第一話
コーヒーの香りが漂って、僕は目覚める。カーテンから斜めに射した日の光が、白いシーツを区切っている。
起き上がって伸びをひとつして、裸足の足をベッドから引き抜く。ジーンズを脱ぎ捨てただけのシャツ姿でぺたぺたとダイニングに向かえば、ピンと背筋を正して眼鏡をかけ、台本を読んでいたらしいセデュが顔を上げる。
「おはよう、ルー」
食卓にはサンドイッチとつやつやのオレンジ、ボウルに入ったサラダにコーヒー、が手つかずで載っている。
「オハヨ。先に食べててよかったのに」
眠い目をこすりつつ席に就けば、台本を伏せたセデュから朝のキスが降ってくる。
「やめろよー、まだ歯も磨いていないよー、顔も洗ってないし」
「どんなお前でもかわいいよ」
「はいはい、朝からご苦労様。シャワー浴びてくるから、僕の分のコーヒーもお願いね」
がたんと席を立ってシャワーに向かう。ランドリーバッグに下着をぽいと投げ入れ、シャツを剥いだ真っ裸でノズルを捻れば冷たい水が噴き出す。水が生ぬるくなるのを待ってぐしゃぐしゃと髪を洗って、顔も体も洗って、ついでに歯も磨いて、洗い立てのようなもこもこのバスローブを羽織ってシャワールームを出る。
ダイニングではセデュが挽きたてのコーヒーを入れて待っている。食事は全部ルームサービスだけど、コーヒーだけは自分で挽いて入れているのは、何かしらの拘りがあるのだろう。
いい香りに頬を緩めつつ席に就くと、給仕よろしく傍らに立ったセデュがカップを置いた。
「ありがと。君は昨夜は遅かったね、何してたの?」
「…打合せだ。9時には帰宅したが、お前は作業中だったな」
「あーそうだった? ごめん、気づかなかったかも」
「かまわない、仕事が最優先だ」
「はいはい、まじめだねえ、相変わらず。今日は遅くなる?」
「昼頃一度戻る。お前がいいなら、その、ランチに出かけないか」
「おっいいねえ、僕ずっと缶詰だったからさ。ハリウッドを案内してよ」
ほっとしたようにセデュが頷く。僕はベーコンとレタスのサンドイッチをもぐもぐしながら、ここ一週間ばかりを振り返る。
僕は今、ロサンゼルスの、ハリウッドにいる。
事務所が取ってくれたホテルに荷物を置いて、彼のホテルに転がり込んで1週間、こいつは、まだ僕に手を出してこない。
驚くだろう? いちおう両想いらしきものになって、そろそろ3カ月になろうというのにだ。キスはもう、数えきれないくらいやったし、今朝もされかけたけど、その、肉体的な接触? というやつが、まったくないのだ。これってちょっとおかしくないか?
ここまで我慢強い、というか、真面目、というか、そんな感じだと、もはや性欲とかないんじゃないか? という疑いすら萌してくる。
こいつのホテルに転がり込んだのはそれが理由だ。浮気でもしてたらどうしようか、という思いもあったし。決して、広くて快適でプール付きのスウィートルームの豪華さに惹かれたわけじゃあない。
ここに来るきっかけは、彼の仕事と僕の仕事がバッティングしたからだ。わかりやすく言うと、彼の出る映画の音楽を、僕が任されることになったというわけ。
いつかはこんな日がくるんじゃないかと期待していたけど、案外早かったオファーに僕は飛び上がって喜んだ。一方、彼は複雑な面持ちだった。
最初のオファーはまず彼に来て、その際は悩んで僕に相談までした。
演技仕事の是非もわからない僕はあっさり「いいんじゃない? やれば」と言ったのだけど。
「濡れ場が多い。キスシーンも」
「多いって言ったってポルノじゃないんだろう。えっポルノなの? それはそれで観たいかも」
「ポルノではない。そういう仕事は端から受けない」
「じゃあ一体何が不満なのさ」
彼に割り当てられたのは、ラクロ『危険な関係』のヴァルモン子爵役だった。いわゆる女ったらしのヒール役だ。身持ちの堅い人妻とか、修道院出たてのウブな乙女とかを誘惑して、関係をもって、ポイと棄てるような、そんなクズの色男だ。映画業界が彼に求めているものがハッキリわかる。離婚してフリーになったばかりで、彼の人気はもはやフランス国内に留まらない。18世紀のフランスが舞台だから、衣装やセットにかなりの資金が必要そうだし、確実に集客が見込める俳優として彼が名指されたのは素直に喜ばしいことだ。
「ラブシーンのことなら僕は気にしないよ。たかが演技だろ。これがジュリアン・ソレルとかなら年齢的にキツイものがあるけど、ヴァルモンならはまり役じゃないの」
「なにひとつ嬉しくないが」
「まあごちゃごちゃ言ってないで、やってみなよ。求められるうちが華だっていうだろう?」
結果的に彼はオファーを受けた。
僕に仕事の話が舞い込んだのはその数日後だった。もしかしたら出演する条件として、彼が裏で手をまわしたのかもしれないけど、真相は知らない。
カラフルなロゴの目立つダイナーはほどほどに混んでいた。場所柄もあるのだろう、芸能人が来店してもスタッフらは黄色い声を挙げるでなく、愛想よくテキパキと対応する。
運ばれたベーコンとレタスとチーズにアボガドの挟まったバーガーはばかでかくて、どういう向きにしても口からはみ出る。
バーガーに苦戦する僕を尻目に、セデュは楚々としたしぐさでクリームたっぷりのパンケーキをナイフとフォークで切り分け、口に運ぶ。がやがやと込み合う店内で、彼のいる場所だけ高貴な雰囲気が漂っている。貴族の血筋を引く彼は、だらしなく椅子に寄りかかったり肩肘ついたりしないのである。僕と違って。
ぽろりと皿にレタスが落ちたのを、摘まみ上げて齧り、指についたマヨネーズもついでに舐める。美味しいけど、大雑把な味だ。パリの食事とは根本からして異なっている感じ。これが旅をする醍醐味でもある。
油じみた指を一本一本舐っていたら、気づけばセデュに凝視されていた。
行儀が悪いとお小言を食らうかと思ったが、彼は何も言わず、咳払いして食卓に常備されているナプキンを手に取る。
差し出されたナプキンで仕方なく指を拭っていたら、ぐいと伸びてきた手が、荒っぽく無造作に、僕の唇をなぞる。
そのまま親指についた油とマヨネーズとケチャップの混ざった汚れをちらりと一瞥してから、セデュは躊躇なく、そいつをぺろりと舐めた。
眉間に皺が寄っているので不本意だったのかもしれないが、あまりに様になっているので口笛を吹きたくなったくらいだ。しないけども。心拍が上がってそれどころではなかったから。真昼間から堂々とこういうことをするんだよな、この野郎。セックスはしないくせにな。
悶々とする僕のかわりに、皿をもって通りかかったウエイトレスが「ギャッ」と珍妙な声を挙げていた。




