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私は間違っていないので、婚約者を辞めさせていただきます  作者: 九葉(くずは)
第2章

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第1話 青いインクと囁きの回廊

完結編スタートです!!!

月明かりの下で交わした誓いの熱が、まだ左手の薬指に残っているようだった。


私は鏡台の前で、最後の手順として真珠のイヤリングをつけた。

冷たい感触が耳たぶに触れ、意識を現実へと引き戻す。

昨夜、私はアーネストとの婚約を破棄し、ルシウス様の求婚を受け入れた。

それは夢物語ではなく、確かに起きた事実だ。

鏡の中の自分を見つめる。

昨日までの、どこか憂いを帯びていた瞳とは違う。そこには、自分の足で立つと決めた人間の、静かな光が宿っていた。


「……行きましょう」


私は小さく呟き、ハンドバッグを手にした。

中には、昨日ルシウス様から借りた白亜のハンカチが入っている。

それを指先で確かめるだけで、背筋がスッと伸びる気がした。


実家の馬車で王宮へと向かう道中、私は流れる景色を眺めながら、今日から始まる新しい日々をシミュレーションしていた。

もう、アーネストの顔色を窺う必要はない。

彼の仕事を肩代わりし、影のように振る舞う必要もない。

私は、王宮筆頭文官であるルシウス・アルベルト様の正式なパートナーとして、あそこへ向かうのだ。


けれど、王宮の正門をくぐり、馬車を降りた瞬間、私は違和感に気づいた。

衛兵たちの視線が、いつもより粘りつくように私を追っている。

すれ違う女官たちが、扇子で口元を隠しながら、何かを囁き合っている。


「……あれが、例の……」

「信じられないわ。あんな地味な方が……」

「婚約者を捨てて、すぐに上司に……なんて計算高い……」


風に乗って、切れ切れの言葉が鼓膜を刺す。

私は歩調を緩めず、回廊を進んだ。

予想はしていたことだ。

公衆の面前での婚約破棄。そして、その直後に別の男性と去っていった私。

事情を知らない人々にとって、それは格好のゴシップであり、あるいは私を「悪女」に見せる材料になるのだろう。


心臓が早鐘を打つ。

私は左手の薬指を、右手の掌でそっと覆った。

ルシウス様がくれたサファイアの指輪は、今日は外してきている。

まだ正式な手続きが終わっていない段階で、それを職場につけてくることは、彼に迷惑をかける可能性があると判断したからだ。

けれど、指輪がない指先は心もとなく、周囲の悪意が直接肌に触れるような寒気を感じさせた。


文官棟へ続く長い廊下は、針のむしろだった。

前方から歩いてくる数人の若手文官たちが、私を見るなり露骨に顔をしかめ、避けるように壁際へ寄った。

彼らはアーネストと親しい、いわゆる「遊び仲間」のグループだ。


「おい、来たぞ。裏切り者が」

「よく平気な顔で来れるよな。クライヴ卿があんなに落ち込んでるのに」

「アルベルト様に取り入ったって本当か? 体を使ったんじゃないのか」


すれ違いざまに投げつけられた言葉に、足が止まりそうになる。

血の気が引いていくのが分かった。

違う。

事実は逆だ。

私が裏切ったのではない。私が利用されていたのだ。

そう叫び返したい衝動を、私は拳を握りしめて堪えた。

ここで感情的になれば、それこそ彼らの思う壺だ。アーネストが吹聴しているであろう「可哀想な僕と、ひどい女」という構図を補強してしまうだけだ。


「……無視するのよ、エリシア」


自分に言い聞かせ、私は再び歩き出そうとした。

だが、恐怖で足が重い。

この先にある文官室の扉を開けることが、途方もなく恐ろしいことに思えた。

あの中には、もっと多くの敵意が待ち受けているかもしれない。

私は一人で、それに耐えられるだろうか。


その時だった。


「──おはよう、エリシア」


凛とした声が、澱んだ空気を切り裂いた。

顔を上げるより早く、懐かしい珈琲の香りがふわりと鼻先を掠める。

廊下の角から現れたのは、いつも通り完璧に整えられた文官服を纏った、ルシウス様だった。


「ル、ルシウス様……」


名前を呼んだだけで、喉が震えた。

彼は私の顔色の悪さと、周囲の不穏な空気を一瞬で察知したのだろう。

銀縁眼鏡の奥の瞳が、鋭く周囲を射抜いた。

その視線に晒された若手文官たちは、弾かれたように顔を背け、逃げるように走り去っていく。


「……迎えに来た」


彼は私に向き直ると、声を和らげて言った。

そして、当然のように右手を差し出す。


「顔色が悪い。……眠れなかったか?」

「いえ、その……少し、緊張してしまって」

「そうか」


彼は短く頷き、私の手を取った。

大きくて、温かい掌。

その熱が触れた瞬間、私の指先を冷やしていた氷が溶けていく。

彼はそのまま、私の手を自分の腕に絡ませ、エスコートの体勢を取った。


「ルシウス様!? こ、ここは職場です。このような……」

「構わない。私のパートナーが誰であるか、周知させる手間が省ける」


彼は涼しい顔で言い放ち、歩き出した。

王宮の廊下で、筆頭文官が部下の女性をエスコートする。

それは前代未聞の光景だったはずだ。

すれ違う人々が驚愕に目を見開き、そして慌てて道を開ける。

さっきまでの嘲笑や陰口は、波が引くように消え失せ、代わりに畏怖と困惑が広がっていく。


「堂々としていろ」


前を見据えたまま、彼が小声で囁いた。


「君は何も悪いことはしていない。……私が選んだ女性だということを、胸を張って証明してくれ」


その言葉は、どんな盾よりも強固に私を守ってくれた。

私は彼の腕に回した手に、少しだけ力を込める。

頼もしい筋肉の感触。

この人が隣にいるなら、私はどんな悪意の中でも歩いていける。


文官室の扉の前に着く頃には、私の呼吸はすっかり落ち着いていた。

ルシウス様が自ら扉を開ける。

室内の空気が一瞬で張り詰めるのが分かった。


「おはよう」


彼が短く告げると、全員が一斉に起立し、礼をとった。

その中には、アーネストの姿はなかった。

彼の席は無惨に荒れ、未処理の書類が雪崩のように崩れ落ちていたが、主の姿は見当たらない。


「エリシア。君の席は今日からここだ」


ルシウス様が導いたのは、部屋の最奥。

上席文官エリアにある、彼自身の執務机のすぐ隣に新設されたデスクだった。

ガラスで仕切られたその場所は、一般の文官たちの喧騒から切り離された、静謐な空間だ。


「え……でも、ここは……」

「私の直属補佐官としての席だ。……これなら、変な虫も寄りつかないだろう」


彼は誰に聞かせるでもなく呟き、私の椅子を引いてくれた。

その過保護さに、私は頬が熱くなるのを感じながら、礼を言って腰を下ろした。


机の上には、真新しい革のデスクマットと、一本の箱が置かれていた。

濃紺のベルベットで作られた、細長い小箱。


「これは……?」

「開けてみてくれ。就任祝いだ」


促され、私は箱のリボンを解いた。

蓋を開けると、そこには深い青色の軸を持つ、美しい万年筆が収められていた。

ペン先には繊細な彫刻が施され、プラチナの装飾が上品に輝いている。


「綺麗な……万年筆ですね」

「特注品だ。インクも、君のために調合させた」


彼は自分のペン立てからインク瓶を取り出し、万年筆に吸入して見せた。

そして、試し書き用のメモ用紙を私に差し出す。


私は震える手で万年筆を受け取った。

程よい重みが、指に馴染む。

ペン先を紙に滑らせると、驚くほど滑らかにインクが流れ出した。

その色は、黒でもありきたりなブルーブラックでもない。

夜明け前の空のような、深く、澄んだ青色だった。


「ロイヤルブルーに、少しだけ夜の色を混ぜた。……君が一人で耐えていた夜を、これからは私が塗り替えるという意味を込めて」


キザな台詞を、彼は至って真面目な顔で言った。

私は胸がいっぱいになり、言葉が出てこなかった。

アーネストは、私が使うペンなど気にしたこともなかった。インクが切れれば「遅い」と舌打ちし、私の指が汚れることなど何とも思っていなかった。

けれどこの人は、私が文字を綴る道具ひとつにさえ、こんなにも深い愛を込めてくれる。


「ありがとうございます、ルシウス様。……大切に、使います」

「ああ。それで、これからの君の人生を綴ってくれ。……私と共に」


彼は満足げに微笑むと、自分の席へと戻っていった。

ガラス越しの隣の席。

距離にして数メートル。

けれど、その距離は断絶ではなく、いつでも手が届くという安心感に満ちていた。


私は新しい万年筆を握りしめた。

まだ周囲からの好奇の視線は消えていない。

アーネストが流した悪評も、完全に晴れたわけではないだろう。

けれど、この青いインクで仕事を積み重ねていけば、きっと真実は伝わるはずだ。


「……やりましょう」


私は最初の仕事として、出勤簿に自分の名前を記した。

『Elysia』。

流れるような青い文字は、昨日までの弱々しい筆跡とは違い、力強く紙の上に定着した。


私の戦いは、まだ終わっていない。

むしろ、ここからが本当の始まりなのだ。

愛する人の隣にふさわしい自分になるための、誇り高い戦いが。


私は顔を上げ、ガラス越しにルシウス様を見た。

彼もまた、書類から目を上げ、私を見ていた。

目が合うと、彼は片目をつぶってみせた。

そんな子供っぽい仕草をするなんて。

私は思わず吹き出しそうになり、口元を手で隠した。


不安はもう、青いインクの中に溶けて消えていた。

私はこの場所で、生きていく。

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