旅の途中3
「ん……」
窓から差し込む柔らかい光を浴び、リーティアはゆっくりと目を覚ました。
「起きたか?」
「……ジオ……?」
どこからか声が聞こえる。世界で一番安心する声が。
「眠いならまだ寝ていていい。昨夜は無理をさせて悪かった」
「うん……?」
さらりと髪を撫でられた感覚。ぼんやりした視界がはっきりしてくると、既に寝間着から着替え、ベッドの横に立ちリーティアを覗き込むジオの姿があった。
「身体は大丈夫か?どこか痛くないか?」
「ううん、大丈夫……」
髪から頬の横に移動した手のひらに無意識に擦り寄りながら夢見心地で答える。
なんだかまるで初夜を迎えた新婚夫婦の朝のようなやり取りである。そんなことを考えながらリーティアがほんのり頬を染め、た瞬間がばりと飛び起きた。
いや迎えてない、まだ迎えてないのだ!あと一歩のところで!
「あれ!?待って、もう朝!?」
「そうだ。でもそんなに焦る必要はない。あと一時間くらいは寝ていても列車の時間には間に合う」
完全に覚醒した。窓からさんさんと差し込む日差し、明るい部屋、きっちり衣服を整えたジオ。どれを取ってももうすっかり朝である。リーティアの記憶ではほんの数十秒前にジオから押し、押し倒、押し倒されたところだったというのに!
「あ、あの、ジオ、昨日の、その」
最後の瞬間頭に一気に血が上ったところまでは覚えている。そこからの記憶がない。まさかあんないいところで気を失ってしまったというのか。
「ああ。昨日は強引に進めてしまって悪かった。大丈夫だ、もうしばらくそういうことはしない。女性の方が覚悟のいることだとわかってる。いつかリーティアが本当に覚悟ができる時まで待とう」
「待っ……待って待って待って!」
「ああ、待ってる」
「違う!そっちじゃなくて!」
おそらくジオはリーティアが怖がって失神したのかと思ったのだろう。リーティアの寝間着もシーツもきっちり整えられ何の異和感もないところを見るに、あの後まったく何もせずにリーティアを寝かせてくれたのだとわかる。
「私!怖かったわけじゃなくて!こ、こんな時間だけど、今からやり直したって全然……!」
そうじゃない。怖かったわけじゃない。のぼせ過ぎただけなのだ。全然心の準備をしてなく、むしろ期待しないように努めてたところの不意打ちだったせいで。
あとあのリーティアを難なく押し倒した腕力とか、肩から胸に這っていく筋張った大きな手とか、はだけた夜着から見えた胸板とか、なんか、もう、男の人みたいで、いや出会った時から男の人なのだけども、本当にこれ以上ないくらい男の人みたいだったから。
「ありがとう、リーティア」
ふっと笑ったジオがベッドに片膝を乗せ、片腕でリーティアの肩を引き寄せた。
「……っ」
大丈夫、今度こそ覚悟はできている。勢いで言ってしまったが本当に今からでも構わない。ちょっと部屋が明る過ぎないかとか、寝汗をかいてないかとか、髪に寝癖がついてないかとか気になるところはあるがそれでも。
「今はその気持ちだけで嬉しい」
「えっ?」
額に優しくキスをされて、そのまま押し倒されると思いきやジオはパッとベッドを降りた。
「じゃあ俺は朝食を頼んで来るからその間に着替えててくれ。肉と魚だったらどっちがいい?」
「え、あ、魚で……」
「わかった」
早歩きで離れていくジオの背中を呆然と眺めてるうちに、パタンと部屋のドアが閉められ、リーティアは一人ベッドに取り残された。
「……あれ?」
まずはご飯を食べてからということだろうか。確かにその最中にお腹が鳴ったりしたら困るわけだし。
しかしそれにしてはジオの台詞がおかしい。着替えててくれとか今はその気持ちだけで嬉しいとか、どちらかと言うと今からそういうことをするというより先延ばしにしてるような……いやそう思わせておいて逆にという可能性も昨日のことを考えれば無きにしも非ず……。
「まあ……着替えてはおこうかしら……」
とりあえず言われたとおりにはしておこう。釈然としない気持ちを抱えながら、リーティアは朝の準備を済ませたのだった。
◆◆◆
結論。本当に先延ばしになっていた。
「リーティア、酔ったなら次の停留所で降りるか?顔色が悪いが」
「大丈夫……乗り物酔いじゃないから……」
現在時計の短針が円盤の左斜め上を指す頃。リーティアはジオとベッドの上……ではなくセルヴィ領行きの魔石列車に乗っていた。
「眠いなら俺の肩を使ってもいい。気にせず休んでくれ」
「うん……」
これはアレである。完全に先延ばしになったやつである。俗に言う初夜失敗の朝。いつもは心地良いジオの優しさが今回ばかりは辛い。
酔ったわけでも眠いわけでもないのだ、今リーティアの顔色が少し悪いのは。とはいえくっつける機会は逃したくないので肩は借りた。
「ジオ」
「なんだ?」
「……途中の駅で降りない?」
「ああ、やっぱり具合が悪いのか?じゃあ」
「そ、そうじゃなくて」
どうすればいいのだろう。こういうことは女側からあまりはっきり誘っていいものなのだろうか。リーティアの覚悟ができるまで待つとジオは言った。覚悟ならもうできている。ではそれを伝えるとして、どう伝えれば。今朝焦って伝えた時は、タイミングの悪さも相まって強がりだと思われてしまったわけであるし。
「ええと、具合が悪いわけじゃなくて……宿屋に寄りたくて……」
「眠いのか?」
「そうじゃなくて!」
恥ずかしさに屈しそうになるもすんでのところで踏み止まる。ここで先延ばしや遠回しにしては次なんていつになるかわからない。
リーティア・ウェールス、今こそ女を見せる時である!
「さ、昨夜の、続きを、したくて」
「!」
膝に乗せていたジオの手を掴み、上目遣いで見上げた。もうなりふり構っていられない。
「昨日は本当に、怖かったわけじゃないの。むしろ嬉しかったの。ただ、ちょっと色々あってその時するとは思ってなくて、びっくりしてのぼせちゃっただけで、全然嫌とかじゃ」
「リーティア……」
重ねた手を素早く掴み、ジオがリーティアを覗き込むようにして身を乗り出した。
熱の灯った瞳で見つめられ、リーティアの頬も熱くなる。
「……リーティア、俺は嘘がつけない」
「ええ、私もジオに嘘なんて」
「そうじゃない。誰にも嘘がつけないんだ。ちょっとした言い訳すらできないんだ、これから会う予定のセルヴィ男爵夫妻にも」
「……ジオ?」
ジオの様子がおかしい。熱が灯ったものの何故かそれに耐えてるような、珍しく焦ったような表情。それに何故このタイミングでセルヴィ男爵夫妻の話が出てくるのか。
「男爵夫妻には、昨日の昼前に出発することを手紙で伝えてる」
「え、ええ」
「途中のどこかの街に一晩は泊まるとして、この魔石列車なら普通に行けば二日で着く距離だ。今日中に着かなければ多少は心配されるだろう」
「えっと……?」
約束の時間に遅れられないという意味だろうか。もし今列車を降りて宿屋に泊まっては到着は明日以降になってしまうから。
しかしジオが伝えたのは出発日だけであり、はっきり今日までに着くと約束したわけではなさそうなのに。
「明日着くことになれば、おそらく道に迷ったのか、途中で体調を崩したのかと聞かれる。普通の男ならここで上手いこと誤魔化せるんだろう、だが……俺は……正直にしか言えない……」
「……あっ!」
そこまで言われ、リーティアはようやく理解した。ジオの懸念する事の重大さを。
……セルヴィ男爵夫妻に『遅かったね、道に迷わなかった?』とでも聞かれたら、遅れた理由をジオは正直に話すことになる。何のために列車を降りて、何をして遅れてしまったのかを。
「わ、私が上手く言ってジオには黙っててもらうとか」
「リーティアの言葉に肯定を示すこともできないんだ。ずっと黙ったまま頷くこともできない木偶のぼうになる。何よりリーティアに嘘をつかせて保身に走るのは俺が自分を許せない」
まさかこんなところで嘘がつけないことの弊害がくるとは。いくら覚悟を決めたリーティアでも未来の義両親相手にそんなことをぶちまける覚悟までは無い。
「ただでさえ光の精霊は過去に関する嘘に一番厳しい。未来は変わる可能性はあるが、もう起きた過去は変えられないからな……」
それは半ば自分にも言い聞かせているような言葉だった。痛いほど掴まれた手からジオの悔しさが伝わってくる。
しかしリーティアとてどうすることもできない。今未来の義両親に遅れた理由を正直に話すシーンを想像してみたが、どう言い繕っても挽回できない溝ができたところである。
「光魔法が使えなくなった場合は……いや駄目だ……!」
ジオもジオで嘘をついたパターンで想像してみたらしく、片手で目を覆っていた。やはり上手くいかなかったらしい。さすがに光魔法を領地で役立てるという条件で迎え入れられることになったのに、到着直後に力を失いましたでは話にならない。
万事休すであった。
「……このまま列車が止まればいいんだ」
「え?」
数分後。
しばらく二人で無言で俯いていたのち、ふらりと顔を上げたジオが据わった目で呟く。
「そうしたら途中の街に寄っても『列車が止まったせいで遅れた』ことになるだろ」
「た、たしかに」
このまま時間が止まればいいのに、などは恋愛小説でも恋人同士がよく言うセリフであるが、今回ばかりは切実さが違った。
「整備不良?燃料切れ?線路の異常?どれが一番なんの被害もなく列車が止まるだろうか」
「整備不良と線路の異常は事故の可能性があるから危ないわ。でも燃料切れだと少しは止まっても周囲の街からすぐ補給できるでしょうし」
「ここら一帯の街で燃料不足が起きてないと駄目か……どうやったらできる?」
「火魔石鉱山がなんらかの原因で封鎖されるとか……」
冗談と言うにはお互いにだいぶ本気が滲んだ話し合い。
しかしそんなジオとリーティアの思惑などどこ吹く風に、二人を乗せた魔石列車は軽やかに線路を滑って行ったのだった。




