第六話
ともあれ、セレブ達は思い思いに固まって、僕の入り込む隙もなさそうである。どうしたものか。助け舟を出してくれるはずのマチウを探しに行こうと噴水のそばを通りかかった僕は、ネオンサインに照らされた白い足首が舞うのを見た。
ピンと伸びた足が、チュチュのように透けたスカートからくるりと回り、跳躍する。これは、バレエのバリエーションだ。たったひとりで、俗世間から離れたようにひらひらと舞い続けるお姫様に、僕は見惚れる。やっと着地した彼女は、僕に気付いて、驚いたような顔をした。
「お見事、いいものを見させてもらったよ。君はバレリーナ?」
「いいえ、バレエはもうやめたの」
訥々と語る彼女は、18か、19くらいだろうか。薄紅色の頬がまだひどく幼く見える。勿体ない、と続けようとして、僕はひとつ咳払い。続けられない事情ってもんがあるのかもしれない。それこそ、数年前の僕のように。生きる糧であり、生きる意味ですらあった作曲がまったくできなくなった、あの時の僕のように。
「僕はルーシュミネ・リーヴェ、今度の映画の、音楽を担当する作曲家だよ、よろしく」
「作曲家さん? ずいぶんお若いのね。もっとおじいさんかと思ってた」
「うん、僕は天才だからね。才能があふれちゃってあふれちゃって仕方がないのさ」
「ふふ、私はティーナ・ソレイユ。今度の映画でデビューするの」
「もしかして、セデュイールの相手役の?」
「そう。修道院出たての女の子の役。好きな人がいるのに、むりやりヴァルモン様に貞操を奪われるの」
「ひでえ野郎だな。君はラブシーンとか大丈夫なの?」
「前は見せないわ。背中だけ。そういう契約だから」
「そうはいってもさ。君ってその、経験もなさそうだしさ」
「女の子にそういうこと聞くの、マナー違反じゃない?」
たいして怒ってもいないようにくすくすと笑いながら、噴水に腰かけた足をぶらぶら揺らすティーナは、まだほんの学生みたいだ。魑魅魍魎渦巻く芸能界で、彼女ができるだけ汚れずにすめばいいな、と僕はぼんやり思う。
まだほんの子供で芸能界に放り込まれたあの日の僕を、彷彿とさせるせいかもしれない。
「余計なことは考えないほうがいいかもね。セデュは優しいから、無体なことはしないだろうし」
「セデュイール様のお知り合いなの?」
…しまった。つい気が抜けて、いつもの感じで口にしてしまった。彼の愛称をごまかすように僕は軽く笑う。
「噂で聞いただけだけどね。くそまじめで、かなりのお人よしらしいよ。あと、あんまり女の人に興味ないとか」
「本当? 厳格そうで、なんだかこわそうな方だと思ってた」
うら若き乙女からしたら、天下の色男も形無しだなア。僕はにまにまと頬が緩んでくるのを袖で隠して、「大丈夫だよ」とつづける。
「もしあいつに何かされたら、僕に言ってよ。ぶっとばしてやるからさ」
「ええ、あなた、喧嘩なんてできるの?」
「できるともさ。見えない? この、ここんとこの、力こぶ」
「全然見えないわ」
「おっかしいなア、くそ野郎なら何人でもぶっとばす自信があるんだけどなア」
「ふふ、おもしろいひと」
鈴を転がすような声で笑って、彼女は立ち上がる。
「そろそろ時間だから、行くね。ぜひ撮影に遊びに来て、待ってるわ」
「うん、僕も、また会いに行くよ。できれば君のラブシーンのある日に」
「ふふ、じゃあね」
遠く「ムーンライト・セレナーデ」が響くなか、妖精のように、ジゼルのように、彼女は跳ねるように去っていった。あとには花の香りが残る。まだ幼いのに、香水なんてつけてめかしこんだ彼女に痛ましいものを感じて、僕も立ち上がろうとして――そこで、僕を見つめていたもう一人の女性に気付いた。
「お久しぶりね。またあなたと会えるなんて、うれしいわ」
おっとりとした口調で、彼女は言う。妖艶なたれ目の淵にアイラインが濃く、年齢を隠すためにか厚く塗られた化粧のむせかえるような香りがする。
「やあ、グロリア、ひさしぶり。ご健勝のようで、喜ばしい限りだ」
「お世辞も言えるようになったの。ずいぶん成長したのねえ、あのひとのおかげなのかしら」
「あのひとって、なんのこと」
「しらばっくれなくてもいいのよ、あなたの浅はかなたくらみなんて、全部お見通しなんだから」
黒のスパンコールに包まれた豊満な身体が近づく。差し出されたグラスを、僕は受け取らない。10年前の記憶がフラッシュバックして、ひどく頭が痛い。
「結構だよ。君の手からは、何も受け取らないことにしてるんだ。後が怖いからね」
「まあ、すこしは賢くなったのかしら。でも安心して、毒なんて入れていないから」
ルージュを塗った唇が嘯く。グロリアの壮絶な美貌を見ていると、頭がぐらぐらとしてくる。
彼女もまた、今回のセデュの相手役のひとりだ。メルトゥイユ侯爵夫人、セデュ演じるヴァルモンと結託して、女たちを堕落させる、おそろしい女性の役で、彼女にはぴったりだ。
彼女と僕が初めて会ったのは10年前のことだ。僕のコンサートに来てくれた彼女はひどく感動して、僕をパリの豪邸に招いた。何も知らないバカな僕はひとりで彼女の歓待を受け、美人女優に特別にもてなされる高揚感に酔って、飲酒もした。
ワインに睡眠薬を入れられていたのに気づいたのは翌朝になってからだった。それで、僕の童貞はむりやり彼女に奪われていたってわけ。僕が14の時のことだ。
そのあとも、何度か呼び出されてはずるずると関係をつづけて、僕のスキャンダル(未成年飲酒、二股三股、ギャンブル諸々)が公開されると同時に、ぱったりと音沙汰がなくなったのだ。僕が警戒するのも当然だ。彼女は何をしでかすかわからない、魑魅魍魎の総本山みたいな女だから。
「あのひとに、ずいぶん可愛がられているみたいねえ。でも後ろばっかり可愛がられていたら、前が寂しくなったりしない?」
「何を言っているのかサッパリだ。君、耄碌するにはまだ早いと思うんだけど?」
「いやあね、あっちの話よ。わかっているくせに」
「そういう話しかないなら僕も戻るよ。マネージャーを探さなけりゃ」
「あなたのマネージャーなら広場で酔い潰れていたわよ、ご愁傷様」
「マチウの野郎…」
「あなたにも悪い話じゃあないと思うのだけど? 3人で愉しみましょうよ。あのひと、身持ちが硬くてちっとも落ちなかったのだけど、今はあなたに夢中なのよね?」
「セデュには手を出さないでくれ」
思わず言ってしまった。条件反射というやつだ。蜘蛛みたいにねばつく巣を張り巡らせて舌なめずりする彼女に、頭からバリバリ食われるセデュのことを考えたら、居ても立ってもいられなくなっていた。
僕のセデュだぞ、と付け加えることだけは、どうにか思いとどまった。
「あら、怖い顔。そんな顔もできるのねえ、初めて見たわ」
「…僕にできることなら、なんでもするから。セデュのことは、放っておいて」
「なんでも、ねえ。確かに聞いたわよ。約束ね。裏切ったら、そうねえ、子飼いのブンヤに、あなたたちのスキャンダルをすっぱ抜かせましょうか」
「そんなことしたら、今度の映画だって、どうなるか…」
「宣伝効果は抜群だと思うけど? プロデューサーがそこに気付かないのが信じられないくらい。まあ私には無関係のスキャンダルだから、どちらでもいいのだけれど」
ぐいとシャンパンを呷ったグロリアは朱に染まった目じりで微笑んで、ぽいとグラスを捨て、胸元から取り出した紙片を僕に握らせて、
「明日の14時にね。待っているわ」
と囁いた。




