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六話

 最初は、誰の声かわからなかった。


 最初は、誰の名を呼んでいるのかわからなかった。


 目を開けて、ようやく気がつく。最後に見た光景を引っ張り出して、今の現状を探った。


「雪成、起きた?」

「あ、ああ。どうなってんだこれ……」

「土砂崩れみたい。結構古いトンネルだから、先日の大雨でやられたのかも……」

「降り止んだのが昨日の夜だったか……。それにしても急すぎるだろ」


 どうやら俺たち二人はバスから投げ出されたようで、周りは土砂しか存在しなかった。他の乗客の姿も、今のところは見えない。


「そうだね……。雪成、苦しくない?」

「何言ってんだ、俺よりもお前だろ。どうなってんだこれ……」


 ずっと彼女は覆い被さっていて、汗が俺の顔にしたたり落ちてきた。額や頬の汗を手の平で拭ってやると、彼女は「ありがとう」なんて言いながら、苦痛に顔を歪めた。


 密着する腹部が湿っている。視線を彼女の顔から、下の方へと移動させた。


「見ないで……」

「見なきゃ、状況がわからないだろ」


 佳織の制止を無視して、少し観察してみる。しかし、光一つもないこんな場所では充分に観察もできなかった。


 濡れている、ということ以外はわからない。幸いにも、ズボンのポケットに入っていた携帯は取れた。


 開いてみるが、壊れてはいない。時刻を確認するが、出発してから二時間程度しか経っていなかった。


 携帯のサイドボタンを長押しし、ライト機能を使って濡れている部分を照らした。


 赤一色。


 俺の洋服も、佳織の洋服も、燃えるような赤で染まっていた。


 佳織の顔が度々歪む理由が、これでわかった。


 その場所に広がる一面の赤は、俺の物ではない。


 俺に覆い被さる彼女の腹には、大きなガラスが刺さっていた。横から突き刺さるそれは、窓硝子の破片だと容易に想像できた。


「なんで俺なんかを庇ったんだよ……」


 汗ばんでいる頬を、包み込むようにして優しく撫でた。


「私は年上だし、雪成が大事だったから……」


 こんなときでさえ、その笑顔は太陽みたいに明るくて、俺の沈んでいく気持ちを引っ張り出す。その瞳

には激励と叱咤が込められているように見えた。


 お前は、どれくらい痛い思いをしている?


 お前は、どれだけ俺を守ってくれた?


 お前は、今幸せか?


「お前は、それでいいのか……?」

「私は、雪成がいればそれでいいよ。雪成がいない方が、私は辛いから」

「お前を失った俺はどうなる?」

「雪成は大丈夫だよ。私が保証してあげよう」


 涙はない。ひたすらに笑顔を浮かべていた。


 こんなに大きな傷を負っても俺を心配して笑っている彼女。俺は彼女に何をしてあげられるだろう。


 途端に、視界が歪んでいく。


 むせかえる程に湧上がる感情が、涙になって溢れてきた。


「泣かないで? 笑顔で、ね」


 佳織は俺の胸に顔を埋め、弱々しく抱きしめる。先ほどの力強い笑みとは裏腹に、もう体力は残っていないのかもしれない。


「もう、力が入らないんだ……」

「黙ってろ」


 左腕で頭を抱きかかえて、右手で髪の毛を撫でてやる。


 覚悟が決まっているわけでもないのに、時間はただ過ぎていく。


 この状態になって四時間が経過した。


 バスから投げ出されたため、他の乗客と脱出の相談などできない。少しだけの心細さが胸中に広がって、次第に大きくなっていた。


 それどころではないんだと、俺は首を横に数度振った。弱っていく愛しい人をどうにかしたくて仕方なかった。でも、きっとどうもできない。


 見れば見るほど悲痛な、災害の爪痕。深く突き刺さるガラスを取ることもできない。


 無力だった。


 俺を抱きしめる力が、目に見えて衰えていく。


 体温が、少しずつ下がっていく。


 より強く、彼女を抱きしめた。


 そうしているうちに、俺の視界は一点の場所を捉えた。今までずっと同じ方向を向いて寝ていたものだから、まったく気付かなかった。


「おい、あれ……」


 光が、漏れている。


「ここから、出られる?」


 俺が指差す場所を見て、彼女はそう言う。


 光から離れているので、正確なことまではわからない。


 一旦佳織の体を地面に寝かせ、俺は這いずって光の元へ。


 小さな小さな光。、しかし、なんとか人ひとりは通れるだろう。


 このままいけば、間違いなく俺は助かる。


 俺は……助かる。考えただけで胸が締め付けられて、苦しくて、我慢していても涙が止らなくなってしまう。


 袖で目元を拭い、佳織の元に戻って右手を握る。反対の手を首に触れて、その話をした。俺は彼女を連れて、ここから出られるのだと歓喜に震えていた。


「――行って?」


 待っていたのは、拒絶。


「なんでそんなこと……一緒に出ればいいだろう?!」

「私はもう動けない。だから、雪成だけでも行って?」

「お前を置いていけって言うのかよ……」

「私より先に出て、私を助けてくれればいいよ」


 普通とは違う、異音を含む呼吸が痛々しい。首から伝わる脈拍の感覚が長くなってきている。彼女の胸に顔を埋めた。伝わってくる鼓動は、酷く弱かった。


「それでも……」

「言ったでしょう? 私は、貴方が大事。だから、貴方の身が保証されたら私を助けてね。強くならなきゃ」


 その笑顔は、今すぐにでも消えてしまいそうなほど儚げで、本当はもうそこにいないんじゃないのかと錯覚してしまう。


 一度目を閉じ、現実を見た。そして下唇を噛み、泣きたくなる衝動を押さえる。


「一つだけ、お願いしてもいいかな?」

「どうした?」

「沙希ちゃんにね、伝えて欲しいの」

「……言ってごらん?」

「あのね――」


 彼女の言葉が耳に入って、脳に浸透し、理解に辿り着く。俺は涙を必死に堪えて、俺は頷いた。


 抱き寄せて、そっと唇を重ねる。


「行ってくる。絶対に、戻ってくるから」


 体を離し、再び光の元へ。


 後ろを振り向くと、彼女は小さく手を振っていた。


 一緒にいたいよ。


 このままでもいいから、抱き合っていたいよ。


 だけど、二人が高確率で助かる道を探したら、これが一番なのかもしれない。どれだけ確率が低かろうと、最善手を選ぶのが大事だ。


 ここから出て、元気になったら遊びに行きたい。二人で笑い合って登下校をして、何気ない話で盛り上がるんだ。誰もいなくなった場所でキスをして、別れを告げるんだ。次の日も、そのまた次の日も、変わらない日常を繰り返したい。


 気持ちだけが先走り、体をなんとか追い付かせようとした。少しばかり体は痛むけれど、俺よりも佳織の方が痛がっている。


 早く。


 早く。


 もっと早く。


 光は差し込んでいるものの、出口は遠かった。直線だから、光があそこまで届いていただけ。


「今は、そんなことを考えている場合じゃない」


 流れる涙と汗を拭い、先を急ぐ。


 肘や膝の皮膚は剥けているだろうが、光が近付く度に気にならなくなる。頭はそのことしか考えられず、ひたすらに進み続けた。


 光を求めて前進し、手が届くところまで来た。


 これで終わるのだと、安堵した。


 これで救われるのだと、溜め息を吐いた。


 これで、佳織も助かる。


 狭い穴を抜け出せば、目が焼かれるかと思うくらいの日の光が降り注いでいた。


「乗客の方ですか?」


 救急隊員らしき人物に声を掛けられ、俺はすぐに佳織のことを説明した。すでに救助が来ていることにももちろん驚いたし、何人もの人が救助されているのを見ても驚いた。でもそんなことよりも、俺には伝えるべきことがある。



 彼女がまだ取り残されている。早く助けて欲しい、と。


 しかし、救急隊員は渋い顔をして、俺にこう言うのだ。


「地盤が緩すぎる。今はまだ、助けに行かれない」


 一言で、俺の要求は完全にかき消された。


 救急隊員は別の場所に走っていってしまった。


 また、別の隊員を捕まえる。


「お願いです、佳織がまだ中にいるんです。助けてください」

「今はまだ無理です。了承してください」


 次の隊員の服を掴む。


「お願いします! 俺の彼女がまだ中にいるんだ!」

「現状ではちょっと……」

「お願いだ! 助けを待っている人がいるんだよ!」

「申し訳ないのですが――」


 ついには、襟を掴んで揺さぶってしまった。


 それでも、誰も彼もが取り合ってはくれない。


 彼女はトンネルの中に、俺は世界に取り残されているのか?


 そんな隊員たちの対応よりも、自分の不甲斐なさが情けなくなってくる。


 涙が、頬を伝った。


「頼むよ! 誰でもいいから話を聞いてくれ!」


 気付けば、俺はそう叫んでいた。


 こんな別れがあっていいものか。俺と彼女のお話は、これから始まるんじゃないのか。まだ、まだ彼女は生きている。


 元の場所に戻ろうと、必死に藻掻いた。でも、隊員たち数名から羽交い締めにされて、注射を打たれた。


「佳織……」


 狭くなっていく視界が、怖くてたまらなかった。


 どうなってしまうんだということと、彼女との別れに恐怖しながらも、暗闇に飲まれる。


 悔しさだけが、胸を満たした。


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