8話 この人が
結局あの後の服屋では、ジオがリーティアに似合う服を探すことに夢中になってしまい、当初の目的のジオの夜会服の購入までに至らなかった。
「何をしに行ったのかしら……」
ベッドの中で一日を振り返りながらリーティアがポツリと呟く。
服を身体に当ててみるだけならワンピースから着替えずとも試着できると考えついたらしいジオに次から次へと服を当てがわれ、その度にいかに似合うかと賞賛を受け、もう一生分の『綺麗だ』『可愛い』を浴びた休日であった。
まあそれはいい、それは別にいいのだけど、このままでは次に約束をした来週の休日も同じ轍を踏みそうである。もう一生分の『可愛い』を浴びることに……いやジオの服がまた買えなくなることに……。
そうだ、次もあの水色のワンピースを着て行こうか。
ただ何も変化がないのも芸が無いから、髪型を変えて行こうか。確かワンピースと同じく母から誕生日に貰って、鏡台の引出しにしまったままのバレッタがある。こんなに綺麗なもの自分に似合うわけがないと思って、これまで一度もつけたことはなかったが、ジオならばきっと似合うと言ってくれるはず。
しかしワンピースだけでも可愛過ぎて語彙が足りずに光の精霊に見放されると危惧していたジオが、この上バレッタも加わったら大変なことになってしまいそうである。そんなことになるとしたら、とても。
「……ふふっ」
とても楽しみだなと、リーティアはいつのまにか己も当初の目的を忘れていることに気付かぬまま眠りに落ちたのだった。
◆◆◆
だから油断していた。
デートの余韻から覚めきらぬまま迎えた、次の日の朝のこと。
寮を出るまで誰にも会わなかったのもまずかった。一人でも他の生徒とすれ違って、いつものように顔を顰められもすれば、己が浮かれすぎていたことに気づけたのに。
「随分とご機嫌なようだな。醜く卑しい魔女よ」
「——っ!」
女子寮を出た直後。そんな冷ややかな声を浴びせられて、リーティアはようやく夢から目が覚めた。
「……おはようございます、ラフィザード第一王子殿下。お目汚しをしてしまい申し訳ございません。すぐに退散致します」
「ふん。もう遅い。朝から気味の悪いニヤケ顔を晒して歩くとは……そんなものを見せられる周りの迷惑を考えたらどうだ」
「申、し訳ございません」
おそらく女子寮の誰かと約束をしていたのだろう。寮の門の近くに生えた大きな木の陰に、あのアンドリュー・ラフィザードが腕を組んで寄り掛かって立っていたのだ。
リーティアが顔も下げずにそこを通ったせいで、朝から王子が醜いものを見る羽目になってしまい、不快にさせてしまった。
「ふん。まったく気分が悪い。貴様のせいで、昨日から特にな」
普段は俯いて歩くのが当たり前だった。少しでも他の人の目にこの顔が映らないように。
それがいつのまにかジオの隣を歩く時は気にしないようになって、ジオのことを考えていると自然と顔が上がるようになって、結果、前を向いて歩くことが格段に増えた。
「聞いたぞ。またあの哀れな平民を無理矢理付き合わせたようだな」
「!」
慌てて頭を下げたリーティアの頭上からアンドリューの冷たい声が落ちる。
「性根まで腐った醜い魔女め。そんな魔女に使い魔のごとく連れ回されて、あの男もなんと哀れな。さぞ不幸な一日だったであろう」
何故アンドリューが昨日のことを知っているのか。
リーティアは驚きと共に、身体の芯からつま先まで急激に冷えていくのを感じた。
「前にも同じ忠告はしたはずだぞ。わかったらもうあの平民を己の道楽の犠牲にするのはやめることだ。その代わり……ゴホン、代わりの男を用意してやらんこともない」
以前の忠告とは、ダンスの授業でジオがリーティアのパートナーを務めてくれた時のものだろう。
あの時もアンドリューは醜いリーティアにジオが無理矢理付き合わされていると解釈し、仕方がないからパートナーを代わると言ってきた。
「どうした。返事もできないのか」
そうだ、あの時のジオの答えは。
「聞いているのか!醜い魔女め!」
「……人違いでは、ないでしょうか」
「は?」
深く頭を下げたまま動かずにいたリーティアが、ゆっくりと顔を上げた。
「私が醜いということは否定致しません。ですが……彼が哀れだというのは、当てはまらないだろうと存じます。昨日、不幸な一日を過ごしたという男性は、彼ではありません。人違いです」
「なっ……!」
自分でも不思議なくらいにすらすらと言葉が出てきた。
他の誰がリーティアを醜いと言おうと、ジオだけは違う。あんなに楽しげにしていたジオが不幸なわけがないのだ。だって彼は嘘がつけない。あの日彼がくれた言葉は何一つとして嘘じゃない。
「くっ、ま、魔女めっ……代わりなら用意してやると言ってるだろう、何を往生際の悪いことを!」
眉を吊り上げたアンドリューに手を伸ばされ、リーティアが思わず身を固くしたその時。
「いいや、その通りだ」
「ジオ!」
アンドリューの手を遮るように、見慣れた背中がリーティアの前に滑り込んだ。
「殿下は何か勘違いをしていらっしゃる。昨日の俺は言葉に表せないくらい可愛い女の子と共に過ごした、最高に幸せな男です。不幸な男なんてどこにもいやしませんよ」
ジオの肩が少し上下している。きっと遠くからリーティアが王子に何かを言われていると見て、急いで走ってきてくれたのだろう。
「貴様……っやはり私の忠告を聞く気は無いのだな。ふん、愚かな」
ジオの背に庇われて見えないが、アンドリューが嘲るように笑ったのがその口ぶりでわかった。
「調子に乗り過ぎだ。少し思い知らせてやろう」
パチンと指を鳴らす乾いた音が響いた。一拍置いて地中深くで何かが蠢く音も。
「知っているか?その希少な光属性の力とやらは、優れた魔導師からすればそう特別なものでもないことを!」
アンドリューが魔法を発動したのだ。地響きがするということは土魔法、それもジオを傷つけるための。
「危ない!」
地面が割れるのか、土塊が飛んでくるのかはわからない。わからないが音のする方向からジオを守らなければ。
リーティアがジオに飛び付いて盾になろうとしたのと、地面が割れ、先の尖った木の根が飛び出してきたのはほぼ同時であった。
「あれ……?」
その根を視界の端に捉え、間も無く肩を突き刺されるのだろうと覚悟していたのに、いつまで経っても痛みが来ない。
代わりに二本の腕がリーティアを守るようにしっかりと背中に回っていた。
「ハッ!小賢しいことだ。せいぜいその子供騙しな力で粋がっているといい」
リーティアが何が起きたのか把握しきれずにいるところで、アンドリューがジオに向かって叩きつけるように言った。
思わず言い返そうとしたリーティアが振り返ろうとするも、背中に回された腕にぐっと阻まれる。
「……魔女よ。今はまだ忌まわしい壁があるが……もう少しだ。私の言葉を忘れるなよ」
そうこうしているうちに、アンドリューは不可解な捨て台詞を残して去って行ってしまった。
「……行ったようだな」
その足音が完全に聞こえなくなってから、リーティアを覆っていた両腕の拘束がふっと緩んだ。
「あっ!そうだジオ、怪我はっ」
そのことについ名残惜しい気持ちになったのも束の間、そもそも何故こんな体勢になっていたかを思い出す。
ジオに飛びつく直前に見たあの尖った木の根。アレはどうなったのか。もしリーティアを庇った腕にそれを受けていたのだとしたら。
「大丈夫。かすり傷だ。わざわざ魔法で治すまでもない」
そう思って急いでジオの腕を確認すると、右の前腕部分の制服が破れているのがわかった。
しかしサッと青褪めるリーティアに、ジオはなんてことないようにひらひらと右手を振ってみせた。
「土塊じゃなくて助かった。植物なら時が流れているから」
ジオが指差した方向を振り返れば、地中から伸びてきたものの中途半端な位置で動きを止めた木の根が所在なさげに佇んでいる。
「対象植物の時を戻す光魔法が間に合ったんだ。腕に擦りはしたが、それ以上伸びる前に戻すことができた」
この凶悪に尖った根があのスピードのまま直進して来ていたらと思うと改めてぞっとする。
いくらジオの光魔法はどんな怪我でも“怪我をする前”に戻せるとしても、受ける痛みは計り知れない。
「多分殿下は光魔法の植物の時を操る魔法を、植物を急成長させる魔法としか思っていない。だから土属性の上級魔法で同等のことができることを示したかったんだろう。土属性の、植物を恣意的に成長させて操る魔法で」
ジオの推測にリーティアも納得した。成る程それがアンドリューの一番得意な風魔法ではなく、土魔法で攻撃をしてきた理由か。
「……ごめんなさい。私を庇ったせいで、ジオまで殿下に目をつけられて、危ない目に……」
「どうしてリーティアが謝る?またあの王子が人違いをして絡んで来たんだろう。悪いのは王子の頭の方だ。君じゃない」
ジオの言葉に嘘は無い。だからこそそう言わせてしまう自分が悔しい。いつも庇われ、守られるばかりで、たとえ悪くはなくともジオにだけ負担をかけている事実は変わらない。
「でも!私がこんなに弱いから……私だってジオを守れるくらい強くなりたいのに」
「うん?なりたい、じゃあなくてもうなってるだろう。俺も何度も君に守られている」
「え?」
ジオの答えにお世辞はいらないと言おうとして、ジオが世辞でこんなことを言えるわけがないとすぐに思い至る。
しかし自分でもジオを守れたことなど、リーティアには全く覚えがなかった。
「ダンスの授業であの王子に絡まれた時、正直に答えるしかなかった俺をリーティアがフォローしてくれただろう。授業の後ついてきたハリソンとかいう霊感持ちのご令息……ご霊息?が激昂して俺に矛先が向かった時も、相手の言い分を逆手に取って逸らしてくれた。ついさっきだって、あの木の根から俺を庇ってくれたじゃないか」
「それは……でも、元々の原因は私なんだし……」
「相手を怒らせたのは俺だ。そして庇ってくれたのはリーティアだ。何か事実と違うところがあるか?」
「……!」
いいのだろうか。ジオがリーティアにしてくれたのと同じことを、リーティアもジオにできていると信じても。
「君は自分を弱いと言うが、俺はそうは思わない。あの王子や取り巻きの連中に何を言われても、君は今まで一人で耐えてきたんだろう」
まるで忠誠を誓う騎士のように、ジオがそっとリーティアの手を取る。
「どんなに辛くても逃げる方法じゃなくて、乗り切る方法を考えてる。教師に無茶な試験を課された時も最後まで努力をやめない」
男の人らしい、少し低い声。それがこんなに安心できるものだなんて知らなかった。
「頭を垂れようと決して折れない百合のようだ。出会った時からずっと、君は強くて、優しくて、眩しい程美しい」
——この人が好きだ。
これまでもきっとそうだろうと思ってふわふわしていた想いが、今この瞬間リーティアの胸の中で強烈に質量を得た。
「……ジオは」
不思議だ。この気持ちにはっきりと名前がついた途端、周りの景色も輪郭を帯びたように鮮明に見える。
「これから先も、どんな時も、他の誰が私を醜いと言っても、私を綺麗だと言ってくれる……?」
「ああ。俺は嘘をつけないからな」
そして鮮やかになった世界で、一際輝く人。
他の誰の目からどんなに醜く見えていたって、この人の目に見える自分が綺麗ならばそれでいいと、そう思えた。