第十話
夕暮れのはちみつ色に染まった部屋を、僕は歩く。テラスから揺れるカーテンが見える。数か月ぶりに見るセデュの部屋は、とても懐かしいにおいがする。
僕はそれを胸いっぱいに吸い込んで、裸足の足を進める。
脱ぎ捨てられたジャケットやズボンがそのままになっている。いつもは神経質なくらいで、僕の脱ぎ捨てたジャケットも律儀にハンガーにかけるようなあいつなのに。
足元に転がる酒瓶を数えて、10を超えたあたりでやめた。酒に弱くて、いつも自分から進んで飲むようなことはしない彼だ。やっぱりダイアナの言う通り、異常事態なんだろう。
寝室に、まるくなって眠る彼を見つけた。何かを大事に抱きしめているような姿勢だ。覗き込むと、僕が彼に借りてそのまま、酒を零して返品した白いシャツだった。なんだか親に縋る子供みたいな彼がおかしくて、僕は枕元に腰かける。
いつか彼がしてくれたように、黒髪を撫でると、やわらかな手触りだ。
そういえば、こいつの髪に触れたのは、今日が初めてだったかもしれない。
すぐ手の届くところにあると思って、却って今まで触れてこなかったんだ。これは僕の怠慢だった。
彼の輪郭を辿るように撫でていくと、いとおしさが、身体の奥から湧き上がるようで、またちょっと涙が出た。
ごしごしと目元を擦っていると、やっと気づいたのか、セデュの寝ぼけた声がする。
「ルー…?」
「そうだよ。僕だよ」
「幻覚か…?」
「マボロシであるもんかよ。ほら触って、僕ここにいるだろう?」
彼の手を取って引き寄せると、がばりとセデュは跳ね起きた。ぴょこんと立った寝癖がかわいい。いつも僕が起きるころには彼は完璧にセットしてしまっているから、新鮮だ。
「なに、どうして…おまえ、ほんものか」
「本物本物。いやーダイアナに泣きつかれちゃってさ。君がぐだぐだに酔って使い物にならなくなったって。引退するとも言ったんだって? 一体全体どういうわけさ」
「…引退は、撤回しない」
「なんで? 君、いまが絶頂期だろう。稼ぎ時に引退なんて、まあ、伝説にはなるだろうけど…」
「稼ぎなど、どうでもいい。もともと、おまえを見つけるための手段にすぎなかった仕事だ。未練はない」
「…あの口説き文句、本当だったのか…」
「私はお前に嘘はつかない」
「じゃあ教えて。なんで仕事に熱が入らないのさ。どうして飲めない酒に酔ったりするの?」
セデュは何かを耐えるような顔で、すっと押し黙り、血を吐くような声で、一言一言、吐き出した。
「…おまえは、幸せだと言ったろう」
「…言ったね」
「もう、戻っては来ないかと思っていた」
「…」
「…お前がいないなら、仕事をつづけても、意味のないことだ」
「それは、あまりに…無責任なんじゃないか?」
「私はお前の幸せを祈っている。何よりもだいじなことだ。…おまえにとって私は、ただの、よりかかれる凭れ木に過ぎなかったのだろうが、…それでもよかったんだ。…お前が、しあわせなら、そこに私が、必要でないというのなら、私は、身を引くしかない。泣き言は言いたくない。お前に縋りつく、愚かな男でいたくもない。お前が、私に触れられるたび、震えているのを知っていた。知っていて、無視していた。お前が、接触を恐れて、夜に作曲ばかりしているのも、私の、この汚い欲を、恐れているのも、わかっていた。当然の報いなんだ、これは。…だが、お前の、愛する人と、ともにいるのは、私にはこれ以上、…」
「ちょっとストップ」
とめどなく零れ出る、彼の内臓みたいな、真っ赤にただれた独白を、聞いていられなくなって待ったをかける。
どこからだろう? どこから僕らは拗れたのだろう? もしかして、最初からか?
「僕の愛する人って、誰のことを言ってるの」
「…もう一度、お前に会えてよかった。…私を捨てたいと、この際、はっきり言ってくれ。私にお前を、諦めさせてくれ」
「だから、誰のことを言ってるのって聞いてるんだけど。この耳は飾りなんでちゅかー?」
ぶにぶにと頬を抓ると、不本意そうなセデュのまなざしが揺らぐ。
「ティーナを、愛しているのだろう、お前は…」
「え? なんでそう思うの」
「お前は、彼女のもとに去ったのだと…」
あのパーティーの夜も、そして撮影現場に僕が侵入した日も、睦まじく戯れあう僕らに声をかけられなくて、セデュは引き返したのだと言った。とてもお似合いのカップルに見えたと、彼は言った。
「お前は元来、異性愛者だろう…私のそばにいるよりも、お前はひどく、楽しそうだった」
僕が、ダイアナとセデュに対して感じていたことを、彼も感じていたというわけだ。なんだかおかしくなってくる。僕たちはお互い、空回りばかりしている。君のことが好きなのに、それを素直に伝えられないままで。
「泣き言、言ってくれないのかい。僕は聞きたいな、君の泣き言」
だらりと垂れ、僕に触れられないままの彼の手を取って、頬を寄せる。かさかさに乾いた指先に、僕の熱が移ってぬくもる。
きらりと輝く僕の耳朶のピアスに吸い寄せられるように、見つめるセデュに僕は微笑みかけた。
「いかないでって、言ってくれないの。あのときみたいに」
「…。……」
彼の顔がくしゃくしゃに歪んで、震える指が、たしかめるように僕にふれる。
「いかないでくれ、そばにいてくれ。おまえがいないと、おれは、いきていられない」
最後は涙声だった。両腕で隠すように顔を覆って、彼は嗚咽する。僕は我慢できなくなって、彼を抱きしめた。子供みたいに泣くセデュが、いとおしくって、たまらなかった。
「ねえ、セデュ、僕の夢を聞いて! 僕の作った曲を、君が歌うんだ。君のセクシーな声でね、満場の観客の前で…君は恥ずかしいかもしれないけど、僕は聞きたいんだ。僕、君の声が好きだよ。からだの中によおく響いて、心臓がぎゅってなるんだ。あとね、君のかさかさの長い指も、黒髪も、通った鼻筋も、ちょっと神経質なとこも、きまじめで馬鹿正直なとこも、ぜんぶぜんぶ好きだ。大好きだ!」
「ルー、ルー…わたしのかわいいウンディーネ、」
「調子がもどってきたねえ、そうだよ! 君のウンディーネがご帰還さ、ねえセデュ、僕の夢をかなえてくれる?」
ぽろぽろと零れる涙を拭いもせずに笑って尋ねると、腕を解いたセデュがこつんと額を合わせてくる。
お互いにくしゃくしゃの顔で笑いあって、それで僕たちは、仲直りのキスをした。
セデュの腕に抱かれて、ベッドの上で何度もキスしていたら、気づいたら日が落ちていた。
セデュはベッドサイトのランプを灯して、僕をのぞき込む。
「そういえば、きみ、仕事は…」
「しばらくはオフだ。…頭を冷やすようにと、現場から追い返された」
「それでヤケ酒してたのかア。合点がいった」
「…お前を忘れようとして、私なりに、努力した結果だ…」
「あーうん、それは、ほんとにごめん」
何から話したらいいかな、と僕は宙を仰いで、とりあえず、ここ数週間の近況について話し始めた。
僕はずっとグロリアの屋敷にいたこと、セデュとの関係をリークすると脅されて、従うしかなかったこと、それから、セデュには僕よりももっと、相応しい人がいるんじゃないかって、悩んでいたこと。10年前に、グロリアと体の関係をもって、それ以来の付き合いだってことも、洗いざらいぶちまけた。口にしてみると、なあんだって思うくらい呆気ない。もっと早く伝えていればよかった。そうすれば、セデュを苦しめずにすんだのに。
「ちょっと待て、10年前だと?」
「うんそう。僕が14の時だから…」
「犯罪だろうそれは!!!」
「え? あ、そういうことになる…のかな?」
「私たちを脅すどころではない。刑事罰を受けるべき所業ではないか。なんなら法的措置も辞さない。断じて許してはおけない」
「大事にするのはやめてくれよー、君の映画がポシャったら僕の仕事もパアなんだぞー」
「…おまえは、人が良すぎる」
「君には言われたくないけど?」
グロリアのことはそれくらいにして、僕は本題に入る。そう、彼が先ほど口にした、聞き捨てならない単語の数々について、問い詰めずにはいられなかった。
「欲望とかなんとか、言ってたよね? あれってどういうこと?」
「……。言葉通りの意味だが」
「僕はさ、君がちーっとも手を出してこないもんだから、てっきり、男の身体には興味ないのかなーって、思ってたんだけど」
「そんなわけが…ッ」
「わけが?」
「…言葉足らずだった。ちゃんとお前に、伝えていればよかったな。すまない」
「そいつは僕もゴメン。あと、夜に作曲ばっかしてたってのは、その、無意識だった。マジで。ほんとにゴメン」
セデュはまだ涙の後の残る潤んだ瞳で僕を見て、
「ふれてもいいか」と聞いた。
「いいよ、どこでも、お好きなところをどーぞ」
「…あまり煽るな」
ふっと、緩んだ気配がして、おそるおそる彼の指先がふれる。
頬に、顎に、首筋に、肩に、ふれられるたび僕は息を詰め、思わずびくびく震えてしまう。彼が言っていたのは、このことか。こいつも全く、無意識だった。というか、身体の反応なんて制御できるもんじゃないだろう?
「こわくはないか」
「こわくない」
「ほんとうに?」
「ほんとだってば」
「…愛しても、かまわないか」
「………」
僕は至近距離で、彼の目を見る。整いすぎた、憎らしいくらいに愛おしい男の顔を見る。
「好きだから、感じちゃうんだよ、わかれよ、ばか」
セデュは、思いもかけないことを言われたように一瞬きょとんとなって、それからみるみる赤面した。僕の男は、ほんとにウブで、かわいいやつだ。




