四話
幾度も入眠と覚醒を繰り返して、朝がやってくる。
夢を見たような、見てないような。グラウンドで佇む誰かの姿が、おぼろげに浮かんでくる。そんな夢をみていたのかもしれないが『誰なのか』なんてわかっていた。
「松永先輩……か」
上半身だけ起こし、額に手を当ててみた。
熱はまだ残っている。目まぐるしく脳内を駆け回る痛みも、健在だ。ただ昨日よりは体が楽になっていて、起き上がるのも苦労ではなかった。昨日に比べたら、の話だが……。
昨日と同じように母親に連絡し、休ませてもらった。
軽やかにとはいかないが、階段をスムーズに下れるようになった俺は、空腹を満たすために階下に向かう。
リビングには何もなかったが、キッチンにはおかゆが用意されていた。先輩が作った残りだろう。
火を通すのも面倒だったので、茶碗一杯を電子レンジに入れる。一分程度に設定し、すこしぬるいおかゆを取り出した。
食欲もそこまでなく、事務的な食事しかできないので、そこまで温めなくてもいい。今は食事に味を求めていなかった。
ふと目に入ってきたのは、昨日の漬け物である。
手を伸ばしかけて、あの瞳を思い出した。松永先輩が常々向ける、あの瞳。俺にしか向けることのない、憎悪を含んだ光を放つ。まるであの眼光に殺されるんじゃないかと思うくらい、畏怖を感じるときがある。
そういえば漬け物が好きだったと思い出した。
俺は手を引っ込めて、おかゆだけをリビングまで運んだ。
元々少しだけ味がついているので、これだけでもなんとかなる。と言っても、風邪のせいか舌がバカになっていて、味の詳細は不明であるが……。
スプーンで口に入れ、舌で潰して胃の中に押し込む。そのおかゆからは市販の物とは違う、手作りの温かみを感じた。少しずつ少しずつ、流し込む作業を幾度となく繰り返し、時刻は八時を過ぎた。
このままいけば、明日にはよくなる。
体温計で熱を計ってみると、三十七度後半まで下がっていた。
俺は薬を飲み、また部屋へと戻っていく。
風邪をひいて寝込んだとき、優しく看病してくれたことを思い出す。
風邪をひいて寝込んだとき、不自由のないようにと看病したことを思い出す。
布団に潜って横になり、膝を抱えた。頬を撫でるように伝う涙が、寂しそうに布団を濡らす。
ありがとうと、何度言っても足りない。
ありがとうと、何度言われても嬉しかった。
そんな日々が永遠だと信じていた。俺はまだ未熟で、世間を知らない学生で、それ以上に普通を普通としか思えなかった愚かな人間だ。二人の関係が壊れて、周囲の環境が崩れていくなんて、そのときは考えもしなかった。
布団を胸元に抱き込む。
彼女の感触とは違うけれど、不思議と心が落ち着いた。
「考えるな、考えるな」
目を閉じると、雫が溢れていった。一粒二粒だった涙は、いつの間にか川のように流れていた。
別に泣きたいわけじゃないし、もう吹っ切れたはずだった。しかし、感情の揺れを感じなくても、涙することがある。俺はこれを乗り切らないといけないと、自分でもわかっているんだ。わかってはいるが、なかなか上手くいかない。
風邪薬の効果が現れ始め、眠気が襲ってくる。
胸の内に蔓延するこの気持ちを払拭したくて、微睡みに身を任せた。
心が晴れることはなくとも、和らぐことを信じて。