第7話 静寂の暗算と崩れゆく砂上の楼閣
「合計額と内訳が合わない」という私の指摘が、大会議室の空気を凍りつかせていた。
数百の瞳が見守る中、私は手元の万年筆を軽く握り直した。
ロイヤルブルーの軸が、汗ばむ掌に吸い付くように馴染む。
かつては恐怖の象徴だったこの円卓会議が、今は不思議と私の独壇場のように感じられた。それは隣にルシウス様がいるからというだけでなく、私が語る言葉が「真実」という最強の盾に守られているからだ。
「……け、計算ミスだと言っただろう! 細かい数字の揚げ足を取って、何になる!」
アーネストが立ち上がり、拳でテーブルを叩いた。
乾いた音が響くが、誰も彼に同調しない。
彼の額から流れ落ちる脂汗が、照明を受けて惨めに光っている。
焦燥。恐怖。そして、まだ自分が権力者側だと思い込もうとする虚勢。
そのすべてが、彼の呼吸を浅く、荒くさせている。
「細かい数字、ではありません」
私は静かに、しかし会場の隅々まで届くように声を張った。
「これは国家予算です、クライヴ卿。あなたの『計算ミス』で計上された差額は、平民の年収の数百年分に相当します。……それを『細かいこと』と断じる感覚こそが、あなたがこのプロジェクトの責任者に不適格である証拠です」
「なっ……! 貴様、ただの補佐の分際で!」
「補佐だからこそ、です」
私は彼を見据えたまま、手元の資料を閉じた。
もう、見る必要もない。
この「北部水路整備計画」の数字は、すべて私の頭の中に入っている。
眠れない夜を過ごし、何度も検算し、現場の職人たちの顔を思い浮かべながら組み上げた数式だ。彼のような、表面だけを掠め取ろうとする人間には一生理解できない重みがそこにはある。
「では、伺います。……この改竄された『500ゴールド』という単価。これを採用した場合、下流地域の護岸工事に使う『耐水煉瓦』の強度はどの程度を想定されていますか?」
「は……? れ、煉瓦……?」
アーネストが口ごもる。
目が泳いでいる。
当然だ。彼は「数字」しか見ていない。「現場」を見ていないのだから。
「答えられないのですか? ……では、私が答えましょう。その予算で調達可能な煉瓦は、強度ランクD以下の粗悪品になります。北部の激流に耐えられるのはランクB以上。つまり、あなたの予算案通りに進めれば、来年の雪解け時期には堤防が決壊し、下流の三つの村が水没することになります」
会場がざわめいた。
「水没だと?」「馬鹿な、そんな計画を通そうとしたのか」
実務を担当する技術局長たちが、青ざめた顔で手元の資料を確認し始める。
「で、デタラメだ! そんな大袈裟な……適当なことを言うな!」
「適当ではありません。……流速毎秒3メートル、水圧係数1.5で計算すれば、強度が不足するのは明白です。暗算でも導き出せますわ」
私は空中に数字を描くように指を動かした。
「断面積あたりの負荷加重が許容値を超えます。……それとも、クライヴ卿は新しい物理法則でも発見されたのですか?」
私の問いかけに、アーネストは言葉を詰まらせた。
顔色が赤から白へ、そして土気色へと変わっていく。
彼は助けを求めるように周囲を見回したが、誰も目を合わせようとしない。
彼の背後にあったはずの「家柄」や「派閥」といった砂上の楼閣が、私の論理という波に洗われて崩れていくのが見えた。
ふと、隣に気配を感じて視線を向ける。
ルシウス様が、腕を組んだまま私を見ていた。
彼は一切口を挟まない。助け舟も出さない。
ただ、その灰色の瞳は深く凪いでいて、微かに口角が上がっていた。
『やれ』と、目が語っている。
『君の正しさを、思う存分叩きつけてやれ』と。
その信頼が、私の背中を強く押した。
私はもう一度、万年筆を握りしめる。
この青いインクは、私の誇りだ。誰にも汚させはしない。
「さらに、申し上げます」
私は追撃の手を緩めなかった。
これは私怨ではない。仕事への誠実さが、不誠実を許さないだけだ。
「あなたが提出した告発状のコピー。……3ページ目の工程表をご覧ください。工期が『18ヶ月』となっていますね」
「そ、それがどうした! 余裕を持たせた計画だ!」
「いいえ。北部の冬は早く、11月から3月までは凍結により工事が不可能です。それを考慮すれば、実質の稼働月数は12ヶ月。……18ヶ月という数字は、ただカレンダーを数えただけの、現場を知らない人間の机上の空論です」
私は一息ついた。
会場の空気は完全に変わっていた。
もはや誰も、私を「男をたぶらかした悪女」とは見ていない。
ここにいるのは、有能な実務家と、無能な責任者だ。
「な、なぜだ……なぜ、お前がそんなことを知っている……」
アーネストが呆然と呟いた。
膝が震え、椅子に崩れ落ちそうになっている。
「僕が……僕が指示したはずだ! 僕のアイデアだ! お前はただ、それを清書しただけだろう!?」
「いいえ、アーネスト様」
私は静かに、けれど決定的な一言を放った。
「あなたが『面倒だ』と放り投げ、『適当にやっておけ』と私に押し付けた仕事です。……私はそれを、一度たりとも『適当』には扱いませんでした。それだけの違いです」
「ッ……!」
彼は絶句し、パクパクと口を開閉させた。
反論できない。
彼自身の記憶の中に、私に仕事を押し付け、遊びに出かけていた数々の夜が蘇っているのだろう。
自業自得だ。
彼が積み重ねてきた怠慢が、今、巨大なブーメランとなって彼自身を打ち砕いたのだ。
「……見事だ」
沈黙を破ったのは、上座にいる王弟殿下だった。
殿下は手元の資料を置き、ゆっくりと私に頷いてみせた。
「レディ・ヴァレンシュタイン。……いや、次期筆頭文官補佐よ。そなたの指摘は極めて合理的であり、国の利益を守るものだ。技術局の検証を待つまでもない」
殿下の言葉に、会場中から感嘆の溜め息が漏れた。
次期筆頭文官補佐。
それは、ルシウス様のパートナーとして公に認められたことを意味する称号だった。
「ひ、殿下……お待ちください! これは誤解です! 彼女は口が達者なだけで……」
アーネストが必死に食い下がろうとする。
往生際が悪い。
まだ自分が助かる道があると思っているのだろうか。
ルシウス様が、ゆったりと立ち上がった。
その動作だけで、アーネストがビクリと肩を跳ねさせて黙る。
ルシウス様は私の前に立つと、会場全体を見渡すようにして口を開いた。
「誤解、か。……ならば、その誤解を解くための『本当の証拠』を提示しよう」
彼が指を鳴らすと、控えの扉が開き、数人の衛兵が入ってきた。
彼らが運んできたのは、一台のワゴン。
そこには、山のような書類と、封印された木箱が積まれていた。
「これは……?」
「クライヴ卿の執務室から押収した、未処理の書類と……裏帳簿の原本だ」
ルシウス様の宣告に、アーネストの喉から「ひゅっ」という音が漏れた。
「筆跡鑑定の結果、改竄を行ったのはクライヴ卿本人であることが確定している。……さらに、この裏帳簿には、彼が横領した公金の使い道が詳細に記されていた。賭博、贈賄、そして……愛人への手当」
ルシウス様は冷徹に事実を読み上げた。
もはや会議ではない。
これは公開処刑だ。
私は隣で震えるアーネストを見た。
かつて私が愛そうと努力した男性。
けれど今、そこにいるのは、ただの抜け殻だった。
虚飾の皮を剥がされ、中身の空っぽさを晒された哀れな道化。
不思議と、憎しみは湧かなかった。
あるのは、ただ「終わった」という静かな安堵感だけ。
私の青い万年筆が、胸ポケットで微かな熱を帯びている気がした。
それは、私が自分の手で未来を勝ち取った証の熱だった。
「……アーネスト様」
私は彼に聞こえるだけの声量で、最後に呼びかけた。
「さようなら。……今度こそ、本当に」
彼は私を見た。
その瞳には、後悔の色が浮かんでいたかもしれない。あるいは、まだ理解できていないのかもしれない。
どちらにせよ、もう私には関係のないことだ。
ルシウス様が私の肩に手を置いた。
その温もりが、私を現実へと引き戻す。
私たちは並んで立っている。
対等なパートナーとして、同じ未来を見据えて。
会議室の扉が、重々しい音を立てて閉ざされる気配がした。
それは、アーネストという過去が、私の人生から完全に切り離された音だった。




