番外編 夜を駆ける
リーティアと出会うより前の夜、リーティアと出会った夜、デート前夜、結婚前夜、今現在の夜。ジオの過ごした夜の話。リーティア視点の番外編『夜を超えて』と対になっています。
ピッコマアプリにてコミカライズも本日最新話更新です。ダンス授業の人違い(?)回です。よろしくお願いします!
人生で一番古い記憶に、段々と増していく寒さに触れながら、身動きも取れぬまま月の輝く夜空を見上げていた時の記憶がある。
今思い返せばそれは一歳にも満たぬ頃、孤児院の前に布で包まれて捨てられた日の記憶だろう。
どのくらいそうしていたかわからないが、寒さに耐えきれなくなる前に、温かい腕に抱き上げられたことまでを覚えている。それにとても安心したことも。
だから夜は好きだ。
ジオにとって、夜とは静かで、綺麗で、安らぎを与えてくれるものだった。
◆◆◆
王族貴族の集う学園に編入し、初めて迎えたダンスパーティの夜。
残念ながら服装の関係でパーティには参加できなかったが、そんな些細なことは完全に吹き飛ぶような出来事があった。
「まさか月の妖精に出会うとは……!」
会場から寮までの夜道を散歩している途中、まるで数瞬前に天から舞い降りてきたかのように姿を現した女の子。
この学園が国内外の雲の上の人物達が集まる場所だと聞いてはいた。しかしまさか本当に雲の上からやってくる子までいるなんて!
本人は妖精ではないと言っていたが、もしかしたら妖精は簡単に正体を明かしてはいけないという掟があるのかもしれない。それとも妖精ではなく女神とか。
ジオの中で、彼女が月を司る何らかの存在であることはほぼ確定であった。
だってあんなに光り輝いていたのに、同じ地上の生物だなんてことがあり得るだろうか?体重すらないような洗練された所作も、実は背中に見えない羽があるからと言われれば納得がいく。
本当に綺麗な女の子だった。
人間と話すことにはまだ慣れていないのだろうか。ジオの言葉に目を丸くして、慌てて自分はこの学園の生徒だと名乗っていた。
あの時にその唇から紡がれた彼女の名は。
「リーティア……」
姿形、動作だけじゃない。その声や名前に至るまで美しい。
やはり妖精だ。間違いない。
リーティアからは妖精ではなく人間であることを証明するため、明日の昼間にこの学園の制服を着て中庭に来てみせると言われてしまったが、無理はしないでほしいと思う。
明日は昼から中庭に行って、月が上る夜になるまで待っていよう。
ベッドに横になり、瞼の裏にその姿を描きながら、ジオは眠りについた。
明日、月の妖精から衝撃の事実を明かされ、更に驚くことになることもその時は知らなかった。
◆◆◆
眠ろうとしてるのに眠れないとは、こんな感覚のことだったのか。
「……今何時だ?」
ベッドの上で仰向けになってからしばらく。一向に訪れる気配の無い睡魔に痺れを切らし、ジオはパッと目を開けた。
おかしい。眠れない。明日のリーティアとのデートに備えて早く寝ようと思ったのに、今晩に限って全然眠れないのだ。
そう、デート。デートである。
休日に二人で待ち合わせをして、服屋やカフェを巡る約束をしたのだ。あの月の妖精の如く綺麗で可愛いリーティアと。
デートとは親しい男女が日時や場所、予定を決めて会うことである。だからこれはデートで間違いない。
リーティアと学園の外で会うのは初めてである。学園外ならば服も制服ではなく私服だろう。夜会のドレスやダンスの授業時の練習着は見たことがあったが、街中を歩くような私服はまだ見たことがなかった。
「楽しみだなぁ……」
それにしても眠れない。何故。
自慢になるかどうかわからないが、今まで寝起きに関して苦労したことはなかった。寝ようと思えばすぐ寝れるし、この時間に起きようと思えば大体起きれる。
下町の商屋住み込み時代、同室の同期兼親友から『体内時計まで嘘をつかない』と称された程である。いざという時の皆の目覚まし役も担っていた。寝坊しがちな親友を遅刻から救ったのも一度や二度ではない。
と、そんな昔の思い出を振り返っていてもやはり一向に眠れる気配がない。
こんな時どうすればいい?困ったことがないから対策も分からない。これは困った。とりあえず遅刻はあり得ないとして、このままではせっかくの初デートに寝不足で向かうことになってしまう。
私服のリーティアを目の前にして寝不足でうたた寝なんて……うたた寝なんて……するわけなくないか?
そう途中まで考えて、はたと気づいた。
今想像しているだけでも眠気が吹っ飛んでしまってるのである。実物を目の前にしたらこの比でないのは想像に難くない。果たして瞼を閉じる暇だってあるかどうか。ましてやうたた寝などするわけがない。
ならば今眠ろうと眠れなかろうと些末な問題であった。
ジオはほっと胸を撫で下ろし、眠れずとも特に気負わずベッドに横たわっていようと決めた。
眠れなければ朝までは長いが、リーティアのことを考えていれば時間はあっという間に過ぎるのだから、やはり問題はなかった。
◆◆◆
「ジオ君。夜分遅くにすまない。少しの時間いいだろうか」
「お義父さん。勿論です、どうぞ」
この日の夜ジオがいたのはいつもの寮の自室ではなかった。リーティアの実家、アルブム家の客室である。
急に決まったことへの諸々の準備のため、ジオはここ最近は寮より専らここに滞在することが多かった。
特に明日はその集大成と言える日であり、ジオは先程からずっと落ち着かないでいた。
そんな中、アルブム家当主、そしてリーティアの父親であるヴォルフ・アルブムがワインと二人分のグラスを手に部屋を訪ねて来たのだ。
「明日になる前に二人きりで話したくてね……君は酒は強い方かい?」
「特別強いとは思ってませんが……友人からは酔っても酔わなくても言動は変わらないと言われます」
「はは、そうだな。君は酒の力を借りずとも何でも正直に言えるのだったか」
本当に二人で話したかったのだろう。メイドを連れてきた様子もない。ジオはヴォルフからワインの瓶とグラスを受け取ると、部屋の中央にあるテーブルにそれを並べた。
「……ジオ君。勿体ぶらずに訊こう。君はリーティアのことを可愛いと思ってくれているだろうか?」
テーブルの前のソファに座り、ジオに向かいに座るよう促して、この家の当主が目を伏せて言った。
突然の問いではあったが、ジオの答えは決まっている。
「可愛いという言葉では表せないくらい、可愛くて、綺麗で、美しい人です。見た目も中身も、どんなところも」
「ははっ、即答か。安心したよ」
ジオが注いだワインを飲み干して、ヴォルフ・アルブムが感慨深げに笑う。その顔は貴族の家の当主としてではなく、ただ愛娘を思う一人の父親のようだった。
「そうだ。我が娘は可愛い。可愛いのだよ。目に入れても痛くない程……もう傷つくことなく、幸せになってほしい……娘を傷つけるような男には、どんな理由があったってやるわけにはいかない……」
「お義父さん……」
以前リーティアは、両親へ送る手紙には学園で王子達から疎まれていることは書いていないと言っていた。余計な心配をかけたくないからと。
しかしこの様子だと、もしかして両親は知っていたのではないか。知っていて、けれどどうすることもできず、歯痒い思いをしていたのでは。
「前に、リーティアから手紙が届いたんだ。友人と出かける時に誕生日プレゼントのワンピースを着てみたと。遅くなったけど改めてありがとうと」
「え?」
急に変わった話にジオが戸惑うも、リーティアの父は続ける。
「お礼の手紙なら今までもいつもプレゼントを贈ってすぐに届いていた。こんなに綺麗なものをありがとうと。……実際に着て、それが良かったと、文面から嬉しさが伝わってくる手紙は初めてだった」
空になったグラスにワインを注ごうとしたところをやんわりと制止され、静かに問われた。
「一緒に出かけた友人とは、君のことだろう」
問いの形ではあるが、言い方は既に確信を得ているようだった。
ジオが頷けば、ヴォルフ・アルブムは「ならば何も心配することはない」と穏やかに笑った。
「光の精霊に誓って嘘はつきません。幸せにします。必ず」
明日、ジオは結婚する。
あの青いワンピースの似合う、言葉に表せないくらい可愛い、初恋の女の子と。
◆◆◆
「……ジオ、起きてる?」
「ああ起きてる。君が寝るまで寝ないと言っただろ?」
王都から遠く離れた自然豊かな土地、セルヴィ男爵領にある屋敷の寝室にて。
うつらうつらと船を漕ぎ出すリーティアの髪をすきながら、愛する妻の口から零れ落ちた問いにジオはすかさず答えた。
「ワガママ言ってごめんね……ジオも眠いでしょう……」
「これくらいお安い御用だ。ワガママでもなんでもない」
ジオと過ごす時間に早く眠るのが勿体無いから、夜はもっと起きていたいと言うリーティア。
ジオとてその気持ちはとても嬉しい。しかしリーティアに無理はしてほしくない。あまり眠気を我慢するのも身体に毒だろう。
というわけで折衷案として、無理して起きはしないが、リーティアが起きてる間は必ずジオも起きていると約束したのである。
「今日が終わっても明日も明後日もある。ずっと一緒だ、焦ることない。約束しよう」
「うん……約束……うそついたら……」
ぱたりとその瞼が閉じ、リーティアの言葉が途切れる。どうやらようやく眠りに落ちたらしい。
「嘘はつかない。光の精霊と、君に誓って」
そんな可愛い妻の頬をそっと撫でて、起こしてしまわないようにジオは小さな声で囁いた。




