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翌日の二限目【護身術】の授業中。
武道場で、担当の角田洋介教諭が手本を見せている。
中年過ぎの、八百屋が似合う風采の角田先生は、警察科と普通科の両方に授業を持っており、普通科の方では【格技】を教えている。校務分掌は購買部ではなく生徒指導部というさっぱり空気の読めない人事の最たる被害者。
閑話休題。今日は〈もしも犯人に背後から羽交い締めにされたら〉と題し、真弓を犯人役に見立て、様々な技をレクチャーしている。
「はい、このように肩胛骨を寄せる形で後ろ手に拘束され、両手が使えなくなった場合。まず見るべきは、相手の足の位置です」
生徒らはそれぞれ二人一組になり、先生を真似て技を磨く。
『やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ』という山本五十六の言葉が有るが、実に理に適った教えだと思う。
しかし、俺の相方は月人。褒めると調子に乗るタイプ故、歴史的な教育神話もこいつだけは適用外。
「相手の足が自分の足と同一直線上にある場合。右脚を上げ、踵で相手の足の甲を思いきり踏み潰します。この時に注意して欲しいのが、なるべく爪先に近い所を、踵のこの出っ張った骨、踵骨と言います。これでしこたま踏みつける事。今は皆さん素足なので、くれぐれも力半分にして下さい。しかし実戦時に手加減はいりませんからね」
月人の背中から両脇へ手を回し、抱き込む形で拘束する。
「頼むから優しくやれよ」
「きゃーいやらしーわ尚人さん」
斜向かいではヨッシーと北川が、その隣では番長と雅龍が同じ構えをとる。
「さあ、実際にやってみましょうか。今は少々の痛みは我慢する事です。しっかり記憶に焼き付けておかないと、いざという時に体が反応しませんからね」
そして、二十もの二人組が一斉に動き始めた。片方が相手の後ろに回り込み羽交い締めにする。された方は目線を相手の足に合わせ、膝を振りあげ――
「いってー!!」「ぎゃあっ!!」「あぁー!!」「あだぁあああ!!」
そこかしこから絶叫、悲鳴、呻き声の嵐。案の定というか、俺も痛みのあまり、しゃがみ込んでしまう。
「……っつー……」
言葉にならない感情が湧き上がり、うっすら目尻を濡らす。
「ごめん尚人、痛かっ」
「たよ!! もうちょっと優しくして……」
「へへへ、スマンスマン」
膝を叩いて立ち上がり、攻守交代して同じ事をした。
「さてよろしいですかね。じゃあ次。相手が怯んで手を放すなり力を抜くなりの反応を示します。そうしましたら、お辞儀をするように頭を下げます」
先生は真弓の体を拘束し、頭を下げさせた。
「この時のポイント。顎を引いて、しっかりと反動をつける事。バネのように勢いよく上体を反らせ、相手の顔面に自分の後頭部で頭突きをします。若い皆さんの事ですから、柔らかい広背筋がイイ仕事をする場面ですね」
真弓の頭をゆっくりと持ち上げ、頭突きを食らうフリをした。
「はい、これは非常に危険が伴うので、全員ヘルメットを着用して下さい。今日の持ち物がヘルメットだったのはこの為です。どうしてここまでするのか、なんて情けない質問はよして下さいよ。衝撃を知っておかなければ、戦法として身に付かないからですね」
みんなは部活で使うフルフェイス型ヘルメットを被った。先生は「今だけ風防は上げておいてよ!」と焦って付け加えた。
「よぅし、いくぞ!」
月人が頭突きを繰り出した。ガツン!
思ったより衝撃が強いな。よし、次は俺の番だ。
「いってぇ!!」「うおっとととと!?」
突然、月人が倒れ掛かってきた。咄嗟の事で上手く支えられなかった。
顔を上げると、目の前に男が立っている。ゆっくり、両手がメットに伸びる。
「お、お前は……」
固い殻の下から、無感情に見下ろす蛇顔が現れた。隣では俺達とはまず接点の無い人物、谷口だったか谷岡だったかが、へらへらと薄ら笑いを咲かせる。
「これはこれは。貴高き神馬様じゃありませんか。どうも、失礼致しました」
感情の映らない爬虫類の目がこちらを睥睨した。ゾクッとする成分が含まれた視線だ。
「お前、一体どういうつもりだ」
「張り切り過ぎも良くないって事だね。次からは気を付けるよ、お大事に」
嫌みったらしく吐き捨てると、粘っこい笑みと共に端の方へ行った。
「いてて……くそっ、わざとだなアイツら、ボケが」
メット越しにも歯を食い縛っているのが分かる声だった。
「月人……平気?」
「あたぼーよ、気にすんな。あんな奴ら……へっ。そのうち俺がすりおろしてやる」
前々から土蜘蛛のこうした威嚇行為を見せつけられていた。執拗に絡んできては、文句をつけたり嘲笑ったりして存在感を主張するのだ。
奴らには常識というものが通用しないし、デリカシーなんていう精密部品も装着されていない。とにかく、やばい奴らなんだ。
悔しい事だが、刃向かうだけ無駄。
***
三限目と四限目の間の休み時間。気分転換を兼ねてトイレへ。
用を足し、鏡を見ていると誰か入ってくる。
「あは、流郷殿。どうも」
「おー、ニシタク」
細い目はいつも通り三日月型に笑っている。
「先程の授業は難儀しましたねぇ。情報量が多すぎます」
「俺もさ。先生もも~少し分かり易く言ってほしいよな。板書も早いし早口だし」
「全くですね。いやはや、学生も楽じゃない」
「それな」
一瞬、間があった。
「そういえばさ、ニシタクって、どうして警察科へ来ようと思ったの?」
用を足し終え、彼が横に並ぶ。俺をちらと見て、微笑んだ。
「やはり、気になりますか」
丁寧に、指の間まで洗っている。こうした些細な育ちの良さが随所に垣間見られる。
「あぁ。気になる、特にお前の事だしな。積もる興味も山の如し、ってやつ」
西口家は、代々大御所に仕える執事の一族としてこの辺りでは名を馳せている。彼の両親もまた、大手建設会社会長に忠誠を尽くす。
彼の実兄も後を継ぎ、しかし次男である彼はこの学校へ。その経緯たるや、興味を惹かれて止まない。
彼は上物のハンカチーフでパッパッと手を拭きながら、こくっと俯いた。
「先に申しますと、私はこの学校を卒業したとしても、すぐに警官として働くつもりは御座いません」
「え?! そうなのか? なぜ?」
予想外の言葉だ。ここへ来て、彼は警官にならないという。
肉屋へ来て、私はベジタリアンですと言うようなものだ。
「はい。卒業後の進路と致しましては、法医学が学べる大学へ進学し、学位を取得してから警察へ就職したいと思っております。叩き上げは、現在は考えておりません」
「あ、そういう事か! 大学進学か。鑑識にでもなるの?」
「はい。……と申しましても、鑑識課という門は私にとって通過点でしかありませんね」
「鑑識課ってだけで立派なのに、いったい何を狙ってるんだ?」
申し訳なさそうに笑った。
「私は、検視官に選任されたいのです。あぁ、痺れますね。検視官という、響き」
「け、検視官んん!?」
「ちょっと恥ずかしい……かねてよりの、私の夢です」
「おまえ、死体に興味があるのか? ……そ、その、科学的な視点で」
「いいえ、別段そういう訳でも。実はこれには、私の母親が関わっているのですけどね」
「検視官に、お前のお母さんが」
「はい。そうですね、ここではアレなので、ちょっと此方へ」
彼は周囲を窺い、俺をトイレ横の備品庫へと連れ込んだ。
「まず大事な事から申しましょう。私の母は、一昨年に通り魔に襲われて亡くなりました」
「え、あの、ちょ、ええええ!? マジか、お前のお母さん亡くなってたの?」
「ご静粛に」
「あ、ごめん」
「ええ。無理も無いでしょう。期を逸しました……私が中学二年時の夏休み、夜にお酒の買い出しに行った帰り夜道を歩いているところを、背後から柳葉包丁で一突きです。仕えていたご主人が、まるで自分の家族の死のように哀しんで下さいましてね。涙が出まして」
そんな淡々と陳述する事なのか。親の死に様って。
「うそだろ……うわぁ、ひどい」
生々しい。彼の目は普段通り、すっと横一文字に戻っている。
「母は発見された当時、両足が複雑に捩じれて、右胸が激しく圧迫された状態でした。郊外とはいえ、人通りはある場所です。包丁で一突きした上に、犯人が時間を掛けてここまでの仕打ちをするのは、誰にとっても疑問だった訳ですよ」
「あ、あぁ」
「その後です。検視官の先生が、真相を究明して下さりました」
その時、心なしか、彼の目が見開いて見えた。微量の恐怖が俺の内側を撫でる。
「どういう事だった……?」
「聞く分には推理小説じみていますけど、母が倒れていたのは木材加工会社の作業場の正面道路だった訳です。事件発生時刻は午後九時十分で、まだ職人が一人、残業をしていたそうなんです。仕事を終えた職人が二トントラックで事務所まで戻ろうとして後退した際、段差のせいで見えなかった母を轢いてしまったのだそうです。両足を右後輪で、右胸を右前輪で乗り上げるようにして」
「おえ……」
想像してみて、物理的にも心理的にも胸が苦しくなった。
「先生によれば、母は包丁で刺されただけでは死に至らなかったそうです。動脈を避けていたため、致命傷は免れた。つまり母を死へ追いやったのは通り魔ではなく、皮肉にも何の悪意もない木材職人の方だったのです」
「……複雑だったろ」
「ええ、そりゃあもちろんです。しかし、それもこれも検視官の先生がいらっしゃらなければ分からず終いの事ですから。数日を費やして落ち着いた頃には、先生に対する感謝と尊敬の念が色濃く残っていました。
警察は後日、会社のタイムカードと監視カメラの映像から木材職人を、近所の郵便局の防犯カメラから通り魔を、それぞれ逮捕して下さりました。警察には、本当にご恩を感じております」
「捕まって……良かった」
それが精一杯の言葉だった。
「はい。その時からです、私が検視官と言う崇高な存在に惹かれ始めたのは」
「……お前、変わり者で面白いなぁと思ってたけどさ、そんなもの背負ってたのか」
「はい。なんせなかなかこのような話、人様に言える事ではありませんからね」
心の換気をするように、相好を崩した。
「けど今日、俺にはこうして勇気を持って話してくれたんだな」
「ふっふっふ。勇気も何も、流郷殿にお話しするのは不思議と躊躇えなかった故、なぜでしょう。自然に言葉が溢れ出した、気付いたら話していた次第ですよ」
不思議な感じだ。まるで頼られたような、少し照れ臭い気持ちが悸く。
「そうなのか? 俺には躊躇わなかったの?」
「左様。貴方はきっと、人の話を親身になって聞く事が出来る故、それが自ずと私の心に働きかけたのでしょう。隊長に選任されるのも頷ける話です。何を隠そう、この事をお話するのは流郷殿、貴方が初めてで御座いますから」
「マジかよ」
「左様。なんせ入学面接の際にも簡潔に〈機動隊に入って最前線で活躍したい〉とだけ申しましたから。元々、肉体的な活動は好きですし」
「なんか驚く箇所が多すぎて、リアクションのレパートリーが無くなってきた」
「まあ無理もないでしょう。でもこれで、胸のつかえが取れた気がします。流郷殿、ご清聴、心より感謝致しますね」
「そうか、良かった。頑張って検視官になれよ。尊敬するよ、色んな意味で」
「それは……光栄に御座います」
彼がはにかむのと同時に、元気なチャイムが鳴り響いた。