第11話 祝福の鐘と永遠の口づけ
純白のレース越しに見る世界は、まるで朝霧に包まれたように柔らかく、幻想的に輝いていた。
私は大聖堂の控室で、身支度の最終確認を終えたところだった。
鏡の中に映るのは、先日ルシウス様が「美しすぎる」と嘆いたあのドレスを纏った自分だ。
頭には、彼が望んだ通り、顔を覆い隠すほどの長い総レースのヴェールが掛かっている。
視界は白い紗に遮られているけれど、胸の奥で燃えるような高揚感だけは、どんなヴェールでも隠せそうになかった。
「……エリシア」
背後から、少し震えた声がした。
振り返ると、モーニングコートに身を包んだ父が立っていた。
いつもは気弱で、家の存続ばかりを気にしていた父が、今日は涙で目を潤ませながら、誇らしげに背筋を伸ばしている。
「綺麗だ。……本当にお前は、自慢の娘だよ」
「お父様……」
「私の不甲斐なさで、お前には苦労をかけたね。……でも、お前が自分で選んだ道が、こんなにも素晴らしい場所に繋がっていたなんて」
父が差し出した腕に、私はそっと手を添えた。
シルクの手袋越しに伝わる父の体温は、私の震えを止める最後のアンカーだった。
「行きましょう、お父様。……彼が待っています」
控室を出て、長い回廊を進む。
石造りの壁に、私たちの足音がコツ、コツと響く。
そのリズムは、私がここまで歩んできた道のりの音だ。
雨の中を一人で歩いた夜。
書類の山に埋もれた日々。
そして、ルシウス様の手を取って走り出した、あの夜会の日。
すべてが今日という日のためにあったのだと思える。
大聖堂の巨大な扉の前で、私たちは足を止めた。
扉の向こうからは、パイプオルガンの荘厳な音色が漏れ聞こえている。
かつて、アーネストとの婚約破棄を宣言した時、扉は「終わり」を告げるものだった。
けれど今、目の前にあるこの扉は、「始まり」を告げるものだ。
ギィィ……と重厚な音を立てて、扉が左右に開かれる。
瞬間、圧倒的な光が視界を埋め尽くした。
高い天井のステンドグラスから降り注ぐ、七色の光のシャワー。
そして、参列席を埋め尽くす人々の波。
王弟殿下をはじめとする王族の方々、各省の大臣、同僚の文官たち。
かつて私を「地味な女」「捨てられた令嬢」と嘲笑っていた人々も、今は息を呑み、畏敬の念すら込めた眼差しで私を見つめている。
私は父のエスコートで、長いバージンロードへ一歩を踏み出した。
深紅の絨毯の上を歩くたび、ドレスの裾がさざ波のような音を立てる。
視線が集まる。
けれど、もう怖くはない。
視線の先、祭壇の前に立っている一人の男性だけが、私の世界のすべてだったからだ。
ルシウス様。
純白の礼服を完璧に着こなし、銀色の髪を光に透かして佇む姿は、神々しいほどに美しい。
彼は私を見つけると、眼鏡の奥の瞳を細め、柔らかく微笑んだ。
その表情だけで、心臓が甘く締め付けられる。
彼は待っていてくれた。
私が自分の足で、ここまで辿り着くのを。
祭壇の手前で、父が足を止めた。
ルシウス様が階段を降りてきて、父の前で深く一礼する。
「お父上。……エリシアを、必ず幸せにします」
「ああ……頼んだよ、アルベルト卿」
父の手から、私の手がルシウス様の手へと渡される。
大きくて、温かい掌。
数え切れないほど触れてきたその手が、今日は特別に熱く、力強く私を握りしめた。
「……待っていたよ」
彼がヴェール越しに囁く。
その声に導かれ、私は彼と共に祭壇への階段を登った。
神官の前で並んで立つと、背後でパイプオルガンの音が静まり、静寂が満ちた。
「新郎、ルシウス・アルベルト。汝、この者を妻とし、健やかなる時も、病める時も、これを愛し、敬い、慰め、助け、その命ある限り、真心を尽くすことを誓うか」
神官の問いかけに、ルシウス様は迷いなく答えた。
「誓います」
その声は、会議室で論敵を論破する時よりも低く、けれど遥かに深く、魂を震わせる響きを持っていた。
続いて、私への問いかけ。
「新婦、エリシア・ヴァレンシュタイン。汝、この者を夫とし……」
私は大きく息を吸い込んだ。
肺いっぱいに満ちる、百合の花と乳香の香り。
そして、隣にいる彼の、珈琲と森の香り。
「はい、誓います」
私の声が、大聖堂の高い天井に響き渡った。
契約でも、義務でもない。
私の魂が選んだ、唯一の真実の言葉。
「では、指輪の交換を」
神官が差し出したクッションの上には、二つのプラチナの指輪が輝いていた。
ルシウス様が私の左手を取る。
手袋を外し、そこにあったサファイアの婚約指輪を一度抜き取る。
そして代わりに、永遠を意味するシンプルなプラチナの輪を、薬指の根元までゆっくりと滑り込ませた。
指輪が嵌まった瞬間、私の体の一部になったような感覚がした。
冷たい金属なのに、そこから彼の体温が流れ込んでくるようだ。
私も震える手で彼の指輪を取り、彼の左手の薬指に嵌めた。
彼の節くれだった指に、銀色の輪が収まる。
それは、彼が私のものになったという、何よりの証だった。
「それでは、誓いの口づけを」
ルシウス様が私に向き直る。
彼の手が伸びてきて、私の顔を覆っていたレースのヴェールを掴んだ。
ゆっくりと、ヴェールが持ち上げられる。
視界を遮っていた白い紗が消え、彼の色鮮やかな姿が鮮明に目に飛び込んできた。
灰色の瞳が、至近距離で私を射抜いている。
そこには、隠しきれない独占欲と、溶けるような愛おしさが渦巻いていた。
「……エリシア」
彼は私の頬に手を添え、吐息が触れる距離で囁いた。
「もう、逃がさない」
その言葉は、まるで呪文のように私を縛り付けた。
甘く、抗えない、幸福な呪縛。
私は目を閉じ、彼の唇を受け入れた。
唇が触れ合う。
柔らかく、温かく、そして深い口づけ。
参列者の視線も、神前の厳かさも、すべてが消え去った。
世界には私たち二人しかいない。
彼から伝わってくる熱が、私の血液を駆け巡り、指先まで痺れさせる。
長い、長いキスの後、彼が唇を離した。
けれど、額は合わせたまま、彼は私の瞳を覗き込んだ。
「愛している。……君を一生、離さない」
「……はい。私も、あなたを離しません」
私が答えると、彼は満足げに破顔した。
その笑顔を見た瞬間、
カァーン……カァーン……
頭上で、巨大な鐘の音が鳴り響いた。
祝福の鐘だ。
パイプオルガンが高らかに奏でられ、参列者たちから割れんばかりの拍手が湧き起こる。
フラワーシャワーの花びらが、天井から舞い落ちてくる。
私はルシウス様の腕に抱かれながら、舞い散る花びらを見上げた。
白、ピンク、そしてロイヤルブルーの花びら。
視界いっぱいに広がる色彩の中で、私はかつてないほどの充足感に満たされていた。
「行こう、私の妻」
彼が私の腰を抱き寄せ、バージンロードの方へと向き直る。
扉が開かれ、外の青空が見えた。
まばゆい光の中へ、私たちは歩き出す。
拍手の渦の中を歩きながら、私は左手の指輪を無意識に親指で撫でた。
滑らかな感触。
もう、ここには何のトゲもない。
我慢も、痛みも、孤独もない。
あるのは、隣を歩くこの人と築いていく、輝かしい未来だけだ。
出口に近づくにつれ、光が強くなる。
その光の向こう側で、新しい日々が私たちを待っている。
私はルシウス様の腕にぎゅっとしがみつき、最高の笑顔で前を向いた。
この選択は、間違いじゃなかった。
神様の前で誓ったこの愛こそが、私の人生の正解なのだから。




