第九話ー贈り物(前)
マーシャルが見えなくなると、イリスは近くにあるベンチに腰掛けた。
(ここでグレイシス公爵と踊ってから、分不相応な事ばかりおきるわね)
一介の伯爵令嬢、しかも没落仕掛け。ーが、国王と面会し、国の英雄たちとお話をして、グレイシス公爵にエスコートされ薔薇園を散策するなんて。信じられない。
「イリス?」
考え込んでいたので、人がいることに気付かなった。パッと顔を上げると、立っているのはハセドだった。
薔薇園は開放されているし、ハセドがここに居てもおかしくはないのだが、1人で居るなんておかしい。
イリスは警戒した。
「ああ、やっぱりここにいた。リリアナ嬢から聞いてね」
リリアナから聞いてここに居るのならば、良からぬ事に違いない。イリスは冷ややかな声を出した。
「ハセド様。お久しぶりです。何かご用でしょうか?」
「ああ、うん。この間、君に婚約の破棄を伝えただろう?」
「はい」
婚約破棄を正式に伝えに来たのか?わざわざ?
ハセドはもごもごと言った。
「父上が承諾してくださらなくてね。イリスと結婚しないのならば、跡目にはすえないと言うんだ」
イリスは嫌な予感がした。
「そこでだ。きみを第2夫人にしようと思う」
「え?」
呆れてものも言えない。王族でもないのにそんな制度はない。
「つまり私を愛人にしようと言うのですか」
「愛人などと!下品な物言いはしないでくれないか。とりあえず一緒に来てくれ。父上と話そうと思う」
ハセドは首を振った。
(この人はどれたげ頭が悪いの···)
ハセドの父が欲しいのはロズウェル伯爵の家名だ。イリスではない。ロズウェル伯爵家に婿入りすることが目的なのに。
イリスは思わずため息をついた。
「ハセド様、それではお父上は納得されません。そして私も受け入れられません」
ハセドは目を見開いて詰め寄ってきた。イリスは後ずさる。
「なんだと!私の正妻になりたいなどと言うのか?身の程も知らずに」
(話が通じないわ)
「私は婚約破棄を受け入れます。もうお帰りください」
辟易した顔で言うと、ハセドは怒りを顕にした。
「お前!私の言ってることが分からないのか?来い!」
ハセドが怒りのまま腕を掴んだ。
(痛い)
イリスは顔をしかめたが、痛みは一瞬だった。
「わあぁ」
叫び声に顔を上げると、腕を掴まれたハセドが宙に浮いている。
「イリス嬢、だれだコイツは。ただの暴漢ならば衛兵に引き渡すが」
マーシャルは淡々と言った。マーシャルが掴んだ腕がみるみる青紫になっていく。相当痛そうだ。
イリスは慌てて言った。
「彼はバチェル商会のご子息です。離してあげてください」
「ふむ」
マーシャルは腕を離してハセドを解放した。
マーシャルの表情はイリスからは見えない。ハセドは地面に尻もちを着き、青紫になった腕を手で押さえながら震えている。
「お前がハセド・バチェルか。レディに乱暴は良くないな。それも王家の庭園で」
声が低い。ハセドは震えながら口を開く。
「こ、婚約者を迎えに参りました。閣下には関係のないことです」
「ほう?」
声がさらに低く響いた。イリスからは後ろ姿しか見えないが、首筋の血管が痙攣している。
「おかしいな。聞き間違いでなければ、ロズウェル嬢は婚約破棄を受け入れると言っていたようだが」
「それは···」
「さらに王国では第二夫人などというふざけたものは存在しない」
(全部聞いてらしたの)
イリスは恥ずかしさと情けなさで下を向いた。愛人になれと言われた女を、公爵はどう思っただろう。
「そのような顔をする必要はない」
マーシャルが肩越しにイリスに言った。
「君が恥じることなど何もない。馬鹿げた提案をするこの男が悪いのだ」
そう言いながらマーシャルはハセドに近付いた。膝を折り、耳元で何か囁いた。
「バチェル商会か。最近金の巡りが良いことは知っている。目を瞑っていたが、そうもいかないな。帰って父親に伝えろ。近々伺うとな」
イリスには聞こえなかったが、ハセドは慌てて立ち上がり、蒼白のまま逃げるように走り去った。
「怪我はないか?」
呆然と見ていたイリスは、とっさに手首を手で押さえた。
「はい。ありがとうございます」
マーシャルはイリスの手をとり、ハセドに掴まれた手首を見た。薄っすら痣が出来ている。
「生きて帰すべきではなかったな」
呟いた言葉が少し過激だったので、何に対して言っているのか分からなかった。
(え?この痣を見て言った訳ではないわよね?だって閣下は掴んだだけで、ハセドの腕を骨を折りそうな勢いだったし)
ハセドの腕は随分痛みが長引きそうだ。
気付くと、マーシャルが自分の腕に何か巻き付けている。白くて綺麗な、花の刺繍が施されているハンカチだ。
(痣を隠そうとしているのかしら)
「先ほどの露店でコレを買っていたんだ。貴方に借りたハンカチはワインで駄目になったからな」
「えっいえ、こんな上等なもの」
露店とはいえ、王家の庭園に出るほどの店だ。イリスの持っているものとは質が違う。
「貰ってくれ。花の刺繍のハンカチは私には似合わない」
「そんなことは····」
言いかけて、固まってしまった。私より花が似合いますとは言えないし、なんと言っていいやら。
(私のために選んでくださったなら、嬉しいわ)
素直に貰うことにした。
「お気遣いありがとうございます。大切に使いますね」
ハンカチの、繊細な刺繍を見て心が弾む。思っていたよりずっと、自分は嬉しかったみたいだ。自然と顔がほころぶ。
ー思えば、婚約者だった者からすら贈り物1つ貰ったことがなかった。
(嬉しい。自分の為に選んでくれたものが、こんなに嬉しいなんて知らなかった)
読んでいただきありがとうございます。
次のお話で完結となります。
1時間後に投稿予定です。




