十番勝負 その二
第三章 弥兵衛のこと
弥兵衛は阿呆じゃけんど、実に面白い男だっぺよ。
この男に対する人々の評価はそれであった。弥兵衛は三郎より齢は十歳ほど上で、三郎の田畑を借りて小作をしている五十人ほどの農夫の一人であった。
口を歪めると、『ひょっとこ』にそっくり、というぎょろめの男であった。
三郎が突然、弥兵衛の掘っ立て小屋にも似たあばら家に来て、これから当分、武者修行の旅に出る、ひいては、儂の従者になんねえか、と請われた時、女房にも相談せず、よかっぺ、と答えた。後で、村人に訊かれた時、小作をしているよりはずっと面白そうだっぺ、と弥兵衛はあっけらかんとした顔で当然のように答えたそうだ。
弥兵衛の従者としての主な仕事は、馬飼いを兼ねた手綱持ちと槍持ちの二つであった。
普通の武者であれば、馬の手綱持ちと槍持ちはそれぞれ役割が異なり、従者は二人というのが相場であったが、親の遺産を食い潰す徒食の身であるから、出来る限り倹約したいという三郎の言葉に、そりゃそうだっぺ、と妙に納得して引き受けた弥兵衛であった。
弥兵衛には五歳年下のかめという名の女房と、男の子供が二人居た。
武者修行の間は、世間の相場並みの給金を、吾平爺を通して、おかめに渡すから、暮らしについては何も心配も要らない、従者としての忠勤に励め、というのが三郎の言葉であった。
「だんなさまのごつごうだから、おめのところに、いづかえってくるのか、さっぱりわがんねっ。だけんど、もらえるものはちゃんともらえるというだんなさまのおはなしだから、なーんもしんぺえはいらねっ。おめはおおぶねにのったつもりでいなっ」
「そうがねえ。でも、のったつもりのおおぶねが、じつはどろぶねだったというはなしは、せけんさまにはいくらでもころがってるはなしだっぺよ。だんなさまはほんとにだいじょうぶ、け」
「くちのへらねえおなごだな、おめは。まちがいはねっ。しんぺえするんじゃねっ」
このように、女房のおかめには言ったが、実のところは、弥兵衛は弥兵衛なりに、三郎のことを心配していた。三郎旦那はどうも得体が知れねえ男だ、と思っていたのだ。
第一、背の高さがさっぱり判らねえ。おいらより、頭一つは間違い無く高い、六尺を越す大
男なのに、時によっては、おいらより、背が低く見える時がある。特に、若いおなごと話す時だ。妙に、小さく見えるのだ。齢だって、おいらより、十歳は若いはずなのに、時によっては、おいらより老けて見える時がある。特に、巾着から銭を取り出して数える時だ。妙に、年寄じみて見えるのだ。いつだったか。弥兵衛よ、それは儂が忍者であるためよ、忍びの者はこのように、背が伸びたり縮んだり見せる術も会得しているものよ、うふふ、齢もそうよ、弥兵衛、お前には分かんねえだろうがのう、うふふ、と三郎旦那は背の高さと顔をおいらの目の前で自在に変えながら、笑って言っておられた。
しかし、強い男であることは間違いねえ。おいらが保証すっぺ。武士の中の武士だっぺよ。
おそらく、岩城様のご家来衆の中でも、旦那様を打ち負かすお侍は居ねえに違いなかっぺ。
強い男じゃけんど、どうも旦那様は危なっかしくて、安心して見ては居られねえ。
人さまの言葉をそのまま信じてしまい、後は野となれ山となれ、で猪みたいに頭から突進してしまう性分なのだ。この間も、己が命を軽いものとして、愛する人のために命を捨てる、これぞ男子の本懐である、などと愚にもつかない戯言を言っていた。
また、或る時は、山より重き死もあれば、羽毛より軽い死もある、男はすべからく名誉のために死ななければなんねえ、などと命がなんぼあっても足りねえようなことを平気で言ってのける悪い癖もある。
またまた、或る時なんぞは、この世に生まれ落ちた瞬間から、余生が始まる、この世に真実があるとしたら、それは生まれたら必ず死ななければならないということだけだ、人はすべからく自分の死を常に思い浮かべて潔く行動しなければならねえ、などと恐ろしげなことを大真面目な顔で言う、鬼みたいな性格も持っている。
その反面、苦さの数だけ後悔がある、人生の最期において、儂はこのような苦さを抱かずに死んでいきたいものよ、と、聞いているおいらもついほろりとするような言葉をさりげなく呟く格好付けの性格もある。
また、こんな言葉も言っていたっけ。男はかくあるべしと決めた道をまっすぐに歩いていかなければならない。他に恥じることなく、自分に恥じることなく、天に恥じることなく、どこまでもまっすぐに。なかなか、格好いい言葉だ、とおいらも思っているけんど。
んだ、旦那様の一番悪いところは、この格好つけなんだ。
主従の別はわきまえるにしても、時としてご忠告、ご助言申し上げなくてはなるめえ、それが従者たるおいらの務めだっぺよ、と弥兵衛は岩よりも固く決心するのであった。
第四章 三郎と南郷家のこと
三郎は十歳から十五年もの長きにわたり、武術の鍛錬、修得にあたった。
この間、西の地域、上方のいろいろな噂、風評がこの岩城郡にも流れてきた。
三郎よりは少し年長であるが、織田信長という若い武将が田楽桶狭間というところで東海の驍将・今川義元を見事討ち取ったとかいう話とか、上杉輝虎(後の謙信)と武田晴信(後の信玄)という武将の軍が信州の川中島というところで大きな合戦をしたとかいう話が風のように流れてきて、岩城郡の武士を少なからず興奮させた。
しかし、岩城からは何分遠い西国の話とて、いつの間にか、人々の関心は薄れ、話は風のように軽やかに流れ去って、消えていった。
思い込んだら命懸けといったひたむきな熱意、激しい修行に耐える頑健な躰と、持って生まれた天稟の才もあってか、三郎はいずれの武術にも優れた才能を遺憾無く発揮した。
二十歳を迎える頃には、背丈も六尺ばかりに伸び、膂力は人を圧するようになっていった。
また、容貌も弥兵衛の言を借りれば、絵幟によく描かれる八幡太郎・源義家様を少し角張らした武者顔で立派な顔立ちをしてござるよ、ということで人目を惹く武者振りであった。武芸に秀でた麒麟児という噂は岩城郡の大名たる岩城重隆にまで届き、次の当主となる孫二郎親隆の側近に召抱えたいという仕官の口もかかったが、三郎はこのような仕官には全く無関心であり、丁重に断っていた。宮仕えなぞまっぴら御免、生活には何にも困っていない、気儘な暮らしが一番性にあっている、などと三郎は仕官の口を勧めてきた親類縁者にそううそぶいていた。南郷家の財政は、三郎の言う通り、確かに潤っていた。
三郎は多くを語らなかったが、数代にわたって溜め込んだ砂金の袋が三郎しか知らないところに秘密裏に隠されているという噂もあった。しかも、その砂金の量は生半可な量では無く、莫大な量だ、という話もまことしやかに囁かれていた。なんでも、その砂金というのは奥州平泉の藤原氏が滅ぶにあたって、秘かに落ち武者が馬に載せて携えてきた砂金であり、お家再興の際の軍資金であったとも言われていたが、真偽のほどは一切判っていない。
三郎もこの砂金の話となると、話は話で、噂は噂だっぺよ、おいらは知らねっ、とそらとぼける始末であった。
また、南郷家には先祖代々伝わっている家宝もあった。古代、天から降ってきた隕鉄から鍛えられた刀の大小と槍の穂先である。それぞれ、名前を持っていた。
大刀には雷神丸、小刀には風神丸、そして槍の穂先には竜神丸という名前が付けられていた。
作られた順としては、同時では無く、雷神丸が一番先で、次に、風神丸、最後に竜神丸という順であったろう。大刀は、元来は太刀造りであったが、少し磨りあげて短くして、大刀としていた。太刀造りであったためか、刀より反りが強く、優美な趣を宿していた。
但し、通常見られる鍛造、加熱後の焼入れに伴う刃文は一切無く、奇妙な渦巻き文様が何箇所かに見受けられた。刃文が無く、地色も暗く沈んだ色をしていた為、美麗な刀とは言い難かった。しかし、刃の質は非常に硬く、しかもねばさを持ち、刃こぼれとも無縁であり、従って研ぎ直しは無用であった。また、手入れをしなくとも、錆は一切出なかった。
雷神丸を強力の三郎が振るえば、鉄をも切れるとの評判も立つほどであった。
槍はその歴史も比較的新しく、この当時の新兵器とも呼べる武器であったが、正清はいろいろと工夫を施していた。すなわち、槍の穂先である竜神丸にはいろいろな長さの柄が簡単に付けられるよう、工夫がしてあったのである。三郎は長柄に竜神丸を取り付け、それをりゅうりゅうと振り回しながら、兵法の工夫であると人に自慢していた。
乱戦の際には、密集した兵の中で動きやすいように、短めの柄を付ける、広い場所での一対一の闘いの際には長柄を付ける、というのが、三郎の兵法の工夫であった。
特筆すべきは、三郎は忍術をも修得していたという事実である。
或る時、三郎の屋敷に一年ばかり、痩せて小柄な老人が逗留していたことがあった。
風間才蔵(かざまさいぞう、と呼ぶ)と名乗っていた。この老人が実は忍びの者であり、三郎に忍術を教えたのであった。忍びの者であるから、風間才蔵という名も本当の名であるかどうかは判らない。ただ、この忍びは面白い技を持っていた。自由に顔を変えられるという技であった。
顔の筋肉を自由自在に変えて、人相をまるっきり別人に変えて、人を驚かせてはニヤニヤと笑っていた。三郎の前でも、時折、老人の皺の多い顔から、のつぺりとした若い男の顔になり、三郎を驚かせたと思えば、今度はそののっぺりとした若い男の顔から、少し丸みを付けて、女の顔になり、三郎を大いに驚かせたものであった。
「三郎さま。この顔を変えるという技で、わしは何度も敵の目から逃れたことがござるのよ」
或る時なぞは、まだ若い頃であったが、と言いながら、昔語りを三郎に語ってくれた。
敵方の城の偵察に行った時のことである。雑兵の姿をして、夜忍び入ったまでは良かったのだが、うっかり合言葉を間違えてしまい、敵方の侍に追われるという仕儀に至った。
袋小路に追い詰められそうになった時、才蔵は着物を裏返しに着て、暗がりの中から追い駆けて来る敵に向かって悠然とした風を装って、歩き出した。顔は、年寄りの顔となり、歩き方も老人を装った。敵は歩いて近寄って来る才蔵に、曲者を見たか、と訊ねた。
才蔵は年寄りの声で、あちらに駆けて行った者がござる、と出て来た方角を指差しながら答えた。敵は才蔵を疑いもせず、その方角にバタバタと駆けて行った、との話であった。
この話をしながら、才蔵は今の顔から若い男の顔となり、話の終わりのほうでは、若い男の顔から、今よりもずっと年寄りの顔となり、声もずっとしわがれて話した。
少年の三郎が胸をワクワクさせながら、才蔵の話に聴き入ったことは言うまでも無い。
三郎は持ち前の好奇心と熱心さで、忍者としての修練に励んだ。
才蔵は、ふた親に早く死なれて孤児となった三郎を不憫に思ったか、修練に励む三郎の姿に教えるに足る才能を見たのかどうかは不明だが、一年の間で自分の技を全て教えた。
これは、技術を秘伝として隠すのが当たり前である忍びの者にしては稀有なことであった。
単に、三郎のまっすぐな性格を気に入り、三郎という少年が好きだったのかも知れない。
三郎さまがもう少し小柄であれば、良い忍びの者になれるのだが、惜しいことにこの背丈と重さでは、とその老人は南郷家の家宰の吾平に、惜しいことよ、と嘆いたということも後日談として伝わっている。三郎が十四、五歳の頃であったが、背丈はとうにその老人の背丈を越えていたのである。それでも、持っていた忍びの道具は全て、三郎に譲り、一年後には南郷家の者全てがもう少し居たらどうかと引き留めたにもかかわらず、飄然と姿を消した。
のんびりと生きることにも、忍びの仕事に戻ることにも飽いていたのであろうか。
浜街道を北に歩いて去っていった。その後、この老人の話は伝わっていない。
第五章 三郎の恋
三郎が恋をした。初めての恋であった。
武術の稽古に励んでいる時は、女性は稽古の妨げとばかり、雌猫或いは雌犬すら近づけなかった三郎であったが、武術が殆ど免許皆伝の域にまで達してくると、何やら心の中に喪失感にも似た虚しさを感じるようになってきた。このもやもやとした空虚感は一体何だ、何だっぺかと、三郎はつらつら考えてみた。どうも、判らなかった。
そんな折、神社の宵祭りで念仏踊りを踊り狂う男女の群れを見て、はっと気付くことがあった。女のむっちりとした丸い臀が踊りで躍動していた。臀の丸やかさが三郎の眼には眩しく映った。その時、この頃感じていた疼きにも似た心の虚しさが何であったのかを知った。
その神社には巫女が居た。
当時、歩き巫女と称して、いかがわしいなりわいをする女も居たが、その神社の巫女は神主の縁者で、歴とした武家の娘であった。名前は小百合と言い、三郎とは十歳ほど若く美しい娘であった。小さい頃の小百合は、眼は大きいが色が黒く、痩せっぽちの少女だった。
しかし、歳月と云うものは人を変える。特に、女を美しく変身させるものである。
宵祭りの薄ぼんやりとした灯りに照らされた小百合は殊のほか美しかった。
薄く白粉を塗り、口には紅をさし、長い睫毛を伏せがちに、神に捧げる舞いを天女のように厳かに舞う小百合の姿は三郎を魅了した。
その時以来、小百合は三郎にとって、唯一無二の気高き存在となった。
三郎は武術の朝稽古を神社の境内で行うようになった。毎朝、半里の道も厭わず、鎮守の杜に出かけて行った。小百合が境内を竹箒で掃いている、その傍らで、三郎は木刀を千回振り、己の健康な肉体と隆々とした筋肉を誇示するようになった。
しかし、小百合は三郎の意図に反して、何の反応も示さなかった。
いつかは、おいらに関心を持ってくれるだろうと、三郎は気長に待つこととした。
だが、いつになっても、小百合は三郎に関心を寄せる様子も、気配も無かった。
相変わらず、竹箒をせわしなく動かして、無表情な顔で境内を掃いているのだった。
そのうち、おいらの思いは必ず通じる、通じぬ思いは無いはずだっぺよ、ひたすら思えば、想いは必ず通じるものぞ、それまで、おいらは小百合殿を秘かに想い続けるのだ、と三郎は決意した。こうして、小百合という巫女は三郎の秘かな想い姫となった。
第六章 永禄十年の武者修行のこと
永禄十年(西暦で千五百六十七年)、南郷三郎正清は三十歳になった。
この年、孫二郎親隆と常陸茨城の名族佐竹から嫁いできた姫との間に男の子が生まれた。
この子が後に、左京太夫岩城常隆を名乗り、岩城家七代目の当主となる。
重隆が隠居し、親隆が岩城家六代目の家督を継いだのもこの年と云われている。
また、京の将軍、足利義輝が家臣によって弑逆されたという驚くべき知らせも風の便りで伝わってきた。足利義輝と云えば、上泉伊勢守信綱の教えを受け、更に塚原卜伝から『一の太刀』という剣の奥義を受けた剣豪としても名高い将軍であり、その暗殺の様子も甚だ驚嘆すべき様であったと云う。三好、松永の兵が屋敷に乱入し、寝所に追い詰められた義輝は数々の太刀、刀を畳に突き刺して敵を迎え討ち、刃こぼれした刀を取り替えては、敵を数限り無く切り倒した後、壮絶極まりない最期を遂げたと云われている。
旅の山伏が身振り手振りよろしく話す、義輝暗殺の仔細を聞いた三郎は大いに興奮し、山伏の話が終わるや否や、座敷から庭先に走り出て、壮烈な気合を込めて、刀を振り回したと伝えられている。山伏も三郎の突然の荒々しい振る舞いにびっくり仰天し、これは、これは、いかなることぞ、とばかり、話のお礼として家宰が差し出した銀子をあわてて懐に入れ、早々に南郷屋敷を立ち去ったとも云われている。
そんな或る日のことである。三郎は或る決心をした。
武者修行の旅に発とう、と三郎は決心したのであった。
「どうも、お前と話していると、ここ、岩城の言葉丸出しになってしまうべ。今回の武者修行の旅では、都で話されている言葉、分かり易く言えば、能とか謡で用いられる言葉を、おいら、ではなく、それがし、身共は使おうと存ずる。岩城の言葉丸出しでは馬鹿にされっぺから。いや、馬鹿にされてしまうからな」
と云うことで、三郎は岩城言葉を捨てようと心掛けていたようであるが、そのおかげで、三郎が語る言葉はどことなくぎごちなくなった。(決して、筆者の未熟な筆のせいでは無いことをお断りしておく。)
「だんなさまは、そのほうがよがっぺ。いわきことばでは、あいてに、馬鹿にされっぺから。でも、おいらはおいらで、このままでいぐから、ゆるしてくんちぇ」
「それでは、そういうことにすっぺ、いや、しようぞ。弥兵衛。さて、そろりそろりと参ろうぞ」
「んじゃ、いぐごとにすっぺか」
岩城言葉は他国の者には荒く聞こえるが、岩城の人間の気質は言葉ほど荒くは無い、親しくなれば、情が濃いことを知るだろう、ただ、その情を知るまでには時間がかかるのだ、時間と心に余裕の無い他国の者は言葉で岩城の人を誤解し失望することが多い、損な言葉であることよ、と三郎は弥兵衛の話し言葉を聴いていて思った。