九 かがり火
しんしんと夜は冷え込んでいく。
広場の中央には、木材で組まれたかがり火が燃え始めていた。かがり火の中央に柱が立ち、巻き付けた紙飾りが煙に煽られ揺れている。
「点火するところ、見たかったな」
行き交う人々の間を、紙袋を抱えたリオンが歩く。トナカイの面を着けたまま、かがり火のほうへ顔を向けた。
多くの人がかがり火を囲んでいる。
人だかりに飛び交う祝福の言葉。天の星の祝福を。その声は、ふたつの小さな人影の上にも落ちる。
燃え上がる炎を見上げる少女、その手を握る少年。じっとかがり火を見つめていた。
街角で見掛けた四人の辻音楽師たちは、燃えないよう肩紐でフェーレを背中へ回し、その両手を炎にかざしている。ひとりが何か言ったようで、他の三人がどっと笑う。
先行くコウが振り返った。
「間に合わなくて悪かった」
「いいよ。また来年、楽しみにしておく」
リオンがコウに駆け寄る。
革袋に引っ掛けてあったクロギツネの仮面を取り、コウへ押しつけた。彼の手の紙袋を奪い取る。
小さく息をついて、コウがクロギツネの仮面を顔にあてる。紐を頭の後ろで結んだ。
「うん。似合う、似合う」
満足そうなトナカイの額へ、クロギツネがばちんと指を弾く。トナカイは両手が料理の紙袋で塞がっていて、その攻撃を防げない。
「痛い。ひどい」
「痛くはないだろ」
「あ、ひどいのは否定しないんだ」
「何年いるんだよ。今更だろ」
「うん。知ってる」
「……否定しろよ」
くすくすと楽しそうにリオンが笑う。
広場の一角に、いくつもの円錐形の天幕が張られていた。
赤い旗がひらめく天幕の前の椅子に男が座っていた。背もたれのある、トナカイの毛皮を敷いた温かそうな椅子。男の足元、敷布の上に黒い犬が伏せている。
コウが仮面を横にずらし、天幕番の男に丸い銀のプレートを見せた。打刻された数字に天幕番が驚く。
「いい場所を取ったな、兄ちゃん。彼女か?」
天幕番がコウの後ろを見る。肩をすくめたトナカイは、紙袋をひとつコウに持たせると、その仮面を取った。
「久しぶりに会えた相棒だ」
コウの言葉に、天幕番は声を上げて笑った。
「そりゃ、すまなかった。男でも女でも、連れがいるってことは、いいことだ」
「あなたのお連れさんは、この子ですか?」
リオンがしゃがみ込み、片手で黒い犬の頭を撫でる。ぱたりぱたりと、犬は尾を振る。
「おう。何年も一緒にいる、大切な相棒だ」
天幕番は椅子から立ち上がり、後ろの天幕から角灯を取り出した。丸い銀のプレートと同じ数字が書いてある角灯に火を入れ、コウへと渡す。
「楽しめよ。夜が明けるまで」
礼を言って、コウが角灯を受け取った。リオンが最後に犬を一撫でして立ち上がる。
「行くぞ」
「うん」
立ち並ぶ天幕には数字が描かれている。
目当ての天幕を見つけると、コウは中に入り、角灯を吊るした。
フェルト生地で囲われた円錐形の空間が明るくなる。丸椅子がふたつ、小卓、火鉢が置かれていた。
小卓へ紙袋を置く。天幕からは、広場のかがり火がよく見える。
コウはマッチを擦って、乾いた薪が入れられた火鉢へ落とす。火鉢の底の小枝に火が点き、ちろちろと薪を舐め始めた。
リオンが小卓の上に紙袋を置く。
中から油紙に包まれた料理を取り出す。鴨肉の包み焼き、揚げた皮付きいも、干し葡萄のパイ、鰊の香草燻製が所狭しと並ぶ。
コウがクロギツネの仮面を外す。下ろした革袋へ片付け、代わりに蜂蜜ウォルカの瓶を手に取った。
「あ、しまった」
「なに?」
ため息と共にコウが眉を下げる。
「洋杯を借りてくるの忘れた」
「あぁ、そういうこと。大丈夫、座って」
動じないリオンに首を捻りつつ、コウは丸椅子に座る。向かいに座ったリオンが革袋から小さな包みを取り出す。
「ちゃんと準備してあるよ」
包んでいる布を取り去った。
藍色の洋杯。
火鉢の炎で、細かい銀色がきらきらと光る。
「青ガラスの洋杯は、君が星夜灯に使ったんだろう? だから、作った」
「藍色の星屑で?」
うん、とリオンが首肯した。
「こっちが本命。僕の会心の出来だよ。簡単には砕けはしない」
「そーかい」
コウは星屑の洋杯を受け取り、頭上の角灯に透かす。
「夜空の色か」
藍色のガラス、ささやかな星屑の銀。
コウが星屑の洋杯を小卓に置けば、リオンが蜂蜜ウォルカの瓶を手に取った。蓋を開け、二つの洋杯に注ぐ。たぷん、と金色の水面が揺れる。
「リオン」
「なに」
コウが手にした洋杯を、リオンの洋杯にぶつけた。
「おかえり」
驚きに息を詰めたリオンに構わず、コウは蜂蜜ウォルカへ口をつける。
「……ただいま」
リオンは手にした洋杯の中、揺れる金色を見つめる。
「君のそういうところ、ずるいと思う。最初に言ってよ」
「帰って来るって、知ってたからな。相棒」
「その確信は照れる」
はぁー、とリオンが大きく息をついた。蜂蜜ウォルカを飲み、頬を緩める。
「僕の星夜灯を作ってくれて、ありがとう」
「礼を言われる筋合いはねーよ。お前が、万星節を楽しみにしてたし」
それに、と微かな声で付け足す。
――また置いて行かれるのは、きつい。
星空の下で、フェーレの音が始まった。
四人の辻音楽師たちが楽器を弾く。かがり火を囲み、人々が手を取り合って二人組みを作る。音楽の調べに乗って、踊り出す。
早々に、誰かが相手の足を踏み、笑い声が上がった。囃したてる外野の声。
リオンが口を開く。
「師匠のことかい?」
「それもある」
「たぶん、何処かで元気でいるよ」
「……たぶんな」
ふらりと消えたあの日から。何回目かの冬の底。
「大丈夫。僕は、ちゃんとまた戻って来る」
静かな微笑みを浮かべ、リオンがかがり火を見やる。
「だって、こんなに温かい夜はない」
フェーレが奏でる、三拍子のワルツ。
遠く、かがり火に照らされて一組の男女が踊っている。
見覚えのある茶髪の彼女は、白い野ウサギの仮面を着けていた。手を取る相手は黒い野ウサギの仮面。その顔はわからない。楽しそうに、幸せそうに。音楽に合わせて、くるくると回る。
「子どもも、大人も、死者も、生者も。すべての境が曖昧になる。光と闇は分かれていても、昔と今は違ったとしても。ただ、一緒に居る。誰もが優しくなれる夜だ」
リオンの視線をたどり、コウも野ウサギの男女を眺めた。洋杯を傾け、蜂蜜ウォルカをこくりと飲む。ひそやかな甘さに包まれた強い酒気が、じんわりと腹の底を温める。
「待ち人の星夜灯」
リオンが呟く。
「誰もが、誰かを待っている。明りを灯して、待っている。……素敵なことじゃないか」
なんてね、とおどけたようにリオンは小首を傾げた。
「待つ苦しみだって、あるんだぞ」
コウの言葉にリオンが頷く。
でも、と続ける。
「待つ楽しみだって、あるだろう」
指折り数えた万星節。星の光が最も強くなる日、誓約の日。
もう一度、会えると信じて。
火を灯した制約の時間。
夜が明けるまで。
「もったいないね。せっかくコウが上手く描けた、待ち人の星夜灯なのに」
「いや、あれは砕けない」
「なんだって」
リオンの目が瞬く。