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私は間違っていないので、婚約者を辞めさせていただきます  作者: 九葉(くずは)
第2章

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第9話 夜風の庭園と二度目の誓い

重厚な扉が閉ざされ、あの断末魔のような絶叫が完全に途絶えた瞬間の静寂を、私は時折思い出す。


あれから、一ヶ月が過ぎていた。

私は手元の書類に、愛用の万年筆で最後のサインを書き入れた。

ロイヤルブルーのインクが紙に滑らかに吸い込まれていく。

文官室は驚くほど静かだった。

かつてのような怒号も、責任のなすりつけ合いも、誰かの溜め息も聞こえない。あるのは、紙をめくる音と、ペンが走る音、そして時折交わされる建設的な議論の声だけだ。

アーネスト・クライヴという歪みが排除されたことで、王宮の文官組織は本来あるべき健全な機能を取り戻していた。


「……お疲れ様です、補佐官殿」


書類を回収に来た若手文官が、敬意を込めて頭を下げた。

かつて私を無視していた彼らも、今では私のデスクの前で直立不動の姿勢をとる。

それは、私がルシウス様の婚約者だからという理由だけではない。

先日の人事発令で、私が正式に『王宮筆頭文官補佐』──つまり、ルシウス・アルベルト様の右腕としての地位を拝命したからだ。


「ありがとう。……こちらの計算書、三行目の係数が古いままです。最新の条例に合わせて修正をお願いしますね」

「はっ! 申し訳ありません、すぐに!」


若手文官は慌てて書類を受け取り、自分の席へと戻っていった。

私は小さく息を吐き、万年筆のキャップを閉めた。

カチリ、という硬質な音が、一日の業務の終わりを告げる。


「……終わったか」


隣の席から、ルシウス様が声をかけてきた。

彼は眼鏡を外し、目頭を押さえている。その無防備な仕草を独占できるのは、このガラス張りの執務スペースにいる私だけの特権だ。


「はい。今日中に決裁が必要なものは、すべて処理しました」

「優秀だな。……おかげで、私も定時に上がれそうだ」


彼は眼鏡をかけ直し、私を見て優しく微笑んだ。

その表情を見るだけで、仕事の疲れなど霧散してしまう。

私たちは視線を合わせ、言葉少なに頷き合った。

公私ともにパートナーであるという充足感が、胸の奥を満たしていく。


「エリシア。……この後、少し時間はあるか」

「はい、もちろんです」

「夜風に当たりたい。……少し、散歩でもどうだ」


彼の誘いが、単なる気分転換ではないことを、その真摯な眼差しが告げていた。

私は背筋を伸ばし、深く頷いた。

彼が望むなら、地の果てまででもお供するつもりだった。


王宮の裏手に広がる庭園は、夜になると別の顔を見せる。

昼間の華やかな薔薇園とは違い、月光を浴びた木々は静謐な影を落とし、夜咲きの白い花々が甘い香りを漂わせている。

私たちは並んで、石畳の小径を歩いた。

護衛もつけず、二人きりだ。

私の手は、ルシウス様の左腕にしっかりと絡められている。

その体温と、筋肉の硬さを掌に感じながら、私は自分が今、どれほど幸福な場所にいるかを噛み締めていた。


「……静かだな」

「ええ。……一ヶ月前の嵐が嘘のようです」


私が答えると、彼は足を止めた。

そこは、噴水の水音が心地よく響く、開けた広場だった。

月が真上にあり、水面がキラキラと光を反射している。


「エリシア」


彼が私に向き直った。

逆光で表情が見えにくいが、その声のトーンだけで、彼が緊張しているのが分かった。

あの完璧なルシウス様が、緊張している。

その事実に、私の鼓動もつられて早くなる。


「君に、謝らなければならないことがある」

「謝る……ですか?」


意外な言葉に、私は目を瞬かせた。

彼が私に謝罪することなど、何一つないはずだ。

私を救い出し、才能を認め、居場所をくれた恩人なのだから。


「私は……卑怯だった」


彼は自嘲気味に笑い、視線を私の胸元の万年筆へと落とした。


「君の才能を評価していたのは事実だ。だが、それ以上に……私は君という女性に、ずっと前から惹かれていた」

「え……」

「アーネストの無能さを放置し、君が追い詰められるのを待っていた節がある。……君が彼に愛想を尽かし、傷つき、私の手を必要とする瞬間を、虎視眈々と狙っていたのだ」


彼の告白に、私は息を呑んだ。

それは、第1章で彼が言っていた「君が空くのを待っていた」という言葉の、さらに奥にある真実だった。

彼はただの救世主ではない。

私を手に入れるために、計算高く状況をコントロールしていた共犯者でもあったのだ。


「……それが、引き抜きの真実だと?」

「ああ。……公私混同も甚だしい。上司としても、男としても、褒められたやり方ではない」


彼は苦渋に満ちた顔で、私から視線を逸らそうとした。

嫌われると思ったのだろうか。

その不器用な誠実さに、私は胸が締め付けられるほど愛おしさを感じた。


「ルシウス様」


私は彼の手を取り、自分の頬に寄せた。

彼の手は少し冷えていたが、私には何よりも温かく感じられた。


「……嬉しいです」

「な……?」

「あなたがそこまでして、私を欲してくださったことが。……ただの正義感や同情ではなく、執着を持って私を見ていてくださったことが、どうしようもなく嬉しいのです」


綺麗なだけの関係なんていらない。

私は、彼のその人間臭い独占欲ごと、彼を愛しているのだから。


「エリシア……」


彼は驚いたように目を見開き、そして安堵したように長く息を吐いた。

その灰色の瞳が、月明かりを吸い込んで揺れている。


「やはり、君には敵わないな」


彼は私の手を引き寄せ、そっと腰に腕を回した。

私たちは月明かりの下、至近距離で見つめ合う。

噴水の水音だけが、世界の音のすべてだった。


「では、改めて言わせてくれ」


彼の声が、一段低く、深くなる。

それは命令でも、業務連絡でもない。

一人の男としての、魂の言葉だった。


「これは契約ではない。……打算でもない」


彼は私の左手を持ち上げ、薬指に嵌まったサファイアの指輪に口づけた。


「私は君を愛している。……君の才能も、強さも、弱さも、すべてを。私の残りの人生をかけて、君を守り、君と共に歩みたい」


心臓が、早鐘を打つ。

言葉の一つ一つが、青いインクのように心に染み込んでいく。

かつてアーネストと交わした婚約は、家同士の契約書にサインをするだけの、無機質な手続きだった。

けれど、これは違う。

心と心が触れ合い、溶け合うような、本物の誓いだ。


「……エリシア・ヴァレンシュタイン。私と、結婚してくれないか」


その問いかけに、迷いはなかった。

私は涙が溢れそうになるのを堪え、精一杯の笑顔を作った。


「……謹んで、お受けいたします」


声が震えたのは、悲しみからではない。

溢れ出す幸福を受け止めきれなかったからだ。

私が頷くと同時に、彼は私を強く抱きしめた。

骨がきしむほどの強さ。

けれど、痛くはなかった。

その痛みが、私が彼のものになったという証のように感じられたから。


「ありがとう……。絶対に、幸せにする」

「はい。……私も、あなたを幸せにします」


彼の胸に顔を埋め、私は深く息を吸い込んだ。

珈琲と夜風の香り。

これが、私の帰る場所だ。


私たちはしばらくの間、言葉もなく抱き合っていた。

夜風が木々を揺らし、祝福するように葉擦れの音を奏でている。

かつて一人で耐えていた寒さは、もうどこにもない。

この温もりがある限り、私はどんな嵐の中でも、前を向いて歩いていける。


「……戻ろうか。体が冷える」


しばらくして、彼が私の肩を優しく叩いた。

名残惜しいけれど、明日も仕事がある。

私たちは、公私ともに最高のパートナーとして、明日も王宮へ向かうのだ。


「はい。……あの、ルシウス様」

「なんだ」

「結婚式の準備、……忙しくなりますね」


私が少し悪戯っぽく言うと、彼は眼鏡を直し、真面目な顔で、けれど瞳を輝かせて答えた。

「ああ。……私の計算能力を総動員して、史上最高の式にしてみせるさ」


その言葉に、私は思わず吹き出した。

仕事熱心な彼らしいプロポーズの締めくくり。

繋いだ手から伝わる体温を確かめながら、私は月に向かって心の中で呟いた。


私の選択は、間違っていなかった。

この愛おしい人と共に歩む未来が、何よりの証明だ。

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