第8話 断罪のハンマーと閉ざされる扉
裏帳簿のページがめくられる乾いた音だけが、広大な会議室の空気を支配していた。
私は胸ポケットの万年筆にそっと手を触れ、その冷たい感触に意識を集中させた。
目の前では、アーネストが口をパクパクと開閉させ、酸素を求める魚のように喘いでいる。
ルシウス様が提示した証拠は、あまりにも明白で、逃げ道を塞ぐには十分すぎた。
横領、改竄、職務怠慢。
彼が「些細なこと」として積み上げてきた罪の塔が、今、音を立てて崩落し、彼自身を押し潰そうとしている。
「で、殿下……! お待ちください! これは、その……必要経費で……外交のためにやむを得ず……!」
アーネストがテーブルにすがりつき、必死に弁明を試みる。
だが、その声は震え、説得力の欠片もない。
上座に座る王弟殿下は、汚らわしいものを見る目で彼を見下ろしていた。
「外交、か。……娼館への支払いや、賭場の借金返済が外交活動だと申すか?」
殿下の低い声が、ハンマーのようにアーネストの頭上に振り下ろされる。
「クライヴ卿。余はそなたに失望したのではない。……最初から期待していなかったのだと、今にして痛感した」
「そ、そんな……殿下……」
「そなたの父、クライヴ伯爵からも事情聴取を行う予定だ。家の名誉などと騒いでいたようだが、その家自体が腐敗の温床となっていたようだな」
殿下は手元の書類にサインをし、冷徹に告げた。
「アーネスト・クライヴ。本日、ただいまをもって貴様の文官としての職を解く。並びに、クライヴ家の爵位及び領地の没収を国王陛下へ奏上する」
爵位没収。
その言葉の重みに、会場中が息を呑んだ。
貴族にとって、それは死刑宣告に等しい。
身分を失い、財産を失い、ただの平民──いや、犯罪者として生きていくことになるのだから。
「ま……待ってください! 爵位剥奪だなんて……そんな横暴な! 僕はただ、少し羽目を外しただけで……!」
「黙れ」
殿下の一喝が響く。
「国庫を私物化し、重要なインフラ計画を改竄によって歪めようとしたのだ。これは国家反逆罪にも匹敵する重罪である。……貴様には、北部の鉱山での労役を命じる。そなたが『適当』に扱った現場の寒さと厳しさを、その身をもって知るがいい」
「ほ、北部……鉱山……!?」
アーネストがガタガタと震え出した。
北部の鉱山。それは過酷な環境で知られる、実質的な流刑地だ。
彼が私に押し付け、自分は見ようともしなかった「現場」。
そこで一生、泥と油にまみれて働くことになる。
皮肉な結末だった。
「連れて行け」
殿下の合図で、控えていた衛兵たちが動き出した。
二人の大男がアーネストの両脇を抱え、乱暴に立たせる。
「い、嫌だ! 離せ! 僕はクライヴ伯爵家の跡取りだぞ! こんな扱いが許されると……!」
彼は喚き散らし、足をバタつかせて抵抗する。
その見苦しさに、周囲の出席者たちは一様に顔をしかめ、視線を逸らした。
かつて彼の取り巻きだった若手文官たちでさえ、今は他人のふりをして俯いている。
引きずられていくアーネストの視線が、ふと私を捉えた。
彼の目が、すがるような色を帯びる。
「エ、エリシア! エリシア、助けてくれ!」
彼は衛兵の手を振りほどこうともがきながら、私に向かって手を伸ばした。
「君なら分かるだろう!? 僕が……僕がどれだけ頑張ってきたか! これは何かの間違いだ! 殿下に言ってくれ! 僕たちは婚約者じゃないか!」
「……」
私は動かなかった。
眉一つ動かさず、ただ静かに彼を見つめ返した。
婚約者。
まだ、そんな言葉を使うのか。
私が指輪を返し、公衆の面前で決別を宣言した後でさえ、彼は都合よく私の存在を利用しようとする。
「エリシア! 頼む! 愛しているんだ! 君しかいない! 僕が悪かった、謝るから! だから……!」
愛している。
その言葉が、これほど空虚に響く瞬間があるだろうか。
彼は私を愛しているのではない。
私という「便利な盾」を、自分の保身のために欲しているだけだ。
私は一歩、前に進み出た。
ルシウス様が止めようと手を伸ばしかけたが、私が首を振ると、彼は静かに腕を下ろした。
これは、私が最後に引くべき線だ。
「……アーネスト・クライヴ」
私は様付けを外し、冷ややかに呼び捨てた。
「あなたは頑張ってなどいませんでした。……あなたが遊んでいる間、私がどれだけ孤独に書類と向き合っていたか。あなたは一度でも想像しましたか?」
「そ、それは……これから償う! だから……!」
「償いなら、北部の鉱山で果たしてください」
私はポケットから万年筆を取り出し、彼に見せた。
美しいロイヤルブルーの軸。
ルシウス様がくれた、私の新しい人生の象徴。
「私はもう、あなたの道具ではありません。……そして、あなたを助ける理由は、私の人生のどこを探しても見当たらないのです」
「……っ!」
私の明確な拒絶に、アーネストの表情が絶望に染まった。
彼は理解したのだ。
もう、どんな言葉も私には届かないことを。
私が彼を見限ったのは、一時的な感情ではなく、積み重なった事実と理性の結果であることを。
「連行しろ」
ルシウス様の冷たい声がトドメとなった。
衛兵たちが力を込め、アーネストを引きずり出していく。
「嫌だ……嫌だあああ! エリシアァアア!」
絶叫が遠ざかっていく。
重厚な会議室の扉に向かって、彼はゴミのように排出されていった。
そして。
ズーン……。
重々しい音を立てて、巨大な扉が閉ざされた。
完全に閉まった瞬間、カチリと錠が下りるような幻聴がした。
終わった。
私の青春を食い潰し、自尊心を削り続けてきた元凶が、私の世界から完全に排除されたのだ。
静寂が戻った会議室。
私は扉を見つめたまま、深く、長く息を吐き出した。
肺の中に溜まっていた澱んだ空気がすべて抜け、代わりに清浄な酸素が満ちていく。
涙は出なかった。
ただ、驚くほど心が軽かった。
「……見事な幕引きだった」
隣で、ルシウス様が囁いた。
彼の手が、そっと私の背中に添えられる。
その温もりが、私が一人ではないことを教えてくれる。
「……はい。少し、残酷だったでしょうか」
「自業自得だ。君が気にする必要はない」
彼はきっぱりと言い切り、私の肩を抱き寄せた。
周囲の視線が集まっているが、もう誰も私たちを非難する者はいなかった。
むしろ、感嘆と祝福の色を含んだ眼差しが向けられている。
私は実力で正義を証明し、自らの手で過去を清算したのだから。
「レディ・ヴァレンシュタイン」
王弟殿下が席を立ち、こちらへ歩み寄ってきた。
私は慌ててルシウス様と共に頭を下げる。
「今回の件、そなたの勇気ある告発と、的確な分析に感謝する。……国として、そなたのような人材を失わずに済んだことは幸運であった」
「もったいないお言葉です、殿下」
「アルベルト卿。良い伴侶を得たな」
殿下がルシウス様に悪戯っぽく笑いかけると、ルシウス様は真面目な顔で、しかし隠しきれない誇らしさを滲ませて答えた。
「はい。……私の生涯の誇りです」
その言葉に、胸が熱くなった。
公的な場で、王族の前で、彼は私を「誇り」だと言ってくれた。
アーネストが隠そうとし、蔑んできた私を、この人は堂々と掲げてくれる。
会議は散会となった。
参加者たちが次々と私に声をかけてくる。
「素晴らしい分析でした」「今度、我が省の案件も見ていただきたい」
かつては「地味な女」と素通りされていた私が、今は一人の有能な文官として認識されている。
その変化が、少しこそばゆく、けれど誇らしかった。
会議室を出る時、私はもう一度だけ、閉ざされた扉を振り返った。
あの向こう側には、アーネストの絶叫と、私の苦かった過去が封印されている。
もう、開くことはない。
私は前を向いた。
ルシウス様が差し出してくれた腕に、しっかりと手を添える。
「行きましょう、エリシア。……私たちの仕事が待っている」
「はい、ルシウス様」
長い廊下の先には、明るい光が差し込んでいた。
そこへ向かう足取りは、羽が生えたように軽かった。
私はもう、誰かの影ではない。
光の中を歩く、私自身の人生がここにあるのだから。




