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Room 1301

作者: 佐野和哉

 夏。夕暮れ。独りで入った1301号室の大きな窓のカーテンを開け放つと、この世の終わりみたいな色をして混じり合う空と雲の下を行き交うクルマ、トラック、バイクの群れが、せわしなく泳ぐ魚のように見えた。

 Raffine、KANADE、プロヴァンスの街に。

 なんばハッチとMONTEREYの間を、夕陽に向かって吸い込まれてゆくように伸びる道路が何処へ繋がって居ようと、僕には関係ない。


 阪神高速の15号線と1号線を結んで繋いで上空を。

 なんばウォークで地下を切り取って境界線にしたような大阪ミナミの街角を、ビルと高架と無数にひしめくラブホテルに押し出されるように俯いて歩く。

 これだけの数、これだけの部屋を埋め尽くす情事の残滓がそこかしこで蒸し暑い夜に気付いて蠢き始めるような気がして、どの入り口のネオンも電飾も看板も直視できない。

 

 仕方なく目を落とした端末の画面の中で、ついさっき僕との予定を取りやめにした君が今日も言葉を尽くして死にたがっている。どんな出来事や苦しみを背負った状態で、君が僕と出会ってくれたのか、それを完全に理解する術はない。何をどう言ったって、僕の前でも、誰かほかの人の前でも、それは君が「そうしたくて、そうしているだけだ」というなら、そうなのだろう。

 取り繕ってることも、笑ってごまかしてることも、思うところを語ったり話したりすることも……笑ったり、溜息ついたり、寝坊したり、服を脱いだり、全部、全部。

 聞きかじって、分かった気がして、はにかむのだって理由があって。本当のことなんて誰にもわからないし、知る由もない。だからといって君を裸にしたところで、何も残らない。

 僕の肺の中の残り香以外は。


 橋を渡りドン突きのアパを右、ぼんやりとした明かりを放つ提灯が道頓堀の湿っぽい空気の中に並んでいる。あの黄色っぽい色味を見ていると、なんだか妙にそわそわする。

 階段を降りて河岸へ。

 ローズリップの裏手を歩いてシャボンの匂いを吸い込んだ。

 べとつく夜を洗い流すほのかで淡い香り。

 

 クリーンミナミ。久左衛門通。橋のたもとから北へ。クリーンミナミ。久左衛門通。

 三ツ寺筋と重なる交差点の角。こぼれた飲み残しと雨水と泥水と、それとあともっと薄汚れた何かが舗装路の凹凸で水たまりになって、ファミリーマートの青と白と緑が浮かんで揺れる。幾星霜の陰気な熱帯夜を通り過ぎて聳え立つ日宝三ツ寺会館が黒ずんだコンクリートの牙城を現す。

 地下へと向かう階段は湿っぽく、いつも薄っすらと濡れている。年季の入ったドアをすり抜けて来た嬌声と、暗く狭い廊下を響く調子の外れた歌とが混じり合い、天井で雫になる。そのひとつひとつに、このビルでの夜毎が映し出され、蒸発してまた結露する。

 

 死の匂いのする小説を書こうとしたら、真っ先に君の顔と薫りが思い浮かんだ。

 七曜の過ぎ行くまま肢体の付け根も清めず、私の嗅覚と背徳からくる偏執へ一抹の充足をもたらさんと尽くしてくれたことが。

 それが果たされなかったことを、君の心身を蝕む暑気と憂鬱のせいだと伝えるために。僕が決して君を責めたり、気分を害してなどいないということを、聞いてもらうために。

 酒気帯びの人いきれを縫うように、僕は君の店のドアに手をかけた。


 仕事は今日も休めない。

 華やぐ夏の夜のさなかに佇み、酒や水煙草を供する君は地下のカウンターに立ち、ふらつく足取りで店を切り盛りする。

 遊びを断り、仕事で苦しみ、何のために生きているのかわからなくなり、日々の暮らしが生きるコストに見合わなくなり、次の瞬間、単調で空虚な生活は恐ろしい重荷と不安に変わる。

 仕事なんか、するより辞める方が気分いいに決まってる。


 君が僕のために取っておいてくれた夢の香りを追い求めるために、僕が今日も働いて対価を用意をするなんてことは、真っ当な社会性を抱えた人間であれば口に出すことすらないはずの倫理観と羞恥に欠けた行いであり。

 そんなことを面と向かって、文章に残る形で頼み込む偏執者の癖に時間通り約束の遂行を求めていたあたり、何だか自分がちぐはくなケダモノのように思えて来る。


 さらに夜も更けて。

 活況を呈する歓楽街の片隅の地下にある店の座敷の奥で君の点けてくれた水煙草の甘く香辛料のきつい香りを吸い込んでは燻らせているうちに、いつの間にか酔客もはけて行ったようで。

 胡坐をかいている僕の隣に、ひらひらと力尽きた蝶のように君がどっしりと座り込み、長い手足を投げ出すように伸びをした。んんーー、と疲労感をにじませつつも心地よさそうに、僕の膝に鉢の小さな頭を乗せて来た君の、さらさらと長い黒髪がくすぐったい。

 そっと撫でた額の冷たさに、はっとした僕が思わず引っ込めようとした手を君が力なく掴んで離さない。いつにもまして青白く、じっとりと悪い汗をかいている君の横顔に浮かんだ死神のような微笑みが、これまで出会って来た何処の誰よりも美しく、僕の心を力づくで掴んで離さない。君の消えかけた光のちらつく黒い黒い瞳の中できっと今、この店の暗く低い天井が螺旋を描いて回っている。ゆっくり、ゆっっくりと。

 ひゅう、ひゅう、と苦し気な音色を帯びた君の吐息が切なくて臭い。喉も舌も口の中もカラカラなのだ。僕はテーブルから汗をかいたグラスをとって、君の頬にそっと寄せた。


 行き交う人々を縫うように、夜の帳が上がってゆくのを拒み、抗い、朝が来ることを認めないとでもいうように。ふらつき、うつろで、控えめに言ってもくたばりかかっている君の手を取って足早に。

 三ツ寺筋と佐野屋橋筋、新戎橋、久左衛門通、ローズリップス、アパの角を左。

 阪神高速と阪神高速となんばウォークで四角にした街角の死角に開いた入り口から、ふらつく足取りで転がり込んだ昇降機が誘う、1301号室の大きな窓がカーテンの向こうで笑ってる。


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