第10話 純白のレースと独占欲の熱
月明かりの下で交わした二度目の誓いから、季節は足早に過ぎ去ろうとしていた。
私は王宮の執務室で、招待状の宛名書きリストと睨めっこをしていた。
手にした万年筆──ルシウス様から贈られたロイヤルブルーの軸──が、紙の上を滑るたびに微かな音を立てる。
「私の計算能力を総動員して、史上最高の式にする」というルシウス様の宣言は、決して比喩ではなかった。
彼は公務の合間を縫って、式場の選定、招待客の席次、料理のコース内容に至るまで、驚異的な手際で計画を練り上げていた。それはまるで、国家プロジェクト並みの緻密さだ。
「……完璧すぎるわ」
リストの余白に書かれた、彼の几帳面なメモ書きを指でなぞる。
かつてアーネストとの婚約中、結婚式の話題が出ても、彼は「ああ、適当に任せるよ」「君の好きにすればいい(金はかけずに)」と生返事をするだけだった。
けれど今は違う。
二人の未来を、二人で──いいえ、彼が先導して全力で築き上げようとしてくれている。
その熱量が、書類越しに伝わってくるようで、私は自然と口元が緩むのを止められなかった。
「エリシア。時間は大丈夫か」
ガラス戸が開き、ルシウス様が顔を出した。
今日は休日だが、私たちはある重要な予定のために待ち合わせていた。
衣装合わせだ。
「はい、準備できています。……少し、緊張しますが」
「何、ただの試着だ。……もっとも、王都で一番予約の取れないサロンを押さえたがな」
彼は涼しい顔で言ったが、その瞳の奥には隠しきれない期待の色が揺れている。
私はデスクを片付け、彼が差し出した手に自分の手を重ねた。
温かい。
この数週間、この手に引かれて歩くことが当たり前になりつつある。
それがどれほど幸せなことか、私は一歩ごとに噛み締めていた。
王都の大通りに面した『サロン・ド・リュミエール』は、貴族の令嬢たちが一生に一度は身に纏いたいと憧れる、最高級のドレス店だ。
扉を開けると、甘いラベンダーの香りと、絹擦れの音が私たちを迎えた。
「お待ちしておりました、アルベルト卿、ヴァレンシュタイン嬢」
洗練された身のこなしのマダムが、恭しく頭を下げる。
案内された個室は、広々としたフィッティングルームと、ゆったりとしたソファが置かれた待合スペースに分かれていた。
「では、こちらへ。……最高の一着をご用意しておりますわ」
マダムに促され、私はカーテンの奥へと進んだ。
ルシウス様はソファに腰を下ろし、持参した本を開くふりをしているが、その視線が落ち着きなく彷徨っているのを私は見逃さなかった。
ふふ、と笑いが込み上げる。
彼にも可愛いところがあるのだ。
フィッティングルームの中には、数着のドレスが用意されていた。
どれも素晴らしい品だが、マダムが「これが本命です」と示した一着に、私は目を奪われた。
純白のシルクサテンに、繊細な銀糸の刺繍が施されたAラインのドレス。
そして何より目を引くのは、袖と胸元にあしらわれた、霞のように薄く美しいレースだ。
「……綺麗」
私は思わず、そのレースに指先で触れた。
雪の結晶をそのまま織り込んだような、儚くも高貴な手触り。
これを私が着るのか。
誰かの引き立て役ではなく、誰かの付属物でもなく、主役として。
「さあ、お召しになって」
マダムの手を借りて、私はドレスに袖を通した。
ひんやりとした生地が肌に吸い付き、コルセットが背筋を正す。
鏡の前に立つ。
そこには、自分でも見違えるような「花嫁」が映っていた。
かつて鏡の前で「どうせ私なんて」と俯いていた地味な令嬢は、もういない。
愛される自信を纏った女性が、少し恥ずかしそうに、けれど誇らしげにこちらを見返している。
「準備はよろしいですか? ……開けますよ」
マダムの声に、私は大きく深呼吸をした。
心臓が早鐘を打つ。
彼に見せるのが、楽しみで、そして怖い。
どんな顔をするだろうか。
似合わないと言われたらどうしよう。
そんな不安と期待が入り混じる中、重厚なベルベットのカーテンが、左右に開かれた。
シャッ、という音と共に、視界が開ける。
ソファに座っていたルシウス様が、ゆっくりと顔を上げた。
時間が、止まったようだった。
彼は本を膝に置いたまま、微動だにしない。
瞬きすら忘れたように、灰色の瞳を見開き、私を凝視している。
部屋の中に、時計の秒針の音だけが響く。
「……あ、あの。ルシウス様……?」
「……」
「へ、変でしょうか? やはり、私には分不相応というか……」
あまりの沈黙に耐えきれず、私が俯きかけると、ようやく彼が動いた。
ガタッ、と音を立てて立ち上がる。
そして、大股で私の方へと歩み寄ってきた。
その表情は、いつもの冷静沈着な仮面が剥がれ落ち、見たこともないほど切迫した色を帯びていた。
「……駄目だ」
「えっ……だ、駄目、ですか……?」
目の前まで来て、彼が低く呟いた言葉に、私の心臓が凍りつきそうになる。
やはり、似合わないのか。
ショックで顔を上げられないでいると、彼の大きな手が、私の両頬を包み込んだ。
強引に、けれど優しく顔を上げさせられる。
至近距離で目が合った。
彼の瞳は、熱を帯びて揺らめいていた。
「美しすぎる」
「……え?」
「君がこれほど美しいことは知っていたつもりだった。……だが、私の想像など遥かに超えている」
彼は苦しげに眉を寄せ、親指で私の唇をなぞった。
その熱っぽい指使いに、私の頬が一気に沸騰する。
「この姿を、他の男に見せるのか? ……式場の参列者全員に見られるなど、耐えられそうにない」
「ル、ルシウス様……?」
「いっそ、私だけの部屋に閉じ込めてしまいたい。……この純白も、その恥じらう表情も、すべて私だけのものにできたら」
それは、甘い愛の囁きであり、同時に背筋が震えるほど重い独占欲の吐露だった。
彼の言葉に込められた情熱が、ドレスの薄いレース越しに伝わってくるようだ。
私は嬉しさと恥ずかしさで、どう反応していいか分からず、ただ彼の瞳を見つめ返すことしかできなかった。
「……マダム」
ルシウス様が、私から目を離さずに背後のマダムに声をかけた。
「ヴェールだ。……一番分厚い、顔が隠れるほどの総レースのヴェールを用意してくれ」
「ま、まあ! アルベルト卿ったら」
マダムが楽しげに笑う。
「冗談ではない。……披露宴の間、彼女を隠しておかないと、私が理性を保てるか怪しい」
「ルシウス様っ! お店の人になんてことを……!」
私は真っ赤になって彼の胸を軽く叩いた。
彼はふっと表情を緩め、ようやくいつもの──けれど数段甘い──微笑みを浮かべた。
「冗談だ。……いや、半分は本気だが」
彼は私の手を取り、指先に口づけた。
「世界中に自慢したい気持ちと、誰にも見せたくない気持ちがせめぎ合っている。……君は罪な女性だ、エリシア」
「……それは、私の台詞です」
私は彼の手を握り返した。
こんなにも愛されている。
その事実が、純白のドレスよりも私を輝かせているのだと、鏡を見なくても分かった。
結局、ドレスはその一着に決まった。
マダムは「当日が楽しみですわね」とウィンクし、ルシウス様は「当日は警備を倍にするか……」と真剣に悩んでいた。
帰り道の馬車の中、私は膝の上に置いた小さな布袋を見つめていた。
ドレスの余り布だ。
「記念にどうぞ」とマダムがくれた純白のレース。
その手触りは、今日の彼の熱っぽい視線を鮮明に思い出させる。
「……疲れたか?」
隣で、ルシウス様が私の肩を抱いた。
私は首を横に振り、彼の肩に頭を預けた。
「いいえ。……とても、幸せです」
「そうか」
彼は満足げに私の髪を撫でた。
「招待状の発送も終わった。……あとは、その日を待つだけだ」
「はい」
窓の外では、夕暮れの街が茜色に染まっている。
かつて一人で歩いた雨の道も、孤独に耐えた夜会の帰り道も、すべてはこの瞬間に繋がっていたのだと思える。
準備は整った。
あとは、彼の手を取って、あの祭壇へ進むだけ。
その一歩は、私の人生で最も確かな一歩になるはずだ。
私は手の中のレースをぎゅっと握りしめた。
その白さは、これから私たちが染め上げていく未来のキャンバスそのもののようだった。




