夜を超えて
ジオと出会う前の夜、ジオと出会った夜、デート前夜、結婚前夜、今現在の夜、リーティアの過ごした夜の話。
夜は苦手だ。
何もすることがないと嫌なことばかり考えてしまうから。
その日一日、昨日、一昨日、一年前の嫌な出来事が脳裏に蘇って繰り返され、どうすることもできずにひたすら意識がなくなるのを待つ。
リーティアにとって、夜とは暗く、長く、不安で押し潰されそうになるような、安らぎとは程遠いものだった。
◆◆◆
毎季恒例の学園のダンスパーティの日の夜。
今日もいつもと変わらない憂鬱な夜になると思っていた。
パーティで王子達と鉢合わせずに済んだことなど殆ど無い。
きっとどんな地味な格好をしていようと、どんなに目立たぬように柱の影に隠れていようと、リーティアが醜いという分かりきったことをあげつらわれ、周囲を不快にさせたとして叱責を受けるのだろう。
そんなどうしようもない一日になるのだと、既に諦めに近い気持ちで思っていたけれど。
「……変な人だったわ……」
ドレスからネグリジェに着替え、寮の自室のベッドに腰掛けたリーティアは、窓のカーテンの隙間から映る月をぼんやりと見上げた。
今日一日の印象がダンスパーティでの出来事より、その後に出会った人によってすっかり塗り替えられてしまったのだ。
『妖精だから、鏡に映らない……?』
ハッと勝手に納得したような顔をして、とんでもない結論を打ち出してきた男子生徒。最近この学園に来たばかりだと言う編入生。
リーティアを月の妖精だと言って憚らない、ちょっと心配になるくらいおかしな人であった。リーティアが誤解を解こうとすればする程『やっぱり鏡に映らないんだ』『俗世の道具じゃ妖精の美しさは表しきれないんだな』『その声も綺麗だ』とますます妖精説を強めることにしかならず、途方に暮れてしまった。
果てしのない攻防の末、月の妖精であれば出来ないであろうことは何かとリーティアが問い、昼間にこの学園の制服を着て顕現するのは無理だろうと答えを得、ではそれをしてみせるから明日の昼休みにこの場所で会おうと約束をした次第である。
もう何が何だかわからない。
もしかして彼の目には別の世界の何かが映ってるのではないか。リーティアが月の妖精だというよりずっと現実的である。
だってあり得ないではないか。この国の王子やこの学園の誰もが顔を顰めるような、不気味な白い髪と卑しい金の目の自分を綺麗だと言うなんて。
あり得ない。本当に変な人。こんなにおかしなことを全然曲げようとしない、強情で不思議な人。
そんな人と成り行きとはいえ明日も会うことになってしまった。
……今更であるが、誰かと外で待ち合わせなど生まれて初めてである。上手くできるだろうか。先に声をかけた方がいいのだろうか。もし偶然他の人も同じ場所にいて人混みに紛れてしまったらどうしよう。
いや、幸い彼の髪の色はこの学園では珍しい黒髪であったし、あの驚いた顔は脳裏に焼き付いているし、名前も聞いたのだからいざとなれば呼べばいいだけだ。
あの突拍子もなくて、強情で、真っ直ぐな目の彼の名前は。
「……ジオ」
ぽすんとベッドに寝転んで、リーティアは無意識に噛み締めるようにその名を呟いた。
◆◆◆
明日が来るのが嫌で眠れないことはあったが、明日が楽しみな場合も眠れなくなることがあるのか。
ベッドの上で意味もなく何度も寝返りを繰り返し、どうにも眠れなくなったリーティアがパチリと目を開ける。
月明かりに染まった視界の先には、カーテンレールに掛けた白いフリルと水色のワンピースがあった。
「眠れない……」
明日はジオとジオのダンスパーティ用の服を買いに行く約束である。私服で学園の外で待ち合わせていくつか店を巡る予定なのである。
男女二人、私的な用事で、服屋の後はカフェとかにも寄ろうという話にもなってて、そう、つまりデート。
デートとはお互いに好意を持った男女が関係を深める為に重ねるもの……というのを何かの本で読んだ。
そしてこのデートは殆どリーティアから誘ったようなもの。つまり『貴方に少なからず好意を抱いてます』と示したようなもので、それを喜んで受けてくれたということはジオも『貴女の好意が嬉しい』と返してくれたようなもので、そうでなくとも普段の態度からしてジオがリーティアに好意を抱いてくれているのは自惚れではなく明確であり……そんな二人が関係を深めるためにデートをするということは。
「ね、念のためよ、念のため」
考えれば考える程どうにもこうにも眠れず、リーティアはベッドから起き上がった。
そして誰が聞いているわけでもないのに一人言い訳をしつつ、以前実家から届き、ベッドサイドテーブルに置いていた菓子の詰め合わせのバスケットの中におもむろに手を入れた。
別にお腹が空いたわけではない。クッキーやパウンドケーキの包みをかき分け、リーティアが取り出したのは可愛いリボンの巻かれた蜂蜜の小瓶。
確かコレを寝る前に塗ると唇が艶々になると、幼い頃に母が鏡台の前で言っていたことを思い出しながら。
◆◆◆
「リーティア。入っていい?」
「お母さん。ええ、いいわ」
寮ではない、久しぶりの実家での自分の部屋にて。
明日に備えてもう寝ようかと思っていたリーティアは、訪ねて来た母を迎えるためにカーディガンを羽織ってドアの前に向かった。
「昼間はずっとバタバタしていたから、リーティアとゆっくり話したくて」
「うん、私も」
「お嫁に行っちゃう前に、ね」
「そうね。お嫁に行くんだものね」
悪戯っぽく笑う母に、リーティアも決まり悪げに答える。でも悪い気はしない。ちょっと恥ずかしいだけだ。
「驚いたわ。結婚だなんて、もっとずっと先のことだと思ってたのに」
「私は……ずっと先どころか、このままずっと結婚なんてできないと思っていたわ」
「リーティア」
二人で並んでソファに座り、親子のお喋りをする穏やかな時間が流れる。リーティアの母がそっとリーティアの頭を撫でた。
「今は違うのね」
「うん」
「彼のおかげ?」
「……うん」
撫でられるがまま、リーティアはそっと母に寄り添った。いつぶりだろう、まるで小さな子供のように、こんなに素直に母に甘えられるのは。
「ありがとう。こんなに急に言ったのに、お父さんもお母さんもすぐに認めてくれて」
父も母も身分に拘るような人ではないことは知ってはいたが、それでもあまりに急な話ではある。反対されたらどうしようと思っていた。
「そうねぇ。婚約の挨拶どころか、結婚したい、それも今すぐ、学園も辞めて彼に着いて行くって、まるで悪い男に騙された世間知らずの娘みたいなことを言うんだもの。お母さんびっくりしたわ」
「ご、ごめんなさい……でもジオは悪い人なんかじゃ」
「わかってるわ。そんなこと、彼の手を取る貴女の顔を見ればすぐにわかったわよ」
「お母さん……!」
驚かれはしたものの、両親はすぐに結婚を許してくれた。時間が無いとはいえ式も何も無いのは寂しいからと、屋敷内で身内だけの式を挙げる準備も。
「信じてるわ、リーティア。リーティアも彼なら信じられるんでしょう」
「そう、そうなの。この世にジオ以上に信じられる人なんていないわ」
明日、リーティアは結婚する。
今夜がリーティア・アルブムでいる最後の夜だ。
「嘘がつけない人なの。強情なくらい真っ直ぐで……私、彼じゃないと駄目なの」
「そう」
「でも正直過ぎる人だから、私がフォローしないと。彼も私じゃないと駄目なのよ」
「そうね……貴女は昔から気遣いが上手かったものね」
結婚前夜がこんなにくすぐったくて温かいものになるなど、数ヶ月前のリーティアには思いも寄らなかった。
一生結婚なんてできないか、それか、兄の結婚の邪魔にならないため、どこでもいいから労働力として貰ってくれるようなところに嫁ごうと思っていた。
「幸せにおなり、可愛いリーティア」
「うん……うん、ありがとうお母さん」
もうリーティアは不幸ではない。今でも充分幸せである。
そして明日、もっと幸せになるのだ。大好きな人の花嫁になって。
◆◆◆
「リーティア?眠れないのか?」
「……ううん。眠いけど、眠るのがもったいなくて」
セルヴィ領にある新しい小さな屋敷。その夫婦の寝室で、リーティアは閉じそうになる瞼をなんとか引き上げて起きていた。
「私ね……昔は夜が苦手だったの」
「……」
「今は大丈夫よ。あと暗闇が怖いって意味でもないわ。大丈夫だから家中の灯りをつけようとしないで待って」
言い終わるや否やベッドサイドテーブルのランプを点け、部屋全体の魔灯の点灯装置がある方向へ向かおうとした夫の夜着の裾を慌てて掴む。
「昔って言ったでしょう。今はむしろ好きよ。一日の中で一番」
「……月の妖精だから?」
「妖精説まだ諦めてなかったの」
「頭ではわかってるんだがふとした瞬間どうしてもな」
ベッドに戻ってリーティアの手を握り、ジオが大真面目な顔で言った。枕元のランプが点いたおかげでその表情がよく見える。
「それで、眠るのがもったいないって?」
リーティアの手を握ったジオが、そのまま指で手の甲をなぞって手遊びを始めた。リーティアも負けじとその指を捕まえようともう片方の手を伸ばす。
「ええ。もうちょっと、こうしていたくて」
数十分前も同じことをしていた。
それでいつの間にかうとうとしていたリーティアにジオが毛布をかけ直してくれて、眠りかけていたところだった。
「こんなふうに……ジオと他愛もないことをする時間が好きだから……すぐに終わってほしくなくて」
「そうか……だが眠いのを我慢するのは良くない。身体に悪い」
「でも……」
「じゃあこうしよう。明日の朝早く起きて、すっきり眠気のない状態でたくさんこういうことをする。そのためにも早く寝るんだ」
甲をなぞっていたジオの手がすっと離れ、リーティアが追いかけようとしたところで毛布ごとその両腕に抱き込まれた。
「良い夢を、リーティア」
「……うん……」
ああやっぱり、一日の中で夜が一番好きだ。
世界で一番安心できる体温と匂いに包まれて、リーティアは夢心地で答えた。
「明日が……楽しみだわ……」
「ああ、俺もだ」
いつのまにか夜が怖くなくなった。嫌な出来事より、楽しい出来事を思い出すようになった。不安な気持ちより、幸せな気持ちで過ごせるようになった。
「約束よ、明日は絶対早く起きてね……」
「勿論。朝を告げる鶏よりも早く起きて見せよう」
特に今日のような月の綺麗な夜は、ジオと初めて出会った時のことを思い出す。
リーティアにとって、夜とは特別で、できるだけ長く起きていたくなるような、愛する人との安らぎの時間であった。




