第4話 震えるティーカップと実家への急襲
中庭での木漏れ日のような温かさが、まだ肌の奥に残っている気がした。
私は自室の机で、ルシウス様からいただいた万年筆の手入れをしていた。
柔らかい布で軸を磨くと、深いロイヤルブルーが艶やかに光を返す。
今日は休日だ。
王宮での甘やかな昼休みから三日が過ぎていた。
あの「公開デート」の効果は絶大で、私たちに向けられる視線から刺々しい悪意は消え、代わりに遠巻きにするような、あるいは微笑ましく見守るような空気が漂い始めていた。
「……幸せすぎて、怖いくらい」
独り言が漏れる。
インクの補充を確認し、ペンケースに収める。
カチリ、という小気味よい音が、今の充実した日々を象徴しているようだった。
今日は久しぶりに、溜まっていた私的な手紙の返事を書いたり、刺繍をしたりして過ごそう。
そう思って立ち上がりかけた時だった。
ドンドンドン!
階下から、荒々しく扉を叩く音と、怒鳴り声のようなものが聞こえてきた。
心臓が跳ねる。
普段は静かなヴァレンシュタイン伯爵邸に、これほどの騒音が響くことなどあり得ない。
「……何事?」
私は部屋を出て、階段の踊り場から玄関ホールを見下ろした。
そこには、青ざめた顔の執事と、それを押しのけるようにして入ってきた二人の人物がいた。
豪奢だが品のない毛皮のコート。
白髪混じりの髪を振り乱した初老の男と、ヒステリックに叫ぶ太った婦人。
見間違えるはずもない。
アーネストの両親、クライヴ伯爵夫妻だった。
「エリシアはどこだ! 隠しても無駄だぞ!」
「恩知らずな娘を出しない! よくもまあ、私たちの顔に泥を塗ってくれたわね!」
罵声がホールに反響する。
私は階段の手すりを握りしめた。
指先が一瞬で冷たくなる。
彼らは、アーネストの傲慢さをそのまま煮詰めたような両親だった。
婚約中も、事あるごとに「うちの息子と結婚できるのを光栄に思え」「ヴァレンシュタイン家のような貧乏貴族が」と私を蔑み、支配してきた人たちだ。
「……お父様、お母様。お客様です」
私は震える足を叱咤し、階段を降りていった。
父と母も奥から出てきたが、気弱な両親はクライヴ伯爵の剣幕に押され、オロオロとするばかりだ。
私が対応しなければ。
これは私が蒔いた種なのだから。
「あら、やっと出てきたわね! この泥棒猫!」
私を見るなり、クライヴ伯爵夫人が扇子で私を指差した。
その目は憎悪で燃え上がっている。
「泥棒猫とは、異なことを仰いますね」
「口答えをするんじゃないわよ! アーネストから聞いたわよ。あんた、職場で上司に色目を使って、うちの息子を捨てたんですってね!? しかも、あの子の手柄まで横取りして!」
夫人の言葉に、私は息を呑んだ。
アーネスト。
彼は両親に、そんな嘘をついていたのか。
自分の無能さと不正を棚に上げ、あくまで「被害者」として振る舞っているのだ。
呆れると同時に、底知れぬ恐怖が胃の腑を締め上げる。
この人たちは、真実など聞く耳を持たない。
自分たちの信じたいことだけを信じ、大声で相手を屈服させる──それが彼らのやり方だ。
「場所を変えましょう。……応接間へ」
玄関でこれ以上騒がれては、近所の噂になる。
私は努めて冷静を装い、彼らを応接間へと案内した。
部屋に入り、ソファに対面して座る。
メイドが紅茶を運んできたが、その手は怯えて震えていた。
カチャリ、とカップを置く音が、静寂の中でやけに大きく響く。
「単刀直入に言おう」
クライヴ伯爵が、ふんぞり返るように足を組んで言った。
「婚約破棄は無効だ。認めん」
「……はい?」
「当たり前だろう! 夜会での痴話喧嘩ごときで、家同士の契約が白紙になると思っているのか? これまでの結納金や、交際費、精神的苦痛への慰謝料……計算すれば莫大な額になるぞ。お前の家に払えるのか?」
伯爵はニヤリと笑った。
金の話。
彼らは私の実家が裕福でないことを知っていて、そこを突いてきているのだ。
「それに、アーネストは寛大だ。『エリシアが謝って戻ってくるなら、許してやってもいい』と言っている。感謝なさい!」
「……は?」
耳を疑った。
許してやる?
あれだけのことをしておきながら、まだ自分が上の立場にいると思っているのか。
「お断りします」
私は膝の上で拳を握り、はっきりと言った。
「私はアーネスト様と復縁するつもりはありません。婚約破棄の正当性は、王弟殿下の御前でも認められています」
「殿下の名前を出せば黙るとでも!? どうせ、あの色好みの文官……アルベルトとか言ったか? あいつに体を使って取り入って、殿下に嘘を吹き込ませたんだろう!」
夫人が金切り声を上げた。
ティーカップの中の紅茶が、振動で波紋を描く。
「訂正してください! ルシウス様はそのような方ではありません!」
「あら、随分と必死に庇うのね。図星だからでしょう?」
夫人は嘲笑いながら、身を乗り出した。
香水のきつい匂いが鼻をつく。
「いいこと、エリシア。あんたみたいな地味で何の取り柄もない女を貰ってやるのは、うちのアーネストくらいなものよ。それを勘違いして、一時の火遊びで人生を棒に振る気?」
「そうとも。今すぐアルベルト卿との関係を切り、王宮を辞めてアーネストに詫びを入れろ。そうすれば、側室……いや、愛人としてなら置いてやってもいいぞ」
伯爵の言葉に、吐き気がこみ上げた。
愛人。
彼らにとって、私は人間ですらないのだ。
ただの所有物。息子のプライドを満たし、雑用をこなすための便利な道具。
「……帰ってください」
声が震えた。
怒りだけではない。
三年間刷り込まれてきた「逆らえない」という恐怖が、身体の芯から蘇ってくる。
彼らの大声、蔑む視線、否定の言葉。
それらが、私の自尊心を削り取っていく。
「なんだその口の利き方は!」
「親の教育がなってないから、こんな売女に育つんだわ!」
両親まで罵倒され、私は唇を噛み切るほど強く食いしばった。
反論したい。
理路整然と、彼らの非を鳴らして追い返したい。
でも、喉が詰まって声が出ない。
手が震えて、目の前のティーカップさえ持ち上げられない。
怖い。
ルシウス様がいないと、私はこんなにも無力なのか。
青いインクで綴った決意は、彼らの暴力的な言葉の前では無意味なのか。
「おい、聞いてるのか! 返事をしろ!」
伯爵がテーブルを叩いた。
ガシャン!
カップが倒れ、ソーサーの上で砕け散る音がした。
私は悲鳴を上げそうになり、身を竦めた。
その時だった。
「……随分と賑やかですね」
玄関の方から、よく通る、しかし絶対零度の冷気を纏った声が響いた。
この場の全員が、弾かれたように扉の方を見る。
そこには、いつの間にか執事に案内されたルシウス様が立っていた。
休日のラフな格好ではなく、隙のないスーツ姿で。
その手には、分厚い革のファイルが握られている。
「ル、ルシウス様……どうして……?」
「君のご両親から連絡があったんだ。『娘が困っているようだ』とね」
彼は私を見て、一瞬だけ瞳を和らげた。
その視線だけで、凍りついていた心臓が再び動き出すのを感じた。
そして彼は、ゆっくりと視線をクライヴ伯爵夫妻へと移した。
その瞳から温度が消え、灰色の瞳が刃物のような光を放つ。
「さて、クライヴ伯爵。……私の婚約者に対して、『売女』とは聞き捨てなりませんね。その発言の法的根拠を、今すぐこの場で提示していただきましょうか」
ルシウス様が一歩踏み出すと、部屋の空気が一変した。
ただならぬ威圧感。
それは単なる暴力的な怒声とは違う、理と権威に裏打ちされた、本物の強者の覇気だった。
私は割れたカップの破片を見つめたまま、安堵で崩れ落ちそうになる体を必死に支えた。
来てくれた。
また、この人は私を救ってくれた。
でも──いつまでも、守られているだけでいいのだろうか。
震える手で、私は膝の上のスカートを握りしめた。
この恐怖と対峙しなければ、私は本当の意味で自由にはなれない。




