第12話 青いインクと重なる指輪
大聖堂に鳴り響いた祝福の鐘の音と、降り注ぐフラワーシャワーの鮮やかな色彩は、数年が経った今でも、瞼を閉じれば昨日のことのように鮮明に蘇る。
私は朝の柔らかな光の中で、ゆっくりと目を開けた。
レースのカーテン越しに差し込む陽光が、部屋の中を白く淡く照らしている。
隣を見れば、規則正しい寝息を立てる愛しい人の姿があった。
ルシウス様──いいえ、夫となったルシウスは、普段の厳格な文官としての顔を解き、無防備な表情で眠っている。
その銀色の髪にそっと触れる。絹のような感触が指先をくすぐり、胸の奥を温かなもので満たしていく。
「……おはようございます、あなた」
声には出さず、口の形だけで囁いた。
私はベッドから音を立てないように抜け出し、ガウンを羽織った。
素足で踏む床の感触は、かつて独りで起きた朝の冷たさとは違い、ふかふかの絨毯に守られた温かさがある。
私は窓際のライティングデスクへと向かった。
そこには、私の日課となっている二つの物が置かれている。
一冊の革装丁の日記帳と、あのロイヤルブルーの万年筆だ。
椅子に座り、万年筆のキャップを外す。
カチリ、という小さな音が、静寂な朝に心地よく響く。
この万年筆は、彼が私に新しい人生をくれた日に贈ってくれたものだ。
数え切れないほどの公文書にサインをし、数え切れないほどの感謝の手紙を書き、そして毎朝、こうして日記を綴ってきた。
ペン先は私の筆圧に完全に馴染み、紙の上を滑るように文字を紡ぎ出す。
『晴れ。庭の薔薇が蕾をつけた。今日は午後から技術局との合同会議。新しい治水プロジェクトの予算案について』
インクが紙に染み込んでいく様を見つめながら、ふと視線を本棚の隅に向けた。
そこには、古ぼけた黒いノートが一冊、背表紙をこちらに向けて眠っている。
あれは、私がアーネストの婚約者だった頃の日記だ。
中身は、「我慢」と「忍耐」、そして「諦め」の言葉で埋め尽くされている。
『今日も約束を破られた』『私が至らないからだ』『もっと頑張らなくては』。
読み返すだけで胸が塞がるような、呪いの記録。
けれど、今私の手元にある日記は違う。
ページをめくれば、そこにあるのは「達成」と「喜び」、そして「愛」の言葉たちだ。
『ルシウスが褒めてくれた』『難しい案件を解決できた』『娘が初めてパパと呼んだ』。
青いインクで綴られた文字は、どれもが私の人生を肯定し、輝かせている。
「……マァマ?」
不意に、部屋の扉が小さく開き、舌足らずな声が聞こえた。
振り返ると、寝癖のついた銀髪を揺らしながら、三歳になる息子が目を擦って立っていた。
ルシウス譲りの灰色の瞳と、私に似た口元を持つ、私たちの宝物だ。
「あら、レオン。もう起きたの?」
私はペンを置き、彼に歩み寄って抱き上げた。
ずっしりとした重みと、ミルクのような甘い匂い。
この温もりが、私が選んだ未来の結晶なのだと思うと、目頭が熱くなる。
「パパ、まだねんね?」
「ええ。昨日は遅くまでお仕事を頑張っていたから。……もう少し寝かせてあげましょうね」
「うん。レオン、シーする」
息子は小さな指を唇に当てて、真剣な顔で頷いた。
その仕草が夫にそっくりで、私は思わず頬が緩む。
「……誰が寝坊助だって?」
ベッドの方から、低く、寝起きの掠れた声がした。
見ると、ルシウスが上半身を起こし、苦笑交じりにこちらを見ていた。
「あ、パパ起きた!」
レオンが私の腕の中で手足をバタつかせ、ルシウスの方へと駆け寄りたがる。
私は彼をベッドの上に下ろした。
ルシウスは大きな腕で息子を受け止め、その柔らかい頬にキスをした。
「おはよう、レオン。……そして、おはよう、エリシア」
彼が私を見上げ、灰色の瞳を細める。
その眼差しに含まれる熱量は、結婚してから数年が経った今も、ちっとも変わらない。
いや、むしろ日々深まっているようにさえ感じる。
「おはようございます、ルシウス。……よく眠れましたか?」
「ああ。君が隣にいてくれるおかげで、毎晩安眠できているよ」
彼はベッドサイドに置かれた眼鏡をかけ、知的な文官の顔に戻りつつ、甘い口調で言った。
「昨夜の夜会は大変だったろう。……君の周りには、いつも人が集まりすぎる」
「それは、筆頭文官補佐としての仕事ですから。それに、あなたの奥方としての務めでもありますし」
昨夜は、王宮で外交使節団を招いた晩餐会があったのだ。
かつては壁際で孤独に立ち尽くしていた私は、今や社交の中心にいた。
各国の要人と会話を交わし、国の政策について意見を求められ、堂々と渡り歩く。
そんな私を、ルシウスは誇らしげに、そして少しばかりの独占欲を含んだ目で見守ってくれていた。
「君が優秀すぎるのも考えものだな。……私だけの補佐官にしておきたいのに、今や国中が君を求めている」
「あら。でも、私が一番お仕えしたいのは、あなただけですよ?」
私が悪戯っぽく言うと、彼は「口が上手くなったな」と笑い、私の腰を引き寄せてベッドに座らせた。
私の左手が、彼の手と重なる。
薬指には、サファイアの婚約指輪と、プラチナの結婚指輪が二重に輝いている。
この重みこそが、私の幸福の質量だ。
「……ねえ、ルシウス」
「ん?」
「私、あの日記を……昔の黒い日記を、処分しようと思います」
ふと、口をついて出た言葉だった。
本棚の隅にある過去の遺物。
それを取っておく必要は、もうない気がしたのだ。
ルシウスは私の視線を追って、本棚の方を見た。
そして、静かに首を横に振った。
「……いや。捨てなくていい」
「え……?」
「あれも、君の一部だ。……君が苦しみ、耐え、それでも折れずに戦い抜いた証だ。あの苦悩があったからこそ、今の強く美しい君がいる」
彼は私の手を握り、指輪の上から親指で優しく撫でた。
「過去を否定する必要はない。……ただ、これからのページを、もっと幸せな言葉で埋めていけばいいだけだ」
その言葉に、胸の奥が震えた。
彼はいつも、私以上に私を肯定してくれる。
私が「間違いだった」「無駄だった」と思い込みそうになる過去さえも、彼は「今の君を作るために必要だった」と抱きしめてくれるのだ。
「……そうですね。分かりました」
私は彼の肩に頭を預けた。
レオンが私たちの間に入り込み、キャッキャと笑い声を上げる。
窓の外では小鳥がさえずり、今日も忙しくも充実した一日が始まろうとしていた。
アーネストのことなど、もう思い出すこともない。
彼が北部の鉱山でどうしているか、風の噂で「過酷な環境だが、ようやく真面目に働き始めたらしい」と聞いたような気もするが、それすらも遠い世界の出来事だ。
私には、私の世界がある。
身支度を整え、私たちは朝食のテーブルを囲んだ。
焼きたてのパンと、香ばしいコーヒーの香り。
ルシウスが新聞を広げながら、今日の予定を確認する。
「午後は技術局へ視察に行く。君も同行してくれ」
「はい。例の治水工事の進捗確認ですね」
「ああ。……君が計算し直した予算のおかげで、資材の質が向上し、工期も短縮できているそうだ。現場の職人たちが、君に礼を言いたがっていた」
「それは良かったです。……現場の声を聞くのが、一番大切ですから」
私はコーヒーカップを置き、微笑んだ。
かつて、机上の空論で現場を苦しめた誰かとは違う。
私は現場を知り、数字の意味を知り、そして人の心を知る文官でありたい。
「……エリシア」
ルシウスが新聞を置き、私を真っ直ぐに見つめた。
朝の光を受けて、彼の銀髪が輝いている。
「君と出会えて、本当に良かった」
唐突な言葉に、私は目を丸くした。
彼は照れくさそうに咳払いをし、カップを持ち上げた。
「君がいなければ、私はただの冷徹な仕事人間で終わっていただろう。……君が、私に色を与えてくれた」
「ルシウス……」
胸がいっぱいになり、言葉が詰まる。
私も同じだ。
彼がいなければ、私は色褪せた世界で、自分を殺して生きていただろう。
彼がくれた青いインクが、私の人生を鮮やかに彩ってくれたのだ。
玄関ホールで、出勤の準備をする。
ルシウスが私の肩にショールをかけてくれる。
私は鏡の前で、自分の姿を映した。
自信に満ちた表情。
背筋の伸びた立ち姿。
そして、左手に輝く二つの指輪。
そこには、かつての「可哀想な婚約者」の面影は微塵もない。
扉を開ける。
眩しいほどの朝日が、私たちを出迎えた。
馬車が待機している。
御者が恭しく扉を開け、私たちは並んで歩き出した。
空を見上げる。
雲ひとつない、澄み渡るような青空。
それは、私の万年筆のインクと同じ色だ。
私はルシウスの手をぎゅっと握りしめた。
彼が強く握り返してくる。
その確かな感触と共に、私は心の中で、かつての自分に向かって静かに告げた。
『ねえ、泣いていた私。聞いて』
我慢しなくていい。
声を上げていい。
自分の人生を、自分のために選んでいい。
『私は間違っていなかった』
だって今、こんなにも愛され、こんなにも誇らしく、自分の足で立っているのだから。
「行こう、エリシア」
「はい、ルシウス」
私たちは光の中へと踏み出した。
この道の先には、まだ見ぬ喜びと、私たちが二人で築き上げていく素晴らしい未来が、どこまでも続いている。
-完-
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