第5話 黒革のファイルと私の声
ルシウス様が部屋に入ってきた瞬間、空間を支配していた暴風のような怒声が、嘘のように止んだ。
私は割れたティーカップの破片が散らばる床を見つめたまま、浅い呼吸を繰り返していた。
心臓の音がうるさい。
けれど、背後に彼がいるという事実だけで、震えていた膝に微かな力が戻ってくるのを感じる。
彼は私の隣に立つと、クライヴ伯爵夫妻を見下ろすように、ゆっくりと眼鏡の位置を直した。その仕草は優雅だが、レンズの奥には絶対零度の冷徹さが宿っている。
「……ア、アルベルト卿」
先に声を絞り出したのは、クライヴ伯爵だった。
さっきまでの威圧的な態度はどこへやら、顔を引きつらせ、額に脂汗を浮かべている。
相手は王宮筆頭文官であり、王弟殿下の懐刀と呼ばれる男だ。
一介の伯爵に過ぎないクライヴ夫妻にとって、彼は権力という名の壁そのものに見えるだろう。
「な、なぜここに……? これは内輪の揉め事だ。部外者が口を出すことでは……」
「部外者?」
ルシウス様は眉一つ動かさず、持っていた黒革のファイルをテーブルの上に置いた。
ドサリ、という重たい音が、部屋の空気を振動させる。
「私の婚約者が、自宅で不当な脅迫を受けていると連絡を受けた。……これを公務と言わずして何と言う」
「こ、婚約者だと? 認めん! エリシアはうちのアーネストと……」
「その件については、既に法的・社会的に決着がついているはずですが」
ルシウス様はファイルを開いた。
中には、びっしりと文字が埋まった書類が何枚も綴じられている。
青いインクではなく、無機質な黒い活字の羅列。
それは、彼がこの数日間で積み上げてきた、冷徹な「事実」の塊だった。
「ご子息、アーネスト・クライヴ卿の勤務態度、および予算の不正流用疑惑に関する調査報告書です」
「な……!?」
「よ、予算の……流用……?」
伯爵夫人が扇子を取り落とした。
カタン、という乾いた音が、彼女の虚勢が崩れる音に聞こえた。
「東棟サロンでの飲食費、個人的な狩猟会の経費、さらには女性関係への贈答品代……。これらはすべて、王宮の予備費および部署の経費として計上されています。その総額は、ヴァレンシュタイン家への慰謝料を請求するどころか、クライヴ家が国庫に返納すべき額を遥かに超えていますが」
ルシウス様は淡々と、まるで今日の天気の話でもするように告げた。
書類を一枚めくるたびに、伯爵の顔色から血の気が引いていく。
アーネストは「仕事が忙しい」と言って、私との約束を破り続けてきた。
その裏で、彼は国の金を使って遊んでいたのだ。
分かっていたはずなのに、改めて証拠として突きつけられると、怒りよりも虚しさで胸が空洞になるようだった。
「で、デタラメだ! アーネストがそんな……あの子は優秀なんだ! お前たちが罠に嵌めたんだろう!」
伯爵が立ち上がり、テーブルを叩いた。
だが、その手は小刻みに震えている。
自分の息子がそこまで愚かではないと信じたい親心なのか、それとも家の名誉が地に落ちる恐怖なのか。
「罠かどうかは、王宮監査局が判断します。……既に調査の手は入っていますよ」
ルシウス様は冷ややかに言い放ち、ファイルを閉じた。
パタン、という音が、断頭台の刃が落ちる音のように響く。
「これ以上、ここで騒ぎ立てるなら、即座に衛兵を呼びます。公務執行妨害と、私の婚約者への侮辱罪も追加して」
完全なる詰み(チェックメイト)だった。
反論の余地など、どこにもない。
伯爵は口をパクパクと動かし、夫人へすがるような目を向けたが、夫人も顔面蒼白で震えているだけだ。
勝った。
ルシウス様のおかげで、彼らは撤退するしかない。
私は守られたのだ。
いつものように。
──本当に、それでいいの?
心の奥で、小さな、けれど鋭い声がした。
私は自分の手を握りしめる。
ルシウス様は、私のために怒ってくれた。
私のために証拠を集め、私のためにここに駆けつけてくれた。
けれど、当の私はどうだ。
ただ彼の背中に隠れて、震えているだけではないか。
「私は間違っていない」と言いながら、肝心な時に自分の声で戦おうとしていない。
「……待ちなさいよ」
沈黙を破ったのは、伯爵夫人だった。
彼女は震える足で立ち上がり、憎悪に歪んだ目で私を睨みつけた。
「騙されないわよ……。証拠なんてどうせ捏造でしょう。あんたが……あんたが、色仕掛けでこの男をたぶらかして、書かせたに決まってる!」
彼女の言葉は、もはや論理など欠片もない、ただの罵詈雑言だった。
けれど、その矛先は確実に私に向けられている。
「エリシア! 答えなさい! あんた、この男に体を売って、アーネストを陥れたんでしょう!? そうに決まってる……地味で何の魅力もないあんたが、まともに愛されるわけがないもの!」
「貴様……ッ!」
ルシウス様の肩が怒りで跳ねた。
彼が踏み出そうとする気配を感じる。
彼は私を庇い、彼女を完全に黙らせる言葉を紡ぐだろう。
それで終わる。
それで、私は傷つかずに済む。
でも。
「……いいえ、違います」
私はルシウス様の前に出た。
彼が伸ばしかけた腕を、自分の体で遮るようにして。
ルシウス様が驚いたように息を呑む気配がした。
「エリシア……?」
私は震える足を床に踏ん張った。
膝が笑っている。
心臓が口から飛び出しそうだ。
それでも、私は顔を上げ、伯爵夫人を真っ直ぐに見据えた。
「私は、体を売ったのでも、色仕掛けをしたのでもありません」
声が裏返りそうになるのを、腹に力を入れて抑え込む。
机の引き出しにしまった、あの青い万年筆を思い浮かべる。
あのインクで綴った自分の名前に、恥じない自分でいたい。
「私は、アーネスト様の不誠実さに絶望し、自分の意思で婚約を解消しました。……そして、私の価値を正当に認め、大切にしてくださる方を選んだのです」
「なっ……生意気な! 親同士が決めたことに、お前の意思など関係ない!」
伯爵が怒鳴る。
以前なら、その声だけで竦み上がっていただろう。
けれど今は、その怒鳴り声が、ただの怯えの裏返しだと分かる。
「関係あります!」
私は叫んだ。
喉が痛くなるほどの声量で。
「私の人生です! 誰の道具でもない、私自身の時間です! それを誰と共に歩むかは、私が決めます!」
部屋の空気が静まり返った。
両親が、信じられないものを見るような目で私を見ている。
あのおとなしかったエリシアが。
いつも「はい」としか言わなかった娘が。
こんな大声で、伯爵相手に反論するなんて。
「……二度と、来ないでください」
私は声を落とし、静かに告げた。
「これ以上、私の大切な人たちを侮辱するなら、私にも考えがあります。……アーネスト様が私に押し付けた『裏帳簿』の写し、まだ手元に残っていますから」
それはハッタリだった。
裏帳簿などない。けれど、彼らにとっては心当たりのある「爆弾」に聞こえるはずだ。
案の定、夫妻の顔色が土気色に変わった。
「くっ……覚えていろ! こんなことで終わると思うなよ!」
伯爵は捨て台詞を吐くと、夫人を促して逃げるように部屋を出て行った。
玄関の扉が乱暴に閉まる音が、遠く響く。
終わった。
私はその場にへたり込みそうになったが、腰に回された温かい腕に支えられた。
「……よく言った」
耳元で、ルシウス様の声がした。
見上げると、彼は見たこともないほど誇らしげな、そして優しさに満ちた瞳で私を見ていた。
「驚いたよ。……君があんな風に啖呵を切るとは」
「……私も、驚いています」
私は自分の手を見た。
まだ微かに震えている。けれど、それは恐怖の震えではなく、戦い抜いた興奮によるものだった。
「でも、ルシウス様に守られるばかりでは、対等なパートナーになれないと思いましたから」
「馬鹿なことを」
彼は苦笑し、私の髪をそっと撫でた。
「君はもう、十分に強い。……私が守るまでもなく、君は君自身の足で立っている」
その言葉が、どんな宝石よりも嬉しかった。
私は彼の胸に額を預け、大きく息を吐いた。
彼の心音が、私の鼓動と重なる。
床に散らばったカップの破片に、窓からの光が反射していた。
それは、壊れてしまった過去の残骸であり、同時に、それを乗り越えた証でもあった。
「……片付けましょう」
「ああ、手伝おう」
ルシウス様が上着を脱ぎ、袖をまくる。
王宮の筆頭文官に掃除をさせるわけにはいかないと慌てたが、彼は聞く耳を持たなかった。
二人で破片を拾い集める時間は、不思議なほど穏やかで、満ち足りていた。
今日、私は初めて、自分の声で「NO」を突きつけた。
それは小さな一歩かもしれないけれど、私にとっては革命のような出来事だった。
黒革のファイルは、まだテーブルの上に置かれたままだ。
そこにある「事実」は、アーネストを追い詰めるための武器だ。
けれど、私にとっての最強の武器は、この人が隣にいてくれるという「自信」なのだと、改めて確信した。




