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私は間違っていないので、婚約者を辞めさせていただきます  作者: 九葉(くずは)
第2章

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第4話 震えるティーカップと実家への急襲

中庭での木漏れ日のような温かさが、まだ肌の奥に残っている気がした。


私は自室の机で、ルシウス様からいただいた万年筆の手入れをしていた。

柔らかい布で軸を磨くと、深いロイヤルブルーが艶やかに光を返す。

今日は休日だ。

王宮での甘やかな昼休みから三日が過ぎていた。

あの「公開デート」の効果は絶大で、私たちに向けられる視線から刺々しい悪意は消え、代わりに遠巻きにするような、あるいは微笑ましく見守るような空気が漂い始めていた。


「……幸せすぎて、怖いくらい」


独り言が漏れる。

インクの補充を確認し、ペンケースに収める。

カチリ、という小気味よい音が、今の充実した日々を象徴しているようだった。

今日は久しぶりに、溜まっていた私的な手紙の返事を書いたり、刺繍をしたりして過ごそう。

そう思って立ち上がりかけた時だった。


ドンドンドン!


階下から、荒々しく扉を叩く音と、怒鳴り声のようなものが聞こえてきた。

心臓が跳ねる。

普段は静かなヴァレンシュタイン伯爵邸に、これほどの騒音が響くことなどあり得ない。


「……何事?」


私は部屋を出て、階段の踊り場から玄関ホールを見下ろした。

そこには、青ざめた顔の執事と、それを押しのけるようにして入ってきた二人の人物がいた。

豪奢だが品のない毛皮のコート。

白髪混じりの髪を振り乱した初老の男と、ヒステリックに叫ぶ太った婦人。


見間違えるはずもない。

アーネストの両親、クライヴ伯爵夫妻だった。


「エリシアはどこだ! 隠しても無駄だぞ!」

「恩知らずな娘を出しない! よくもまあ、私たちの顔に泥を塗ってくれたわね!」


罵声がホールに反響する。

私は階段の手すりを握りしめた。

指先が一瞬で冷たくなる。

彼らは、アーネストの傲慢さをそのまま煮詰めたような両親だった。

婚約中も、事あるごとに「うちの息子と結婚できるのを光栄に思え」「ヴァレンシュタイン家のような貧乏貴族が」と私を蔑み、支配してきた人たちだ。


「……お父様、お母様。お客様です」


私は震える足を叱咤し、階段を降りていった。

父と母も奥から出てきたが、気弱な両親はクライヴ伯爵の剣幕に押され、オロオロとするばかりだ。

私が対応しなければ。

これは私が蒔いた種なのだから。


「あら、やっと出てきたわね! この泥棒猫!」


私を見るなり、クライヴ伯爵夫人が扇子で私を指差した。

その目は憎悪で燃え上がっている。


「泥棒猫とは、異なことを仰いますね」

「口答えをするんじゃないわよ! アーネストから聞いたわよ。あんた、職場で上司に色目を使って、うちの息子を捨てたんですってね!? しかも、あの子の手柄まで横取りして!」


夫人の言葉に、私は息を呑んだ。

アーネスト。

彼は両親に、そんな嘘をついていたのか。

自分の無能さと不正を棚に上げ、あくまで「被害者」として振る舞っているのだ。

呆れると同時に、底知れぬ恐怖が胃の腑を締め上げる。

この人たちは、真実など聞く耳を持たない。

自分たちの信じたいことだけを信じ、大声で相手を屈服させる──それが彼らのやり方だ。


「場所を変えましょう。……応接間へ」


玄関でこれ以上騒がれては、近所の噂になる。

私は努めて冷静を装い、彼らを応接間へと案内した。


部屋に入り、ソファに対面して座る。

メイドが紅茶を運んできたが、その手は怯えて震えていた。

カチャリ、とカップを置く音が、静寂の中でやけに大きく響く。


「単刀直入に言おう」


クライヴ伯爵が、ふんぞり返るように足を組んで言った。


「婚約破棄は無効だ。認めん」

「……はい?」

「当たり前だろう! 夜会での痴話喧嘩ごときで、家同士の契約が白紙になると思っているのか? これまでの結納金や、交際費、精神的苦痛への慰謝料……計算すれば莫大な額になるぞ。お前の家に払えるのか?」


伯爵はニヤリと笑った。

金の話。

彼らは私の実家が裕福でないことを知っていて、そこを突いてきているのだ。


「それに、アーネストは寛大だ。『エリシアが謝って戻ってくるなら、許してやってもいい』と言っている。感謝なさい!」

「……は?」


耳を疑った。

許してやる?

あれだけのことをしておきながら、まだ自分が上の立場にいると思っているのか。


「お断りします」


私は膝の上で拳を握り、はっきりと言った。


「私はアーネスト様と復縁するつもりはありません。婚約破棄の正当性は、王弟殿下の御前でも認められています」


「殿下の名前を出せば黙るとでも!? どうせ、あの色好みの文官……アルベルトとか言ったか? あいつに体を使って取り入って、殿下に嘘を吹き込ませたんだろう!」


夫人が金切り声を上げた。

ティーカップの中の紅茶が、振動で波紋を描く。


「訂正してください! ルシウス様はそのような方ではありません!」

「あら、随分と必死に庇うのね。図星だからでしょう?」


夫人は嘲笑いながら、身を乗り出した。

香水のきつい匂いが鼻をつく。


「いいこと、エリシア。あんたみたいな地味で何の取り柄もない女を貰ってやるのは、うちのアーネストくらいなものよ。それを勘違いして、一時の火遊びで人生を棒に振る気?」

「そうとも。今すぐアルベルト卿との関係を切り、王宮を辞めてアーネストに詫びを入れろ。そうすれば、側室……いや、愛人としてなら置いてやってもいいぞ」


伯爵の言葉に、吐き気がこみ上げた。

愛人。

彼らにとって、私は人間ですらないのだ。

ただの所有物。息子のプライドを満たし、雑用をこなすための便利な道具。


「……帰ってください」


声が震えた。

怒りだけではない。

三年間刷り込まれてきた「逆らえない」という恐怖が、身体の芯から蘇ってくる。

彼らの大声、蔑む視線、否定の言葉。

それらが、私の自尊心を削り取っていく。


「なんだその口の利き方は!」

「親の教育がなってないから、こんな売女に育つんだわ!」


両親まで罵倒され、私は唇を噛み切るほど強く食いしばった。

反論したい。

理路整然と、彼らの非を鳴らして追い返したい。

でも、喉が詰まって声が出ない。

手が震えて、目の前のティーカップさえ持ち上げられない。


怖い。

ルシウス様がいないと、私はこんなにも無力なのか。

青いインクで綴った決意は、彼らの暴力的な言葉の前では無意味なのか。


「おい、聞いてるのか! 返事をしろ!」


伯爵がテーブルを叩いた。

ガシャン!

カップが倒れ、ソーサーの上で砕け散る音がした。

私は悲鳴を上げそうになり、身を竦めた。


その時だった。


「……随分と賑やかですね」


玄関の方から、よく通る、しかし絶対零度の冷気を纏った声が響いた。

この場の全員が、弾かれたように扉の方を見る。


そこには、いつの間にか執事に案内されたルシウス様が立っていた。

休日のラフな格好ではなく、隙のないスーツ姿で。

その手には、分厚い革のファイルが握られている。


「ル、ルシウス様……どうして……?」

「君のご両親から連絡があったんだ。『娘が困っているようだ』とね」


彼は私を見て、一瞬だけ瞳を和らげた。

その視線だけで、凍りついていた心臓が再び動き出すのを感じた。

そして彼は、ゆっくりと視線をクライヴ伯爵夫妻へと移した。

その瞳から温度が消え、灰色の瞳が刃物のような光を放つ。


「さて、クライヴ伯爵。……私の婚約者に対して、『売女』とは聞き捨てなりませんね。その発言の法的根拠を、今すぐこの場で提示していただきましょうか」


ルシウス様が一歩踏み出すと、部屋の空気が一変した。

ただならぬ威圧感。

それは単なる暴力的な怒声とは違う、理と権威に裏打ちされた、本物の強者の覇気だった。


私は割れたカップの破片を見つめたまま、安堵で崩れ落ちそうになる体を必死に支えた。

来てくれた。

また、この人は私を救ってくれた。

でも──いつまでも、守られているだけでいいのだろうか。


震える手で、私は膝の上のスカートを握りしめた。

この恐怖と対峙しなければ、私は本当の意味で自由にはなれない。

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