第2話 崩壊する旧体制とガラス越しの喜劇
ロイヤルブルーのインクが紙に染み込む速度は、私の思考速度と心地よく同期していた。
新しい万年筆の滑らかな書き味を指先で確かめながら、私は手元の決済箱に最後の書類を放り込んだ。
時刻はまだ午前十時を回ったばかり。
以前の私なら、アーネストの不備だらけの下書きを解読し、清書し直すだけで午前中を費やしていた時間だ。それが今や、ルシウス様の的確な指示と、完璧に整備されたこの執務環境のおかげで、通常の三倍以上の速度で業務が進んでいる。
「……早いな」
隣の席から、感心したような声が降ってきた。
顔を上げると、ルシウス様が眼鏡のブリッジを中指で押し上げながら、私の積み上げた決裁済み書類の塔を見ていた。
「ルシウス様の指示書が的確ですから。迷う時間がありません」
「謙遜するな。私の指示を一度で理解し、補足データまで添付して仕上げる補佐官など、君以外にはいない」
彼は口元を僅かに緩め、手元のマグカップに口をつけた。
そのリラックスした仕草を見ているだけで、胸の奥がじんわりと温かくなる。
ここは、上席文官専用の執務エリア。
一般の文官室とは厚い防音ガラスで仕切られた、選ばれた者だけが入れる静寂の空間だ。
私は万年筆を置き、ガラス壁の向こう側に視線をやった。
そこには、昨日まで私がいた「戦場」が広がっている。
そして今、その戦場は文字通りの阿鼻叫喚に包まれようとしていた。
ガチャリ、と向こう側の扉が乱暴に開くのが見えた。
遅れて出勤してきたアーネストだ。
彼は顔色が悪く、目の下には濃い隈を作り、髪も整髪料で固めきれていない部分が跳ねていた。昨日の今日で、よくものうのうと顔を出せたものだと、逆に感心してしまう。
「おい! 僕の机はどうなっているんだ!」
ガラス越しでも聞こえるほどの怒声が響いた。
私は反射的に肩を強張らせたが、すぐにここが安全地帯であることを思い出し、深呼吸をして力を抜いた。
アーネストは自分のデスク──書類が雪崩を起こし、床まで散乱している惨状──を前にして、立ち尽くしていた。
「誰だ! こんな悪戯をしたのは! エリシアか!? あいつ、どこに行った!」
彼は周囲の同僚たちに喚き散らしている。
同僚たちは一様に冷ややかな視線を向け、関わり合いになりたくないという態度で顔を背けていた。
当然だ。
今までその「雪崩」を毎朝片付け、分類し、優先順位をつけて整えていたのは私なのだから。私がいない以上、彼が昨日放置して帰ったままの惨状がそこにあるのは、物理法則として必然だった。
「……見苦しいな」
ルシウス様が、書類から目を離さずに呟いた。
その声は氷のように冷たい。
「自分の尻も拭えぬ男が、国の予算を管理しようなどと。……喜劇にもならん」
「はい。……今までは、私が先に片付けてしまっていたので、彼は自分の机の惨状を見たことがなかったのです」
私は淡々と事実を告げた。
そう、私は彼を守りすぎていた。
彼が無能なのではなく、私が彼を無能なまま増長させてしまった側面もあるのかもしれない。
そんな自責の念が微かによぎったが、すぐに万年筆の冷たい軸を握りしめて振り払った。
それはもう、終わったことだ。
向こう側で、アーネストが通りがかった若手文官──彼の取り巻きの一人だった男──の胸倉を掴んだのが見えた。
「おい、お前! この『水路整備計画書』の続きはどこだ! B案の試算データがないぞ!」
「し、知りませんよ! クライヴ卿が管理していたんじゃないんですか!?」
「うるさい! いつもなら机の右上に置いてあるんだ! 誰かが隠したに違いない!」
彼は狂ったように書類の山を掘り返し始めた。
紙束が舞い上がり、インク壺が倒れて床を汚す。
見ているだけで胃が痛くなる光景だったが、不思議と「助けなければ」という衝動は起きなかった。
むしろ、冷徹な観察者としての視点が冴え渡る。
あの『水路整備計画書』なら、知っている。
彼が「面倒だ、後でやる」と言って、キャビネットの裏に滑り落ちたまま放置していたのを、私は一週間前に見ていた。
拾ってあげようとして、ルシウス様に止められたのだ。
『放置させておけ。それが彼の管理能力だ』と。
「……あんな状態で、午後の会議に間に合うのでしょうか」
「間に合わんさ。そして、それが彼の評価となる」
ルシウス様は残酷なまでに冷静だった。
彼は私の手元の書類を指先でトントンと叩いた。
「君は君の仕事をするんだ、エリシア。……あちら側の崩壊に、君が巻き込まれる必要はない」
「はい」
私は頷き、再び万年筆を走らせようとした。
その時だった。
書類の山を掻き回していたアーネストが、ふと顔を上げ、ガラス壁の向こうにいる私と目が合った。
彼の表情が凍りつき、次いで激しい憤怒に歪むのが見えた。
彼は書類を放り出し、大股でこちらへ向かってくる。
「エリシアァアア!!」
ガラスの防音効果を突き抜けるような絶叫と共に、彼がこちらのエリアへの入室扉に手をかけた。
だが、扉は開かない。
ルシウス様の権限で、IDロックが掛けられているからだ。
「開けろ! そこに隠したんだろう! 僕のデータを返せ!」
彼はガラスを拳で叩き始めた。
ドン、ドン、という鈍い音が響く。
その姿は、まるで動物園の檻の中で暴れる猿のようだった。
かつて愛した人が、これほどまでに理性的でなく、品位のない人間だったとは。
私は恐怖よりも先に、深い失望と、憐れみを感じていた。
ルシウス様が、ゆっくりと椅子から立ち上がった。
彼は私の前に立つように移動し、ガラス越しにアーネストを見下ろした。
威圧的な視線。
ただ無言で立っているだけなのに、その圧倒的な存在感に、アーネストが怯んだように手を止める。
ルシウス様は口を動かさず、指先で「去れ」と短くジェスチャーをした。
それだけで十分だった。
権力の差。
実力の差。
そして何より、人間としての格の差。
アーネストは顔を真っ赤にして何か捨て台詞を吐いたようだったが、これ以上騒げば衛兵を呼ばれると悟ったのか、踵を返して逃げ去っていった。
「……大丈夫か」
ルシウス様が振り返り、心配そうに眉を下げた。
私は小さく息を吐き、万年筆を置いた。
「はい。……ただ、少しだけ悲しいです」
「悲しい?」
「あんな人に、自分の人生を捧げようとしていた自分が、です」
私が自嘲気味に笑うと、ルシウス様は私の頭に大きな手を乗せた。
ポンポン、と不器用に撫でる。
「過去は変えられないが、未来は選べる。……今の君は、正しい場所にいる」
「……はい」
掌の温もりが、ささくれた心を癒やしていく。
私はガラスの向こう、再び混乱の渦に戻っていったアーネストの背中を見た。
もう、彼は私の世界にはいない。
ガラス一枚隔てた向こう側は、遠い異国よりも断絶された場所なのだ。
私はルシウス様の手の感触を反芻しながら、再び仕事に向き合った。
青いインクで綴る文字には、もう迷いはなかった。
崩れ落ちる音を背中で聞きながら、私は私自身の城を、この手で確実に築き上げていくのだ。




