五 待つということ
ぱちぱちと、工房の暖炉の火が燃え始める。
長椅子にコウを座らせ、リオンは戸棚から薬箱を取り出した。木桶に水を汲み、清潔な布を準備する。
「いいって。自分でできる」
布を解こうとしたリオンをコウが遮る。
「それより、窯の火を強くしておいてくれ」
「でも」
「時間がないだろ。万星節は……明日だ」
わかった、とリオンは頷く。すぐに工房の奥へと消えた。その背中を見送って、コウが深く息を吐く。
縛っていた布を片手で解く。慣れた手つきで傷を水で洗う。オオカミの牙の傷は着こんでいた外套のおかげで、それほど深くはない。
「そっちの傷はどうしたの?」
背後から聞こえた声にコウは肩を跳ねさせた。
振り返れば、リオンが立っている。
「お前、気配を消すなよ」
「ねぇ。質問に答えて」
コウの左腕に走る、治りかけの切り傷。
じっと、リオンの視線が注がれる。
「……ナイフで切った」
「本当に? 知らないうちに、うっかりさんにもなったの」
「うるせーよ。仕事がいくつもあったし……、珍しくもねーだろ」
薬箱の中、軟膏の小瓶に右手を伸ばす。その小瓶をリオンが奪い取った。椅子を引き寄せ、コウの正面に座る。
「おい。火は」
「あとで燃鉱石を放り込めば、すぐ高温になる」
「いやっ、それ炉の寿命を縮めるから、やりたくねーんだけど」
「自分の寿命は縮めていいの?」
睨むリオンに、コウは口を噤んだ。
「何考えてるのか知らないけど。もっと自分を大切にしてよ、コウ」
「……お前が言うな」
かすれた彼の声に、ごめんとリオンが謝る。
軟膏を指ですくい、傷へ塗りつける。ひやりと冷たいその指に、コウは顔をしかめた。
リオンが包帯を巻き終わるのと同時に、ドアがノックされた。
「僕が出るよ」
コウは頷き、ごそごそと香り煙草を取り出す。口にくわえ、マッチを擦った。
「はい、どちら様?」
リオンがドアを開けると、手提げ籠を持ったアナが立っていた。
「あ、あの。代金を……持って来ました」
リオンの目が瞬く。
「おや、ありがとう。さ、中へどうぞ」
アナが暖炉の前へ来る前に、コウが薬箱と木桶を持って席を立つ。戸棚へと片付ける。
香り煙草をくわえたまま、カップとポットを取り出して作業机に置いた。
「昨日の今日で、よく準備できたね。大金だったでしょう?」
立ったまま、銀貨の袋を受け取ったリオンが眉を下げる。長椅子に座ったアナは首を横へ振った。
「ヨールとの結婚のために、貯めていたお金です。この使い道しかありません」
かしゃん、とポットの蓋が床に転がった。
「……悪い」
コウが蓋を拾う。水を汲んだポットを暖炉へ吊るした。
「君は座っていて」
リオンが椅子を指差す。
「いや、あとは任せた。炉の火を――」
「座っていて」
リオンが微笑んで左腕を叩けば、途端にコウが顔をしかめた。しぶしぶ椅子を引き寄せ、薄煙をくゆらせる。
「あの。もしよかったら、食べてください」
アナが手提げ籠の蓋を開け、中身を二人に見せた。覗き込んだリオンの目が輝く。
「コートファイだ」
油紙の中に、半月状のパイがあった。
羊の挽肉、みじん切りの玉ネギ、一口大のじゃがいもを辛みのある香辛料で炒め、パイ生地で包んで焼き上げたコートファイは、時間が経っても味が落ちない。働く者の強い味方。
「白熊亭って知っていますか? とびきり料理が美味しいお店だと聞いたので、作ってもらいました」
「知ってる、知ってる。ありがとう」
嬉しそうに籠を受け取ったリオンに、アナが口ごもる。
「どうかした?」
「その、えっと。申し訳なくて……」
リオンが首を捻り、コウを見る。香り煙草を指で摘まんだコウが息をついた。
「星屑探しのことか?」
アナが俯き、小さく頷いた。
「……星屑が見つからなくても、明日の万星節に間に合わなくても。来年になってもいいんです。ずっと待っていることを、伝えたくて」
アナの声が震える。
「ごめんなさい。わたし、自分のことしか、考えていませんでした。白熊亭で聞いたんです。コウさんの言う通り、ただでさえ星夜灯を作るのは、時間が掛かるって。それに、星屑を見つけるのも、危険なことだし、実際に雪崩に遭った人もいるって。オオカミも……ヨールのように、なるんじゃないかと思ったら、怖くて」
ふわりと、薄い煙が天井へ立ち上る。すっとする匂い。コウは短くなった香り煙草を暖炉の火に放った。
「……今更だけどな」
びくっとアナの肩が跳ねる。
「コウ」
リオンが視線を険しくすれば、コウは舌打ちをした。
「意地悪じゃねーし」
「八つ当たりもよくない。大人げないよ」
コウが椅子から立つ。俯いている彼女を静かに見下ろす。
「まだ陽があるから、ひとりでも街へ戻れるだろ。送ってやれなくて、悪いな」
「いえ……大丈夫です」
「明日の日暮れまでには届けるから、待ってろ」
驚いた表情でアナが顔を上げた。コウと目が合う。
「たった一日だ。一年じゃない。それぐらい、待てるだろ」
コウの言葉に、じわじわとアナの目が大きくなる。
「――はいっ」
目の端の滴を指で拭い、彼女は頷いた。
戸口でアナを見送り、リオンが振り返れば、コウが工房の奥へと向かうところだった。
「ちょっと、まだ休んでなよ。コートファイ食べてからにしたら?」
「透明と青だけでいいか?」
振り返らずに言う。
「つーか、そのふたつで限界だけど」
時間のことを言っているのだろう。リオンがため息をつく。
「……うん。お願い。星屑とアナさんの指輪は?」
「先に炉の温度を見る。持ってきてくれ」
頷くリオンへ、コウがひらひらと左手を振る。
工房の奥にある煉瓦造りの空間。
壁の上部、換気孔の板戸が開いていることをコウは確認する。
窯の様子を伺えば、煌々と炎が猛っていた。
真新しい薪がきちんとくべてある。いつの間に、とコウは思うが口には出さない。煉瓦を積んだ前扉から、圧されるような熱が放たれている。ぶわっと肌に汗がにじむ。
壁に掛けてあった拭い布を頭に巻く。
火吹き牛の鞣した革の前掛けを着け、コウは窯の中の炉を覗く。朝、起きてから放り込んでおいたガラスの欠片、石英、香木灰、石灰岩が真っ赤になって溶けていた。
適当な吹き棹で炉の中をかき混ぜる。吹き棹の先に粘り付くガラス、そのとろりとした感覚にひとつ頷く。
「炉の機嫌はどうだい?」
「……だから、気配を消すなって」
あぶねーだろ、と振り返って睨むコウへ、リオンが星屑と指輪の小袋を見せた。
「星屑は銀のやつだけでいい」
「藍色のは?」
「使わない」
コウが吹き棹を引き抜く。
「じゃあ、僕が使ってもいいかい?」
「いいけど、何に」
ふふふ、とリオンが笑みを浮かべ、星屑を隅にある小さな机に置いた。
「内緒」
「そーかよ。無駄遣いはすんなよ」
銀の星屑と指輪を受け取り、コウは炉へ近づく。
赤く溶けたガラスの中へ放り込めば、一瞬にして視界が銀色に染まった。
ごう、と窯の炎が吼える。
ちりちりちりと星屑が鳴く。
熱を増した空気に、コウは顎を伝う汗を手で拭った。リオンが壁際へ下がる。
コウが吹き棹を炉へ差す。
中で回転させ、先端にガラスを巻きつける。
赤く熱されたガラスの塊が洋梨の大きさになると、炉から取り出した。
手で吹き棹を回転させながら、棹の端を片手で覆って息を吹き込む。
ふくり、とガラスの塊が膨らんだ。
丸くひと回り大きくすると、コウはガラスの塊へ先端が平らな棹を付けた。吹き棹を切り離す。
切り口を炎で熱し、頃合いを窺う。
ガラスが橙色に輝く。
コウが素早く棹を回転させる。
遠心力でガラスが広がり、円状の平らなガラス板になった。
壁際から拍手の音がする。
「相変わらず、判断が早いね」
動きがもたつけば、ガラスはすぐ冷めてしまう。
リオンが板状になったガラスを目で追う。その透明に歪みはない。
「うん。厚さも均一だ。さすが」
「そりゃどーも」
小さな熾き火が燃える、ガラスを冷ますための窯にコウは板ガラスを入れた。
室温で放置すれば、急激な温度差にガラスが割れる。棹を取り外すと、ガラスの中央に王冠のような跡が残った。
棹を壁に立て掛けたコウが、ふらりとよろめく。頭を振って深く息を吸う。ガラスの炉は赤々と燃えている。
戸棚の引出しをひとつ開け、細かく砕いた鈷青石を炉へ放る。くすんだ銀色の小石は、煌々と赤い灼熱のガラスにすぐ溶けた。
ガラスの色が暗く、黒みをおびた赤胴色になる。
吹き棹を炉に差し、かき混ぜる。ガラスを吹き棹の先に巻きつけ、吹く。同じように、円いガラス板をもう一枚作った。青いガラスが、冷却用の窯の中に収まる。
「冷えたら、お前の出番だ。あと、頼む」
棹を杖のように支えとして、コウが息をついた。リオンが頷き、そうして訝しげに眉根を寄せる。
「……コウ?」
何かを耐えるように、彼はきつく目を瞑っていた。ずるずると、その場に膝をつく。
「コウ!」
からん、と棹が床に転がる。リオンがコウを抱きとめた。彼の体が冷たい。
「……あー、悪い。みっともねぇ……」
僅かに開いた目はぼんやりとしている。
「貧血かい?」
「ちげーよ……」
「なら、なに」
リオンが問えば、彼は唇の端を小さく歪めた。
そのまま意識を失う。




