二 丘の上の夜
アナを家まで送った足で、コウは白熊亭を訪れた。
からん、とベルが鳴るドアを開ければ、酒場特有の匂いと喧噪が体を飲み込む。肉と魚と油が混じった匂い。杯と食器と瓶がぶつかる音。そこかしこで乾杯の声が飛び交う。
カウンターの向こう、熊に似た男と目が合った。
「コウ!」
「ヤルノさん。依頼の、磨いた星夜灯を持って来ました」
コウは背負っていた革袋をカウンターに置く。
布に包まれた星夜灯のひとつを取り出し、ヤルノが検分する。
コウが店の中を見渡せば、どのテーブルも満席だった。
「心配せんでも、組合長はまだ来てないぞ」
「あの人に捕まると、怖いですから」
ヤルノが星夜灯を布でくるむ。
従業員を呼び、星夜灯を奥へと運ばせる。
「すみませんが、修理のほうは当日でもいいですか」
「構わないさ。だが、コウ。無理をするな」
短い顎ひげを撫でると、ヤルノはカウンターから身を乗り出した。
「何度も言うが。ウチの二階に越して来ないか? ここから丘の上の工房まで、通えなくはないだろう」
カウンターにもたれて、コウは香り煙草に火を点けた。強い清涼香が酒場の空気に混じる。
「ありがたい話ですが、師匠から放り投げられた工房を守らないと」
「しかし」
「俺は平気ですよ。これがある」
ふわりと漂う薄煙に、ヤルノは眉をひそめた。
「それでも限度があるだろう」
「じゃ、また来ます」
逃げ出そうとしたコウの襟首を、ヤルノの大きな手が掴んだ。
「ぐえっ」
「せめて飯ぐらい食っていけ」
香り煙草を指に挟み、コウはげほげほと咳き込む。
「やっ、今日はいいです。あいつ、待たせてるんで」
ヤルノの目が大きくなった。コウの襟首を掴んでいた手が緩む。
「……そうか。そうなのか。よし、少しだけ待ってろ。酒のツマミを包んでやる」
コウが香り煙草を吸い終わるのと同時に、ヤルノが油紙の包みを渡した。
「香草を使った鰊の燻製だ。リオンの好物だったろう」
「ありがとうございます。あと、悪いんですが。当日来ると思うので、あれ一本取って置いてもらえませんか」
にやっとヤルノが笑う。
「おう。任せておけ」
ヤルノに頭を下げ、コウは白熊亭を出た。
腰に吊っていた角灯を手に持つ。左手に抱えた油紙の包みから、香草の食欲をそそる匂いがする。
天を仰げば、雲が重く厚く垂れこめていた。
星のない黒い夜。闇夜に広場の尖塔がそびえている。広場のざわめきが、通りの先から流れてくる。
道に面した家々の窓から明りがこぼれ、街角には小さな雪洞があった。雪の室に灯された蝋燭で、ほのかに街が明るい。
ざくざくと踏みしめられた雪の上を歩き、コウは丘の上を目指す。
街を抜ければ、角灯の明り以外は闇に沈んだ。耳が痛くなるほどの無音。自分の呼吸音さえも白く凍える。寒さが突き刺さるが、リオンの外套を腰に巻いているため少しは温かい。
ぽつん、と唐突に小さな明りが見えた。
軒先に吊るした、星夜灯。
その明りを目指して歩を進める。深い夜闇と静寂の中を行けば、やがて丘の上にたどり着く。
軒先に星夜灯が灯る工房ではなく、コウは隣接した住居のドアを押し開けた。
「ああ、お帰り」
かまどに薪がくべられ、その上に吊るされた鍋がぐつぐつと煮えていた。
背もたれのない丸椅子に座り、リオンが木杓子で鍋をかき混ぜている。嗅ぎ慣れた匂いが鼻をくすぐる。
「また、じゃがいもと豆のスープか?」
「文句を言うなら、食べなくてもいいんだよ」
にこりと笑うリオンに、コウは口を引き結ぶ。
「文句じゃねーよ。定番だなって思っただけだ」
抱えていた油紙の包みをテーブルへ置き、外套を壁に掛ける。振り向けば、リオンがいそいそと包みを開けていた。
「やっぱり。鰊の香草燻製だ。これどうしたの?」
リオンの目が輝いている。
「ヤルノさんからもらった」
「へえ! 今度、会ったらお礼を言わなきゃ」
リオンが壁の戸棚から皿を出す。
「あ、コウ。かまどの中にサルタがある。焼き上がっただろうから、出して」
テーブルの上にあった板を手に取り、コウが丸椅子に座る。冷えた体が、かまどの火で温められていく。
灰かき棒で灰の中を探せば、楕円形のかたまりのサルタ――ライ麦粉を練った生地で、玉ネギとベーコンと小口鱒を包んだ包み焼きが出てきた。
板の上に取り、息で吹いて灰を飛ばす。
テーブルの上で皿に切り分ける。香ばしい匂いが漂う。ついでに、じゃがいもと豆のスープを碗へよそった。
「そういや、リオン。修理のほうは終わったか?」
「うん。明日、星夜灯に取りつければ完成」
リオンがライ麦パンを切り、その上に鰊の香草燻製を乗せた。仕上げに、たらりとオリーブ油をかける。
「あとは、お酒。お楽しみ」
何やら、リオンがごそごそと戸棚の奥を漁る。引っ張り出したものをテーブルに置く。再び戸棚を覗いた彼が声を上げた。
「あれ。ここにあった僕の洋杯は? 青ガラスのは?」
「使った」
コウがスープの碗をテーブルへ運ぶ。リオンが振り向く。
「やっぱり。君のもないじゃないか」
「いいんだよ。つーか、おい」
テーブルの上には見慣れない瓶があった。薬草のリキュールだ。
「いつの間に仕込んでやがった」
「うん? 一年前ぐらいかな」
「言えよ」
「やだよ。言ったらすぐに開けるだろう。飲み頃になるまで、待ちたかったら」
椅子に座ったコウへ、リオンが別の洋杯を手渡す。
きゅぽんと瓶の栓を開け、琥珀色の液体を杯へ注ぐ。コウが瓶の首を掴んだ。にやりと笑う。リオンが手を放すと、コウは向かいに座る彼の洋杯へ酒を注いだ。
「じゃあ、せっかちさんから飲み頃を守れたことに」
リオンが洋杯を掲げる。
「なんだよ、それ」
不満そうにコウがぼやく。
「それとも、帰って来たことのほうがいい?」
「飯が美味けりゃ、どっちでも。乾杯」
かつん、とコウがリオンの洋杯に自分のものをぶつけた。すぐ呷る。
その性急さに、リオンは微笑む。
「そうだね。乾杯」
一口飲めば、爽やかな香りが鼻に抜ける。
ほろ苦い琥珀色が喉を滑り落ちると、腹の底がかっと熱くなった。
皿の上の切り分けたサルタから、ベーコンと小口鱒の脂が溢れ出ている。リオンは重なりをフォークで崩して口に運ぶ。
ベーコンの塩味、ふっくらとした小口鱒の旨味、火の通った玉ネギの甘み。爽やかな薬草リキュールとよく合う。
「あれは、地下の物置き部屋から引っ張り出してきたのか」
コウの視線の先、階段の脇にトナカイとクロギツネの面があった。リオンが頷く。
「万星節で、また被るだろう?」
わくわくと瞳を輝かせる彼に、コウは口元を緩める。
「お前は子どもか」
「だって、楽しいじゃないか。お祭りだよ。いろんな人に会えるし」
リオンがライ麦パンに載せた鰊の香草燻製に齧りつく。幸せそうに目を細めた。
コウはスープを食べつつ訊ねる。
「どっちが、どっちだっけ」
「トナカイが僕で、クロギツネが君」
「よく覚えてんな」
「二年前でしょ。買ったのに一回しか使わなかったから、覚えてるよ」
そんなことよりも、とリオンが言う。
「探すの大変だったんだから。いくら物置き部屋でも、戸棚は開けっぱなし、書物は出して積んだままは、どうかと思う」
「悪い」
もぐもぐと口を動かしながら、コウは悪びれた様子もない。
「別にいいけどさ。星夜灯の古い書物まであったから……仕事の調べ事?」
「まぁ、そんな感じ」
「ふーん」
洋杯を傾けるコウをリオンは観察する。コウの眉が跳ねる。
「なんだよ」
「なんでもないよ」
ぺろりと、リオンが指についたオリーブ油を舐めた。コウが空になった洋杯をテーブルに置く。
「……忘れる前に、言っておくか」
コウの杯へ酒を注ぎながら、リオンが視線だけで先を促す。
「明日の朝。絶対に起こせよ」
「えっ、何だい。お酒に弱くなった?」
「そうじゃねーよ。勝手にひとりで森に行くなって話」
意外そうにリオンの目が瞬く。
「やる気があるとは思わなかった」
「あるもんか」
ぎしりと、コウの椅子の背もたれが鳴る。
沈黙が下りた。
かまどの薪が爆ぜ、壁に映る影が揺れる。
工房を残し、ふらりと師匠が行方をくらませてから、食卓を囲む影は二つ。ぼわぼわと揺らぐ黒い輪郭をコウは目でたどる。
視界の端に、トナカイとクロギツネの面が引っ掛かった。万星節で被って死者に扮するもの。二年前に使ったが、ひとりだとその存在をすっかり忘れていた。
かまどの火で室内は温かいはずなのに、凍てつく風が胸の中に去来する。
「……わかった。必ず起こす。殴ってもいい?」
リオンが拳を握ると、コウは顔をしかめた。
「やめろ馬鹿」
「冗談だよ」
拳を開き、リオンはひらりと手を振る。