第1話 青いインクと囁きの回廊
完結編スタートです!!!
月明かりの下で交わした誓いの熱が、まだ左手の薬指に残っているようだった。
私は鏡台の前で、最後の手順として真珠のイヤリングをつけた。
冷たい感触が耳たぶに触れ、意識を現実へと引き戻す。
昨夜、私はアーネストとの婚約を破棄し、ルシウス様の求婚を受け入れた。
それは夢物語ではなく、確かに起きた事実だ。
鏡の中の自分を見つめる。
昨日までの、どこか憂いを帯びていた瞳とは違う。そこには、自分の足で立つと決めた人間の、静かな光が宿っていた。
「……行きましょう」
私は小さく呟き、ハンドバッグを手にした。
中には、昨日ルシウス様から借りた白亜のハンカチが入っている。
それを指先で確かめるだけで、背筋がスッと伸びる気がした。
実家の馬車で王宮へと向かう道中、私は流れる景色を眺めながら、今日から始まる新しい日々をシミュレーションしていた。
もう、アーネストの顔色を窺う必要はない。
彼の仕事を肩代わりし、影のように振る舞う必要もない。
私は、王宮筆頭文官であるルシウス・アルベルト様の正式なパートナーとして、あそこへ向かうのだ。
けれど、王宮の正門をくぐり、馬車を降りた瞬間、私は違和感に気づいた。
衛兵たちの視線が、いつもより粘りつくように私を追っている。
すれ違う女官たちが、扇子で口元を隠しながら、何かを囁き合っている。
「……あれが、例の……」
「信じられないわ。あんな地味な方が……」
「婚約者を捨てて、すぐに上司に……なんて計算高い……」
風に乗って、切れ切れの言葉が鼓膜を刺す。
私は歩調を緩めず、回廊を進んだ。
予想はしていたことだ。
公衆の面前での婚約破棄。そして、その直後に別の男性と去っていった私。
事情を知らない人々にとって、それは格好のゴシップであり、あるいは私を「悪女」に見せる材料になるのだろう。
心臓が早鐘を打つ。
私は左手の薬指を、右手の掌でそっと覆った。
ルシウス様がくれたサファイアの指輪は、今日は外してきている。
まだ正式な手続きが終わっていない段階で、それを職場につけてくることは、彼に迷惑をかける可能性があると判断したからだ。
けれど、指輪がない指先は心もとなく、周囲の悪意が直接肌に触れるような寒気を感じさせた。
文官棟へ続く長い廊下は、針の筵だった。
前方から歩いてくる数人の若手文官たちが、私を見るなり露骨に顔をしかめ、避けるように壁際へ寄った。
彼らはアーネストと親しい、いわゆる「遊び仲間」のグループだ。
「おい、来たぞ。裏切り者が」
「よく平気な顔で来れるよな。クライヴ卿があんなに落ち込んでるのに」
「アルベルト様に取り入ったって本当か? 体を使ったんじゃないのか」
すれ違いざまに投げつけられた言葉に、足が止まりそうになる。
血の気が引いていくのが分かった。
違う。
事実は逆だ。
私が裏切ったのではない。私が利用されていたのだ。
そう叫び返したい衝動を、私は拳を握りしめて堪えた。
ここで感情的になれば、それこそ彼らの思う壺だ。アーネストが吹聴しているであろう「可哀想な僕と、ひどい女」という構図を補強してしまうだけだ。
「……無視するのよ、エリシア」
自分に言い聞かせ、私は再び歩き出そうとした。
だが、恐怖で足が重い。
この先にある文官室の扉を開けることが、途方もなく恐ろしいことに思えた。
あの中には、もっと多くの敵意が待ち受けているかもしれない。
私は一人で、それに耐えられるだろうか。
その時だった。
「──おはよう、エリシア」
凛とした声が、澱んだ空気を切り裂いた。
顔を上げるより早く、懐かしい珈琲の香りがふわりと鼻先を掠める。
廊下の角から現れたのは、いつも通り完璧に整えられた文官服を纏った、ルシウス様だった。
「ル、ルシウス様……」
名前を呼んだだけで、喉が震えた。
彼は私の顔色の悪さと、周囲の不穏な空気を一瞬で察知したのだろう。
銀縁眼鏡の奥の瞳が、鋭く周囲を射抜いた。
その視線に晒された若手文官たちは、弾かれたように顔を背け、逃げるように走り去っていく。
「……迎えに来た」
彼は私に向き直ると、声を和らげて言った。
そして、当然のように右手を差し出す。
「顔色が悪い。……眠れなかったか?」
「いえ、その……少し、緊張してしまって」
「そうか」
彼は短く頷き、私の手を取った。
大きくて、温かい掌。
その熱が触れた瞬間、私の指先を冷やしていた氷が溶けていく。
彼はそのまま、私の手を自分の腕に絡ませ、エスコートの体勢を取った。
「ルシウス様!? こ、ここは職場です。このような……」
「構わない。私のパートナーが誰であるか、周知させる手間が省ける」
彼は涼しい顔で言い放ち、歩き出した。
王宮の廊下で、筆頭文官が部下の女性をエスコートする。
それは前代未聞の光景だったはずだ。
すれ違う人々が驚愕に目を見開き、そして慌てて道を開ける。
さっきまでの嘲笑や陰口は、波が引くように消え失せ、代わりに畏怖と困惑が広がっていく。
「堂々としていろ」
前を見据えたまま、彼が小声で囁いた。
「君は何も悪いことはしていない。……私が選んだ女性だということを、胸を張って証明してくれ」
その言葉は、どんな盾よりも強固に私を守ってくれた。
私は彼の腕に回した手に、少しだけ力を込める。
頼もしい筋肉の感触。
この人が隣にいるなら、私はどんな悪意の中でも歩いていける。
文官室の扉の前に着く頃には、私の呼吸はすっかり落ち着いていた。
ルシウス様が自ら扉を開ける。
室内の空気が一瞬で張り詰めるのが分かった。
「おはよう」
彼が短く告げると、全員が一斉に起立し、礼をとった。
その中には、アーネストの姿はなかった。
彼の席は無惨に荒れ、未処理の書類が雪崩のように崩れ落ちていたが、主の姿は見当たらない。
「エリシア。君の席は今日からここだ」
ルシウス様が導いたのは、部屋の最奥。
上席文官エリアにある、彼自身の執務机のすぐ隣に新設されたデスクだった。
ガラスで仕切られたその場所は、一般の文官たちの喧騒から切り離された、静謐な空間だ。
「え……でも、ここは……」
「私の直属補佐官としての席だ。……これなら、変な虫も寄りつかないだろう」
彼は誰に聞かせるでもなく呟き、私の椅子を引いてくれた。
その過保護さに、私は頬が熱くなるのを感じながら、礼を言って腰を下ろした。
机の上には、真新しい革のデスクマットと、一本の箱が置かれていた。
濃紺のベルベットで作られた、細長い小箱。
「これは……?」
「開けてみてくれ。就任祝いだ」
促され、私は箱のリボンを解いた。
蓋を開けると、そこには深い青色の軸を持つ、美しい万年筆が収められていた。
ペン先には繊細な彫刻が施され、プラチナの装飾が上品に輝いている。
「綺麗な……万年筆ですね」
「特注品だ。インクも、君のために調合させた」
彼は自分のペン立てからインク瓶を取り出し、万年筆に吸入して見せた。
そして、試し書き用のメモ用紙を私に差し出す。
私は震える手で万年筆を受け取った。
程よい重みが、指に馴染む。
ペン先を紙に滑らせると、驚くほど滑らかにインクが流れ出した。
その色は、黒でもありきたりなブルーブラックでもない。
夜明け前の空のような、深く、澄んだ青色だった。
「ロイヤルブルーに、少しだけ夜の色を混ぜた。……君が一人で耐えていた夜を、これからは私が塗り替えるという意味を込めて」
キザな台詞を、彼は至って真面目な顔で言った。
私は胸がいっぱいになり、言葉が出てこなかった。
アーネストは、私が使うペンなど気にしたこともなかった。インクが切れれば「遅い」と舌打ちし、私の指が汚れることなど何とも思っていなかった。
けれどこの人は、私が文字を綴る道具ひとつにさえ、こんなにも深い愛を込めてくれる。
「ありがとうございます、ルシウス様。……大切に、使います」
「ああ。それで、これからの君の人生を綴ってくれ。……私と共に」
彼は満足げに微笑むと、自分の席へと戻っていった。
ガラス越しの隣の席。
距離にして数メートル。
けれど、その距離は断絶ではなく、いつでも手が届くという安心感に満ちていた。
私は新しい万年筆を握りしめた。
まだ周囲からの好奇の視線は消えていない。
アーネストが流した悪評も、完全に晴れたわけではないだろう。
けれど、この青いインクで仕事を積み重ねていけば、きっと真実は伝わるはずだ。
「……やりましょう」
私は最初の仕事として、出勤簿に自分の名前を記した。
『Elysia』。
流れるような青い文字は、昨日までの弱々しい筆跡とは違い、力強く紙の上に定着した。
私の戦いは、まだ終わっていない。
むしろ、ここからが本当の始まりなのだ。
愛する人の隣にふさわしい自分になるための、誇り高い戦いが。
私は顔を上げ、ガラス越しにルシウス様を見た。
彼もまた、書類から目を上げ、私を見ていた。
目が合うと、彼は片目をつぶってみせた。
そんな子供っぽい仕草をするなんて。
私は思わず吹き出しそうになり、口元を手で隠した。
不安はもう、青いインクの中に溶けて消えていた。
私はこの場所で、生きていく。




