第3話 木漏れ日のサンドイッチと甘い策略
ガラス越しに見たアーネストの歪んだ表情が、まだ網膜の端にこびりついている気がした。
私は手元の万年筆を置き、眉間を揉みほぐすように指を当てた。
時計の針は正午を指している。
午前中の業務は、ルシウス様の的確な采配と、私の集中力によって驚くべき速度で片付いていた。かつてアーネストの分まで背負わされていた無益な労働が消え、純粋に「成果」だけを積み上げる時間は、砂時計の砂がサラサラと落ちるように滑らかで心地よかった。
「……エリシア」
不意に、頭上から穏やかな声が降ってきた。
顔を上げると、ルシウス様がいつもの無表情──けれど、私だけが読み取れる微かな笑みを瞳に湛えて立っていた。
「根を詰めすぎだ。休憩にしよう」
「あ、もうそんな時間ですか。……申し訳ありません、食堂へ行く準備を」
「いや、今日は外へ行く」
彼は私の言葉を遮り、バスケットを片手に持ち上げてみせた。
編み目の細かい、ピクニック用のバスケットだ。どこから用意したのか、中からは香ばしいパンの香りが漂っている。
「外、ですか?」
「ああ。中庭のベンチが空いているはずだ。……それに、少しばかり『演出』も必要だろう?」
彼は意味深に眼鏡の位置を直し、ウィンクめいた仕草をした。
演出。
その言葉の意味を、私は数秒遅れて理解した。
朝の回廊で浴びた、あの粘りつくような悪意ある視線。
「アーネストを捨てて上司に乗り換えた悪女」という根拠のない噂。
それを払拭するには、言葉ではなく、圧倒的な「事実」を見せつけるのが一番だと、彼は判断したのだ。
「……承知いたしました。お供します」
私は椅子から立ち上がり、スカートの皺を伸ばした。
彼の手にはバスケットがある。ならば、私の手は空いている。
彼は当然のように空いた手を差し出した。
私は少しだけ躊躇い、そしてそっとその手に指を重ねた。
温かい。
この体温に触れるたび、張り詰めていた神経がほぐれていくのが分かる。
執務室を出て、王宮の中庭へと向かう道中、やはり多くの視線が私たちに突き刺さった。
だが、朝とは少し空気が違っていた。
ルシウス様が、私をあまりにも大切そうに──まるで壊れ物を扱うようにエスコートしているからだろうか。
嘲笑よりも、困惑と好奇心の色が濃くなっている。
「あのアルベルト様が、あんなに優しそうな顔を……」
「まさか、本当に……?」
すれ違う女官たちの囁きが、風に乗って聞こえてくる。
ルシウス様は意に介さず、悠然と歩を進めた。
中庭に出ると、初夏の日差しが降り注ぎ、手入れされた芝生の緑が目に眩しかった。
昼休みということもあり、ベンチには多くの文官や貴族たちが憩っている。
私たちが現れると、場の空気が一瞬で変わった。
視線が集まる。
注目されている。
「ここがいい」
ルシウス様が選んだのは、大きな樫の木の下にある、中庭でも一際目立つベンチだった。
木漏れ日が揺れる特等席だ。
彼はハンカチを取り出し、ベンチの座面をさっと払うと、私を座らせた。
「ありがとうございます」
「いいや。……さて、広げようか」
彼がバスケットを開けると、中には色とりどりのサンドイッチが並んでいた。
ローストビーフ、スモークサーモン、そして新鮮な野菜。
王宮の厨房に特注したのだろうか。どれも宝石のように美しい。
「実は……私も、少し用意してきたものがあるのです」
私は持参していた小さな包みを、恐る恐る膝の上に出した。
朝、早起きして作ったサンドイッチだ。
以前の習慣で、つい自分の分を作ってしまったのだが、彼のと比べるとあまりに見劣りする。
「ほう? 君の手作りか」
「はい。でも、ルシウス様が用意されたものに比べれば、粗末なもので……」
「何を言う。……それが一番の御馳走だ」
彼は目を輝かせ、私の手から包みを奪うように受け取った。
中身は、シンプルな卵とハムのサンドイッチ。
パンの耳も少し不格好だ。
けれど、彼はそれを愛おしげに見つめると、躊躇なく一切れを口に運んだ。
「……美味い」
咀嚼し、飲み込んだ後、彼が深く息を吐いた。
「優しい味がする。……君そのものだ」
「そ、そんな大袈裟な……」
「本当だ。毎日でも食べたい」
真顔で言われ、私は頬が沸騰するのを感じた。
周囲の視線など忘れてしまいそうだ。
彼は残りのサンドイッチも大事そうに平らげると、今度はバスケットの中から自分が用意したローストビーフのサンドイッチを取り出した。
「さあ、次は君の番だ」
「え?」
「手を使わなくていい。……ほら」
彼はサンドイッチを摘み、私の口元へと差し出した。
いわゆる「あーん」というやつだ。
公衆の面前で。
しかも、相手はあの「氷の文官」と恐れられるルシウス様だ。
「ル、ルシウス様!? 人目があります!」
「だからこそ、だ」
彼は微動だにせず、サンドイッチを持ったまま微笑んだ。
その笑顔は、甘く、そしてどこか計算高い。
「私たちがどれほど親密で、私がどれほど君に惚れ込んでいるか。……それを周知させれば、下らない噂など一瞬で消える」
「それは……そうかもしれませんが……」
「嫌か?」
少しだけ寂しそうに眉を下げるのは、反則だ。
そんな顔をされたら、断れるはずがない。
私は覚悟を決め、小さく口を開けた。
彼が優しくサンドイッチを運んでくれる。
スパイシーなソースの味と、柔らかなパンの食感。
そして何より、彼に見つめられながら食べるという状況が、味覚以上の甘さを脳に送り込んでくる。
「……美味しい、です」
「そうか。なら、もっと食べろ」
彼は満足げに頷き、次々と私に食事を運び始めた。
口元の汚れを指先で拭ってくれたり、水筒から紅茶を注いでくれたり。
その甲斐甲斐しさは、周囲で見ている人々を完全に沈黙させた。
「おい、見たか……?」
「アルベルト様が、あんなにデレデレに……」
「あれは遊びじゃないぞ。本気だ」
「もしかして、クライヴ卿の方が捨てられたんじゃ……?」
風に乗って聞こえてくる囁きの内容が、明らかに変化していた。
「悪女」という評価が、「愛されている女性」へと書き換えられていく。
ルシウス様の策略通りだ。
けれど、この甘い時間は、単なる演出以上の意味を私に与えていた。
「エリシア」
食後の紅茶を飲みながら、彼がふと真面目な顔で私の名を呼んだ。
「無理をしていないか」
「え……?」
「急激な環境の変化だ。……私が強引すぎたかもしれないと、少し案じている」
彼は私の手を取り、指先を撫でた。
その気遣いに、私は首を横に振った。
「いいえ。……驚くことは多いですが、無理はしていません。むしろ……」
「むしろ?」
「こんなに大切にされることが、現実にあり得るのだと……まだ少し、夢を見ているような気分です」
正直な気持ちだった。
アーネストとの三年間、私は常に「足りない自分」を責め、尽くすことで存在意義を確認していた。
でも今は、ただそこにいるだけで、この人は私を全肯定してくれる。
その温かさに、心が溶けていくようだ。
「夢ではない」
彼は私の手を強く握り返した。
眼鏡の奥の瞳が、木漏れ日の中で優しく揺れている。
「これは現実だ。そして、これからもずっと続く日常だ。……慣れてくれ。私は君を甘やかすことをやめるつもりはないからな」
「……ふふ、困りましたね。仕事ができなくなってしまいます」
「仕事中は厳しくするさ。……二人きりの時だけだ」
彼は悪戯っぽく笑い、私の髪についた葉っぱを取ってくれた。
その指先の感触を、私は一生忘れないだろうと思った。
昼休みの終わりを告げる鐘が鳴る。
私たちはベンチを立った。
来た時と同じように、彼のエスコートで執務室へと戻る。
けれど、私の背中は来る時よりもずっと軽かった。
周囲の視線はまだある。
でも、もう怖くはない。
隣にいるこの人が作り出してくれた「事実」が、どんな噂よりも強い盾となって私を守ってくれている。
そして何より、私自身がこの幸せを「受け入れてもいいのだ」と思えたことが、一番の収穫だった。
「……午後も、頑張りましょうね。ルシウス様」
「ああ。……君のサンドイッチのおかげで、気力が充実している」
彼と並んで歩く廊下は、朝よりもずっと明るく見えた。
万年筆で綴る未来だけでなく、こうして重ねていく温かな記憶もまた、私の新しい人生の一部なのだ。




