になった。
朝帰り程度なら許してやろうと思っていた僕だが、女優さん? の家なりホテルなりにしけこんでそのまま出勤とは、呆れて言葉も出ない。どんだけたまってたんだよ。僕には手を出してこなかったくせにさあ!
…まあでも、顔を合わせたところで何と声をかけたらいいかもわからないんだから、逆によかったのかもしれない。
「昨夜はお愉しみでしたね」「女の子の味はどうでしたか?」「やっぱり女の子のほうがいいんですか?」「なんで僕をそばに置いたんですか?」
…ダメだ。どうやっても彼を責めることになる。
あんまり重い男にはなりたくない。彼がまだ僕といてくれるなら、笑って受け流すしかない。
ああしんどい。恋をするって、なんて苦しいんだろう。
グロリアの屋敷は、ロスの高級住宅街にあった。敷地面積ウン万平方メートル、鬱蒼と茂る木々に囲まれた、中世の城のような佇まいだ。
ジーンズにTシャツの軽装でタクシーで乗り入れた僕は圧倒されたまま、ゴージャスな部屋部屋を通って彼女のいる広間に案内される。
ロココ調の家具が並ぶ無駄に豪奢な部屋にはシャンデリアが下がり、各部屋にでかい図体の黒服が控えている。
おそらくは彼女のボディガードだろう。セレブというのはいつ命を狙われるかわからない職業なのだ、たぶん。一方、無防備すぎるセデュに思いを馳せていると、最後の扉を開いたメイドが僕を通し、そのまま無言で下がっていった。
天井まである窓には、金の装飾を施された赤いモスリンのカーテンが下がる。
暖炉のマントルピースの上には金の時計が14時を指していた。
ローテーブルの前のソファに坐したグロリアは革装丁の本から顔を上げ、眼鏡を外してほほ笑む。
「時間ぴったりね。ずいぶんいい子になったこと」
「君に脅されたから仕方なく来てやったよ。それで、僕は君の靴でも舐めればいいのかな?」
「靴なんて。あなたの舌はもっと有意義なことに使って頂戴」
「たとえばどんな風に?」
「そうねえ、とりあえずは…」
グロリアは立ち上がる。ピンク色のガウンを纏ったその下は、真っ裸らしい。好色な彼女にどんな無理難題を課されるか、暗澹たる思いで待つ僕の前に立ち、グロリアはローテーブルから取り上げた受話器を渡す。宝石でごてごてと装飾されたそれは、おもちゃみたいに見える。
「…?」
怪訝な顔で見返す僕に、グロリアはにんまりと笑って告げる。まるで女王の宣告のように。
「あなたのマネージャーに連絡なさい。荷物はすべてこちらに運ぶように。音響機材もなにもかも」
「…それって、どういうつもりだい。僕とセデュを引き離そうっての?」
「なんでもすると言ったわよね? 出来なくて?」
「僕は君に閉じ込められることに同意した覚えはない」
「いいのよ。私は別に。あなたが嫌ならここで帰ってもいいわ。ただね、玄関にたどり着くまでに、一体何人の男がいたかしら。あなた数えていて?」
「暴力で従わせるつもりかい」
「暴力なんて。つまらないわ。それよりもーっと愉しいこと。部屋ごとにいる男たちに、順番にレイプされたら、あなたはいつまで正気を保てるかしらね?」
…やっぱり彼女はばけものだ。
ゾッと身を竦める僕に女神のように微笑んで、彼女は言うのだ。
「ここにいなさい、私の狼さん。それが一番いいのよ。あなたにとっても。あのひとにとっても」
その日のうちに僕の荷物を運び込んだマチウは、豪奢な部屋の装飾にびびりつつ、音響機材をコードに繋ぐ。
まるごと僕の作曲用にと提供された部屋はその広さに反して、小さい窓がひとつきりだ。
中庭のプールがはるか下に見える。まるでラプンツェルにでもなった気分だ。
「大丈夫、なんですか、ムッシュ…」
「へーきへーき。環境が変わったってだけさ。作曲はちゃんとやるよ」
「そういうことではなく…」
もごもごと言いづらそうに口ごもり、マチウは僕の顔色を窺う。
もともとは君が酔い潰れて僕を放置したせいなんだぜ、なんてのは、八つ当たりでしかないから言わない。
僕が芸能界に復帰する以上、過去はどうしたってついてまわる。
遅いか早いかの違いだけだ。思っていたより、それがちょっぴり、早かったというだけ。
「ここにいることは、セデュには黙っていてくれ。乗り込んで来られても困るしさ。映画がきちんと撮り終わるまで、彼女と揉めたくもないし」
「…ムッシュ・レヴォネには、何と言えば…」
「気まぐれ起こして出奔したとでも言っておいてよ。天才にありがちな蒸発癖ってやつさ。ハクがつくだろう?」
「…伝言は、よろしいのですか」
「ん。元気でやってるって伝えて。なんとか生きてるから心配しないでって。それだけでいいや」
セデュと一緒にいた日々が、なんだか夢だったみたいな気がしてくる。僕の幸福を煮詰めたみたいな、長くて短い夢。
彼の指先を思い出しながら、耳朶のピアスに触れる。
たしかに彼にもらったこいつだけが、僕の奇跡の証明だった。




