上司
通常業務が終わったレイは、自室のシャワールームで身体を洗っていた。
風呂に浸かりたい気持ちはここに来た頃からずっとあるが、そんな大層なものはここにはない。
ここは本来消耗品として提供された人間が来る所だ。そういったものがあるはずがない。
シャワーを止め、白くなった髪をかきあげる。
防具が破損し、露出した肌で受け止めた返り血を流した日は、シャワールームの床が大変なことになったが、最近はそういうこともなくなった。
マリーナの力に適応させられたおかげで、戦闘が楽になったからだ。
クソみたいな思いをした甲斐あってか、生き残ることには成功できているわけだ。
タオルで頭を拭きながら、ペタペタと歩く。
ふと見た鏡に、白い髪と赤い目の男がうつった。
黒かった髪と目はどこへ行ったのか。マリーナの髪と目の色が移ったこの見た目は、今見ても落ち着かない。
透明な板越しにこちらを見つめる色と、それを美しく飾る色。
見た目は麗しいが、中身はおぞましいものだ。
瞳を美しく喩えるとき、宝石のようだとか、澄んだ湖のようだとか言うが、彼女のそれは血溜まりの色だ。
殺戮の上を散歩をしているように歩き、涼しい顔で命を踏みにじる。
そんな女が死にかけの自分に睨まれたから、という理由で一方的な好意を寄せてくるのだからとんでもない。
レイは鏡にうつった自分を一瞥し、またペタペタと歩きはじめた。
肌触りの悪い衣服に着替え、固いベッドの脇にある簡単なつくりの机に向かう。
売れ残ってセールに出されていそうなタブレット端末のボタンを押すと、画面がぱっと明るくなり、未読のメールが溜まっていることを知らせてくれた。
読むのが億劫だ。定型文を毎度送りつけてくる上層部のメールなら、さっと見てゴミ箱に投げ捨てて良いのだが、この施設では大変珍しくやる気のある職員が病んだパートナーの如くメールを送ってくるので、いちいち確認せねばならない。
無視したら良いと思うかもしれないが、無視し続けると、こちらの帰還タイミングを見計らって通話を行おうとしてくるので、それは愚策である。
そいつが色目を使ってくるようなやつではなくて良かった。
どこで聞き耳をたててるか分からないヤツが肉塊と血溜まりを新調してしまうのはごめんだ。
レイは一番新しいメールを開いた。
メールには『そろそろビデオ通話使って近況報告をしなさい。落ち着いたら時間はいつでも良いので連絡するように』と書かれている。
これが手書きだったら驚くほど几帳面な字で書かれているのだろう。
勤務態度は出会った職員の中では段違いに真面目な男だ。
その上、本当にいつ連絡しても嫌な顔をしない。むしろ勤務時間外に連絡したときのほうが都合が良さそうな言い草をしたことがある。
レイはちらりと時間を見た。
夜分に失礼します、と言いたくなるような時間であったが、先方は今か今かとこちらからの連絡を待っていることだろう。
数少ないアプリケーションの中からビデオ通話のアイコンをタップし、通話を開始する。
発信を告げている電子音は少しばかり鳴り、すぐに止んだ。
電話は何コール以内、というサービス業も真っ青な反応の速さだ。
そして、マイクの小さなノイズと共に、それはすぐに話し始める。
『ようやく連絡してくれましたね。昨夜あたり報告していただければよかったのですが貴方は私の我慢の限界を見極めて連絡するのが得意ですものね、ええ』
早口で一気にそこまで言い切り、コップに注がれた炭酸水を煽るチルは、目の下にクマができている不健康そうな顔をしかめた。
コップの中身がアルコールでないのが彼らしい。
明日の仕事に支障がでるのが死ぬほど嫌なのだそうだ。
「面会の後はベッドに直行するって決めてるんだよ」
『その気持ちは大いに理解できますが、医療部のカウンセラーが仕事をしないのでね、貴方はこうする必要があるのですよ』
「時間外によその部署の尻拭いか?」
『ええそうです。時間外なのは気にしませんが、他所の部署の尻拭いまでしなくてはいけないのは腹が立ちますね。
貴方の価値が分かっていないのか、給料泥棒をしたいだけなのか、どちらにしても、ええ』
「奴らにとっては消耗品だからな、俺たちは」
『その考えが間違っているのです。適合した貴重な人材を碌な教育や訓練もせずに送り出し、魔女の収容に必須な貴方の管理も行えない……』
チルはしわの寄った眉間を指で押さえた。
「上の連中はとりあえずやれって言ってるんだっけか?」
『管理をしろ、と言ってるだけですね。高そうな椅子に座っていいご身分です。
適合者を消耗品のようにしか扱ってこなかった者に管理などできるわけがないのに、具体的な指示も出さずに抽象的な物言いばかり』
「仕事ができるっていうのも辛いな、チル」
『周囲の勤務態度が悪いだけです……
おっと、愚痴を聞いて貰いに貴方に連絡させたわけではありませんでした。そちらの話を聞きましょう』
チルは背筋を正した。今にもため息をつきそうだった表情が引き締まり、こちらへ戦闘指示を出しているときと同じような顔になる。
「あー……お前が気にかけてるサンっていう小さい子、いるだろ。
お前の言う通り、力の使い方が上手だな」
『そうでしょう。精神面においては心配ですが……』
チルの表情が曇る。
「……世界を救う魔法少女になれって親から言われたんだってな。」
レイも眉をひそめた。
レイもそうだが、ここに売られる子どもは多い。
実験台として提供することで得られる対価と、戦場で死亡したときに得られる弔慰金でそこそこの金額になるからだ。
親にとって子どもというのは金を生む道具であり、戦果を上げればアクセサリーとなる。
神秘によって産まれた命と人格に対する冒涜である。
こちらの世界でもクソ外道な親はごまんといるようだ。
『世界を救う、ですか。上層部は口だけ、私の周りは戦果を改ざんする輩はいるわ、全ての責任を戦闘員になすりつけるわ……こんな施設で国防など、皮肉に聞こえてきますね』
「はは、管理職は大変だな。恨みつらみがにじみ出てるぞ」
『大変さは貴方も同じでしょう。
魔女との面会は適切な回数にしたいのですが、こちらの都合に合わせると、上層部が面白い程飛び跳ねるくらいの修繕費が発生しますからね。貴方の出動回数も増えますし。
通常の戦闘も減らしたいのですが、今の状況だと貴方が必須です。前任者が育成を行っていればこうはならなかったのでしょうけど』
チルはため息をついた。
そこそこ若いはずの顔が少しだけ老けて見える。
レイはマリーナとの面会の他に、『魔女の子』と呼ばれるものを討伐する仕事がある。
魔女ほど脅威ではないのだが、幼子が溶けて爛れたような見た目は、それまでの経緯を物語っているようで気分が悪くなる。
自我がなく、言語も話さないので、人間とは違う生き物なのだと思うことも可能ではあるが、実験を耐えた者には何となく分かるのだ。
ただただ自己増殖する姿を見ていると、生物としての本能は残っているのだな、と複雑な気持ちになる。
こんな姿になってまで……と思って殺すしかない。
「どのみち俺の勤務状況は変わらないみたいだな」
レイが片眉を上げて笑うと、チルは申し訳無さそうに眉尻を下げた。
『給与を上げても貴方の心身は良くなりませんしね。
戦闘の人材に関しては私が努力しますので、貴方は絶対に死なないよう、気をつけてください』
「俺が死んだら魔女が大暴れするだろうしな。職員の命を俺にぶちこんで蘇生、なんてことにもなるだろうし」
『そういうことを言っているのではありません。
魔女の力を注がれているからとはいえ、貴方は前線に出過ぎだということと、生きて帰ってきなさいということを言っているのです。
いつも言っているのに、貴方は度々無茶をする』
チルは半ば呆れたようにため息をついた。
いつも顔が険しい彼にしては、割と緩めな表情だ。
『貴方が前線に出る理由も気持ちも分かりますがね。
ですが、それで前線に出て良いのなら、私は貴方の前に立っているでしょう』
「適材適所、だぞ?チル」
レイも冗談めかしたような笑みを浮べた。
『……そうですね。適合の素質もない私が戦場に出たらどうなるか、火を見るより明らかです。
お互い、胃に穴があかないように気をつけるしかありませんね』
「そうだな。お前もうまく聞き流せるようにな」
通話終了のボタンを押そうと手を伸ばす。
「そうだ、チル」
レイは思い立ったように手を止めた。
チルは微かに首を傾げる。
『何でしょう』
「あー……ちょっと待ってくれ、すまん」
レイは机に置いてあったメモ帳とペンを手繰り寄せ、ささっと文字を書いた。
マリーナが聞いているかもしれない状態で聞くにはあまり良くない内容だ。しかし気にはなるのでこのようにしている。
――妹さんの体調、大丈夫なのか?――
そう書いたメモ帳をカメラに向けると、チルは親指を立てて穏やかに微笑む。
『明日の面会の時間でしょうか』
チルは普通の会話を装ってゆっくりと頷いてくれた。
「ああ、それだ。変更はないよな」
『念の為の確認は良いことです。変更はありませんよ』
平然と話しながら、チルはいつの間にやらペンを走らせ、丁寧な字で書かれたメモを見せてくれる。
――いつもお気遣いありがとうございます。この前顔を見に行ったときはかなり顔色が良かったですよ――
マリーナはレイ以外の人間に興味はないが、万が一レイの上司であるチルに矛先が向かったとき、巻き込まれる危険がある。
こことは遠いところにいるらしいが、ここから出ることなど、マリーナにとっては容易いことだ。
「ありがとうな、チル」
『こちらこそ。これが終わったらすぐに休みなさい、明日の仕事に支障がでる』
「お前もな」
そう言って、通話終了のボタンを押した。
そのままの流れでアプリケーションを終了させて、端末をスリープ状態にする。
レイはぐっと椅子に凭れ掛かって伸びをした。
酷く怠かった身体が、少しだけ軽くなったような気がした。