第6話 歪んだ告発状と青いペンの重み
床に散らばったティーカップの破片を二人で拾い集めた時の、ルシウス様の指先の温もりが、数日経った今も私のお守りになっていた。
私は王宮の大会議室の控え室で、手元の資料に最終チェックを入れていた。
今日は「北部水路整備計画」の最終予算決定会議だ。
国の物流を左右する重要案件であり、私がルシウス様の補佐として初めて公式に出席する大きな舞台でもある。
ロイヤルブルーのインクで修正を書き込んだページをめくるたび、この数週間で積み上げてきた努力が、確かな自信となって胸を満たしていく。
「……準備はいいか、エリシア」
扉が開き、ルシウス様が入ってきた。
いつも以上に厳格な礼装を纏っているが、私に向けられる眼差しだけは春の日差しのように柔らかい。
「はい。資料の不備はありません」
「いい顔だ。……ご両親への挨拶も済ませたし、この会議が終われば、晴れて正式な婚約発表ができる」
彼は私の手元にある万年筆──彼が贈ってくれた青い軸のもの──に視線を落とし、満足げに頷いた。
実家での騒動の後、彼は私の両親に改めて頭を下げ、私を生涯のパートナーとして迎えたいと申し入れてくれた。両親は恐縮しながらも、涙を流して喜んでくれた。
もう、憂いはないはずだ。
「行きましょう。殿下もお待ちです」
ルシウス様に促され、私は資料を抱えて立ち上がった。
革の表紙の重みが、責任の重さと心地よくリンクする。
廊下に出ると、張り詰めた空気が肌を刺した。
この会議には、関係各所の貴族や大臣だけでなく、あのアーネストも担当部署の責任者代理として出席することになっている。
あの騒動以来、彼は文官室に姿を見せていなかった。
どう出てくるか分からない不気味さが、背筋を冷たい指でなぞるようだった。
大会議室の重厚な扉が開かれる。
中は既に多くの出席者で埋まり、低い話し声がざわめきとなっていた。
長大な円卓の上座には王弟殿下が座り、その鋭い視線で書類に目を通している。
私はルシウス様の後ろに従い、補佐官用の席へと向かった。
その途中、円卓の末席に座る男と目が合った。
アーネストだ。
数日ぶりに見る彼は、驚くほど身なりを整えていた。
整髪料で撫でつけられた髪、新調したような光沢のある上着。
けれど、その目は充血し、口元には抑制の効かない歪んだ笑みが張り付いている。
私と目が合うと、彼はニタリと唇を吊り上げ、手元の分厚いファイルを指先で叩いてみせた。
「……ッ」
私は反射的に息を呑み、視線を逸らした。
嫌な予感がする。
あの目は、反省の色など微塵もない。むしろ、獲物を罠に嵌める瞬間を待ちわびる捕食者の目だ。
あるいは、追い詰められた獣の、最後の狂気か。
「着席せよ」
王弟殿下の低い声が響き、会議が始まった。
進行役の大臣が議題を読み上げ、予算案の審議が進んでいく。
ルシウス様は的確に発言し、懸念点を潰していく。その横で、私は必要なデータを即座に提示し、彼の論理を補強する。
完璧な連携だった。
私たちの間には、言葉以上の信頼が通い合っている。
会議は順調に進み、いよいよ最終承認の段階に入ろうとした時だった。
「──お待ちください、殿下」
場違いなほど明るく、甲高い声が静寂を切り裂いた。
アーネストが挙手をして立ち上がっていた。
全員の視線が彼に集まる。
彼は注目を浴びていることに酔いしれるように、大袈裟に胸を張った。
「この計画案には、重大な欠陥がございます。承認するわけにはいきません」
「欠陥だと? クライヴ卿、それは既に技術局との調整で解決済みのはずだが」
殿下が不快そうに眉をひそめたが、アーネストは動じない。
彼は手元のファイルを高々と掲げた。
「技術的な問題ではありません。……信用の問題です。この計画の根幹をなす試算データに、意図的な改竄が見つかりました」
改竄。
その不穏な単語に、会議室がざわめいた。
私は自分の手元の資料を強く握りしめた。
そんなはずはない。このデータは、私が何度も検算し、ルシウス様も確認したものだ。
「誰がそのようなことを」
「残念ながら……この場にいる、エリシア・ヴァレンシュタイン嬢です」
アーネストが、芝居がかった仕草で私を指差した。
数百の視線が一斉に私に突き刺さる。
驚愕、疑念、そして軽蔑。
私は血の気が引くのを感じたが、ここで俯いてはいけないと理性が叫んだ。
「証拠はあるのか」
ルシウス様が、氷点下の声で問い返した。
彼は私を見なかったが、その背中からは怒気が立ち昇っているのが分かる。
「もちろんですとも、アルベルト卿。……あなたが彼女の色香に惑わされ、見落としていた証拠がね」
アーネストは勝ち誇った顔で、出席者たちにプリントを配布し始めた。
私の手元にも、一枚の紙が配られる。
それは、数ヶ月前の日付が入った、古い試算表のコピーだった。
右下の担当者欄には、私の署名がある。
そして、赤ペンで囲まれた数値の箇所には、明らかに桁の違う数字が記されていた。
「ご覧ください。これは、彼女が担当していた初期段階のコスト計算書です。彼女はここで、資材費を意図的に低く見積もり、予算を通りやすく工作していました。……その差額を、どこへ流用するつもりだったのかは知りませんがね」
アーネストは肩をすくめ、嘲笑を含んだ視線を私に向けた。
その目は語っていた。
『お前が僕にしたように、僕もお前の不正を暴いてやる』と。
私は配布された紙を凝視した。
指先が震える。
確かに、これは私の筆跡だ。署名も私のものだ。
だが、この数字──。
『資材費単価:500ゴールド』
ありえない。
私は当時、市場価格の変動を考慮して『800ゴールド』と記入したはずだ。
5と8。書き換えようと思えば、容易に書き換えられる数字。
誰かが、原本に手を加えたのだ。
そして、その原本を管理していたのは──。
「……当時、この書類の最終承認印を押したのは、あなたのはずですが」
私は立ち上がり、静かに反論した。
声が震えないよう、腹に力を込める。
アーネストは待ってましたとばかりにニヤリと笑った。
「ああ、そうだ。僕は君を信じていたからね。君がそんな不正をするなんて思いもしなかったから、検算せずに印を押してしまった。……それは僕の監督不行き届きだ。だが、実際に数字を書き込んだのは君だ」
彼は「信じていたのに裏切られた上司」という役を見事に演じていた。
周囲の空気が変わる。
「やはり、あの噂は本当だったのか」「男をたぶらかしてのし上がった女狐か」という囁きが聞こえてくる。
彼らは真実を知らない。
分かりやすいスキャンダルと、もっともらしい証拠の前では、私の積み上げてきた信頼など脆いものなのだ。
「弁明はあるか、レディ・ヴァレンシュタイン」
王弟殿下が私を見た。
その目は冷徹だが、まだ私を断罪してはいない。説明を求めている目だ。
私はルシウス様を見た。
彼は何も言わず、ただ腕を組んでアーネストを見据えている。
助け舟を出そうとはしない。
これは、彼からの試練だ。
『君は自分の足で立っている』と言ってくれた彼に対する、証明の機会だ。
私は青い万年筆を手に取った。
その冷ややかな感触が、私に冷静さを取り戻させる。
アーネストが提示したこの紙切れ一枚で、私の全てを否定できると思っているなら、それは大きな間違いだ。
「殿下。……この資料は、捏造されたものです」
私はきっぱりと言い切った。
「捏造だと? 見苦しいぞエリシア! 自分の筆跡だろう!」
「ええ、筆跡は私のです。ですが、この『500』という数字。……ここだけ、インクの滲み方が不自然ではありませんか?」
私は万年筆の先で、問題の箇所を示した。
「私が当時使用していたインクは、王宮支給の安価な没食子インクです。経年劣化で黒く変色します。ですが、この加筆された曲線部分は……まだ青みが残っている。最近、上書きされた証拠です」
会場がざわめく。
アーネストの顔が引きつった。
「そ、そんな細かいこと……コピーの加減だろう!」
「いいえ。それに、もっと根本的な矛盾があります」
私は一歩、彼に近づいた。
かつては恐怖の対象だったその男が、今はただの、浅はかな嘘つきにしか見えない。
「この単価で計算すると、総工費の合計は奇数になります。しかし、あなたの提示した合計欄は偶数になっている。……書き換えた数字に合わせて、合計を修正するのを忘れたのではありませんか?」
私の指摘に、出席者たちが一斉に電卓を叩き、あるいは暗算を始めた。
沈黙。
そして、誰かが「あっ」と声を上げた。
「……本当だ。計算が合わない」
「合計額と内訳が食い違っているぞ」
空気が反転する。
疑念の矛先が、私からアーネストへと急旋回する。
彼の額から、大量の汗が吹き出した。
「な、な……計算ミスだ! 単なる表記のミスで……!」
「重要な告発の証拠資料で、計算ミスですか?」
私は冷ややかに首を傾げた。
それは、かつて彼が私に何度も投げつけた言葉そのものだった。
『お前は詰めが甘い』『もっと完璧にやれ』。
その言葉を、今、彼自身に突き返す。
「それに、原本は文官室の保管庫にあるはずです。今すぐ取り寄せて、インクの成分鑑定を行えば、誰がいつ書き足したか、すぐに分かりますわ」
「ひっ……!」
アーネストが後ずさった。
その反応が、何よりの自白だった。
彼は私を陥れるために、過去の書類を引っ張り出し、浅知恵で改竄を加えたのだ。そして、その杜撰な計算ミスに気づかないほど、彼は実務から離れていた。
ルシウス様が、ゆっくりと立ち上がった。
その威圧感に、アーネストが椅子にぶつかって尻餅をつきそうになる。
「……勝負あったな」
ルシウス様が殿下に向かって一礼した。
「殿下。この茶番は終了です。……これより先は、彼の『告発』ではなく、彼自身の『罪』についての審議が必要かと存じますが」
殿下が重々しく頷いた。
その目は、もはやアーネストを一人の文官としては見ていなかった。
汚らわしいものを見る目。
それが、彼の社会的死刑宣告だった。
私は万年筆を胸のポケットにしまった。
心臓はまだ早鐘を打っているけれど、手足の震えは止まっていた。
私は逃げなかった。
彼の悪意に正面から立ち向かい、論理という武器で打ち砕いた。
アーネストが何かを喚いているが、もう耳に入らなかった。
私の隣には、誇らしげに私を見守るルシウス様がいる。
それだけで十分だった。
この会議が終われば、すべてが終わる。
そして、本当の「私たち」が始まるのだ。




