第9話 夜風の庭園と二度目の誓い
重厚な扉が閉ざされ、あの断末魔のような絶叫が完全に途絶えた瞬間の静寂を、私は時折思い出す。
あれから、一ヶ月が過ぎていた。
私は手元の書類に、愛用の万年筆で最後のサインを書き入れた。
ロイヤルブルーのインクが紙に滑らかに吸い込まれていく。
文官室は驚くほど静かだった。
かつてのような怒号も、責任のなすりつけ合いも、誰かの溜め息も聞こえない。あるのは、紙をめくる音と、ペンが走る音、そして時折交わされる建設的な議論の声だけだ。
アーネスト・クライヴという歪みが排除されたことで、王宮の文官組織は本来あるべき健全な機能を取り戻していた。
「……お疲れ様です、補佐官殿」
書類を回収に来た若手文官が、敬意を込めて頭を下げた。
かつて私を無視していた彼らも、今では私のデスクの前で直立不動の姿勢をとる。
それは、私がルシウス様の婚約者だからという理由だけではない。
先日の人事発令で、私が正式に『王宮筆頭文官補佐』──つまり、ルシウス・アルベルト様の右腕としての地位を拝命したからだ。
「ありがとう。……こちらの計算書、三行目の係数が古いままです。最新の条例に合わせて修正をお願いしますね」
「はっ! 申し訳ありません、すぐに!」
若手文官は慌てて書類を受け取り、自分の席へと戻っていった。
私は小さく息を吐き、万年筆のキャップを閉めた。
カチリ、という硬質な音が、一日の業務の終わりを告げる。
「……終わったか」
隣の席から、ルシウス様が声をかけてきた。
彼は眼鏡を外し、目頭を押さえている。その無防備な仕草を独占できるのは、このガラス張りの執務スペースにいる私だけの特権だ。
「はい。今日中に決裁が必要なものは、すべて処理しました」
「優秀だな。……おかげで、私も定時に上がれそうだ」
彼は眼鏡をかけ直し、私を見て優しく微笑んだ。
その表情を見るだけで、仕事の疲れなど霧散してしまう。
私たちは視線を合わせ、言葉少なに頷き合った。
公私ともにパートナーであるという充足感が、胸の奥を満たしていく。
「エリシア。……この後、少し時間はあるか」
「はい、もちろんです」
「夜風に当たりたい。……少し、散歩でもどうだ」
彼の誘いが、単なる気分転換ではないことを、その真摯な眼差しが告げていた。
私は背筋を伸ばし、深く頷いた。
彼が望むなら、地の果てまででもお供するつもりだった。
王宮の裏手に広がる庭園は、夜になると別の顔を見せる。
昼間の華やかな薔薇園とは違い、月光を浴びた木々は静謐な影を落とし、夜咲きの白い花々が甘い香りを漂わせている。
私たちは並んで、石畳の小径を歩いた。
護衛もつけず、二人きりだ。
私の手は、ルシウス様の左腕にしっかりと絡められている。
その体温と、筋肉の硬さを掌に感じながら、私は自分が今、どれほど幸福な場所にいるかを噛み締めていた。
「……静かだな」
「ええ。……一ヶ月前の嵐が嘘のようです」
私が答えると、彼は足を止めた。
そこは、噴水の水音が心地よく響く、開けた広場だった。
月が真上にあり、水面がキラキラと光を反射している。
「エリシア」
彼が私に向き直った。
逆光で表情が見えにくいが、その声のトーンだけで、彼が緊張しているのが分かった。
あの完璧なルシウス様が、緊張している。
その事実に、私の鼓動もつられて早くなる。
「君に、謝らなければならないことがある」
「謝る……ですか?」
意外な言葉に、私は目を瞬かせた。
彼が私に謝罪することなど、何一つないはずだ。
私を救い出し、才能を認め、居場所をくれた恩人なのだから。
「私は……卑怯だった」
彼は自嘲気味に笑い、視線を私の胸元の万年筆へと落とした。
「君の才能を評価していたのは事実だ。だが、それ以上に……私は君という女性に、ずっと前から惹かれていた」
「え……」
「アーネストの無能さを放置し、君が追い詰められるのを待っていた節がある。……君が彼に愛想を尽かし、傷つき、私の手を必要とする瞬間を、虎視眈々と狙っていたのだ」
彼の告白に、私は息を呑んだ。
それは、第1章で彼が言っていた「君が空くのを待っていた」という言葉の、さらに奥にある真実だった。
彼はただの救世主ではない。
私を手に入れるために、計算高く状況をコントロールしていた共犯者でもあったのだ。
「……それが、引き抜きの真実だと?」
「ああ。……公私混同も甚だしい。上司としても、男としても、褒められたやり方ではない」
彼は苦渋に満ちた顔で、私から視線を逸らそうとした。
嫌われると思ったのだろうか。
その不器用な誠実さに、私は胸が締め付けられるほど愛おしさを感じた。
「ルシウス様」
私は彼の手を取り、自分の頬に寄せた。
彼の手は少し冷えていたが、私には何よりも温かく感じられた。
「……嬉しいです」
「な……?」
「あなたがそこまでして、私を欲してくださったことが。……ただの正義感や同情ではなく、執着を持って私を見ていてくださったことが、どうしようもなく嬉しいのです」
綺麗なだけの関係なんていらない。
私は、彼のその人間臭い独占欲ごと、彼を愛しているのだから。
「エリシア……」
彼は驚いたように目を見開き、そして安堵したように長く息を吐いた。
その灰色の瞳が、月明かりを吸い込んで揺れている。
「やはり、君には敵わないな」
彼は私の手を引き寄せ、そっと腰に腕を回した。
私たちは月明かりの下、至近距離で見つめ合う。
噴水の水音だけが、世界の音のすべてだった。
「では、改めて言わせてくれ」
彼の声が、一段低く、深くなる。
それは命令でも、業務連絡でもない。
一人の男としての、魂の言葉だった。
「これは契約ではない。……打算でもない」
彼は私の左手を持ち上げ、薬指に嵌まったサファイアの指輪に口づけた。
「私は君を愛している。……君の才能も、強さも、弱さも、すべてを。私の残りの人生をかけて、君を守り、君と共に歩みたい」
心臓が、早鐘を打つ。
言葉の一つ一つが、青いインクのように心に染み込んでいく。
かつてアーネストと交わした婚約は、家同士の契約書にサインをするだけの、無機質な手続きだった。
けれど、これは違う。
心と心が触れ合い、溶け合うような、本物の誓いだ。
「……エリシア・ヴァレンシュタイン。私と、結婚してくれないか」
その問いかけに、迷いはなかった。
私は涙が溢れそうになるのを堪え、精一杯の笑顔を作った。
「……謹んで、お受けいたします」
声が震えたのは、悲しみからではない。
溢れ出す幸福を受け止めきれなかったからだ。
私が頷くと同時に、彼は私を強く抱きしめた。
骨がきしむほどの強さ。
けれど、痛くはなかった。
その痛みが、私が彼のものになったという証のように感じられたから。
「ありがとう……。絶対に、幸せにする」
「はい。……私も、あなたを幸せにします」
彼の胸に顔を埋め、私は深く息を吸い込んだ。
珈琲と夜風の香り。
これが、私の帰る場所だ。
私たちはしばらくの間、言葉もなく抱き合っていた。
夜風が木々を揺らし、祝福するように葉擦れの音を奏でている。
かつて一人で耐えていた寒さは、もうどこにもない。
この温もりがある限り、私はどんな嵐の中でも、前を向いて歩いていける。
「……戻ろうか。体が冷える」
しばらくして、彼が私の肩を優しく叩いた。
名残惜しいけれど、明日も仕事がある。
私たちは、公私ともに最高のパートナーとして、明日も王宮へ向かうのだ。
「はい。……あの、ルシウス様」
「なんだ」
「結婚式の準備、……忙しくなりますね」
私が少し悪戯っぽく言うと、彼は眼鏡を直し、真面目な顔で、けれど瞳を輝かせて答えた。
「ああ。……私の計算能力を総動員して、史上最高の式にしてみせるさ」
その言葉に、私は思わず吹き出した。
仕事熱心な彼らしいプロポーズの締めくくり。
繋いだ手から伝わる体温を確かめながら、私は月に向かって心の中で呟いた。
私の選択は、間違っていなかった。
この愛おしい人と共に歩む未来が、何よりの証明だ。




